2 ある青年

昔から人と話すことが好きだった。知らない人と触れ合うことは新しい考え知ることにつながっていて、自分でも気が付かなかった偏見を目の当たりにすることもよくある。それを発見することがとても楽しいと思えた。友人からは、陽気なやつだとか人当たりがいいだとか言われるが、本当にその通りだと自覚済みだ。この性格を活かしたいと、接客業に絞って就活もしたくらいだ。これまで色々な仕事を楽しんだ。正確には、色々なお店といったところか。

それは、社会人になって数年が経ち、ある小さなカフェで働いていた時のことだった。そのお店によく来るお客さんがいた。その青年は、とても若かったが、とても落ち着いた雰囲気を纏っていた。そしてその瞳には眩しいほどの輝きを灯していた。惹かれた。話してみたくなった。いつも同じものを注文し、同じ席に座るその青年は、席に腰掛けるなり、PCを開き、キーボードをものすごい速さでタイプしながら、満足気に画面を見ていた。何故だろうか、その様子に惹きつけられた。羨ましくなった。いてもたってもいられなくなり、話しかけるため、青年の座る席に近づいていった。

「いつもご利用ありがとうございます。お仕事順調ですか?」

青年は少し驚いた目でこちらを見上げてきた。近くで見ると、より初々しく見えたのは気のせいだろうか。

「あ、はい。まあ好きに活動してるんで」

青年ははにかみ笑いをこちらに向けて恥ずかしそうにPCの画面をチラリと見た。でもそれは少し誇らしげにも見えた。少し前屈みになったのに気づかれないか少し不安にもなったが、それよりも話したい気持ちを制御できなかった。彼の少し高揚した頬に微笑ましくなりながら続けて尋ねる。

「どんなお仕事されてるんですか?あ、差し支えなければ…」

踏み込みすぎたと思い改まって、語尾を少し濁す。彼はそんなこと気にしていない様子で、改まったように背筋を伸ばし、PCの画面をこちらに向けてくる。

「僕、小説を書いてるんです。少しずつですが、読者も増えてきて、本屋さんにも置いてもらえたりして、本当に嬉しい限りです。」

小説を書いていると話す彼はいつになく、満足そうで、何より、嬉しそうだった。注文をする時の、あのおっとりしたものとは違い、声のトーンが高くなり、少し早口になっている。素敵だ。ただただそう思った。

「羨ましいです、すごく輝いて見えますから。」

思わずそんなことを口ずさんでいた。彼はそれを聞いてただキョトンとしていた。これまで、何の不満もなく、楽しく生きてきた。生き方にも後悔すらなかったが、彼の熱に、彼の夢に触れた時、自分の中の何かが変わっていくのがはっきりと分かってしまった。それは胸の中で蛇がうねっているような気持ち悪さと曇りきった空に一筋の光が見えたような清々しさが混ざり合ったような何とも言えない感情だった。彼と話したその日から、自分にも夢があったはずだと考えるようになった。

カフェの仕事は楽しかった。ホールだけでなくキッチンにも入り、自分で創作したデザートや料理を店長に提案し、メニューに載せてもらった事もあった。もっとしたい、自分流の何かをしたいと思うようになっていった。こんなふうに思うようになったのも、彼と話し、彼を長く見ていたからなのかもしれない。

それから数週間自問自答を繰り返し、ある答えに行き着いた。

そうだ。

洒落ていて流行にのったものよりも、長く愛されるものを作りたいと思った。常連客に居心地の良さを提供したいと思った。そんな居場所を作りたいと思った。

これだ。

夢が現実の色を纏った日だった。

入念に計画を立て、お金を貯め、インテリアを揃えていく。資格を取り、建物の間取りを考え、メニューを作った。何もかもが楽しく、ワクワクした。働いていたカフェの店長にも相談し、何が必要になるか、何が大変かを聞き漁った。

ひどく忙しい一年半を過ごした。

自分の考え抜いた喫茶店を前にした時は涙が出そうなほど嬉しくなった。周囲にチラシを配り、働いていたカフェにも宣伝してもらった。ホームページも開設した。何をコンセプトにするのかを考えるのには特にワクワクしたのを覚えている。シックな雰囲気を重視し、‘90年代の洋楽をレコードで流す。店内はまさに店主の好みでしかなかったが、それでも同じ趣味の人は多くいることは知っている。そして、彼も。彼もこの雰囲気を気に入ることはお墨付きだ。以前カフェに来ていた彼に、自分の喫茶店を開くことを話したことがあった。インテリアの写真やレコードを流したいと話すと、ものすごい勢いで賛同してくれたのだ。

そして迎えたオープン日。

すっかり寒くなった、二月一日の朝だった。

この日は特に冷え込んで、パラパラと雪が舞っていた。何より嬉しかったのは、その日、彼が僕の店に姿を現したことだった。カランと音が鳴って、ロングコートに身を包んだ彼は、数ヶ月前、最後にカフェでみた時よりも一層大人びて見えた。彼がドアを押し開けると、外の冷たい空気が店内に流れ込んできた。店内をサラッと見て、一番奥のテーブルに向かう。彼らしいと思った。その席は彼が座ることを予想して配置していたから、尚更嬉しくて心躍った。注文を取りに彼の方へ向かう足取りが、いつもよりも軽く感じた。気持ちを隠しきれていなかったのだろう。彼の座るテーブルに着くなり、彼は小動物でも見るような温かな表情を向けて、

「輝いてますよ。」

と一言。恥ずかしさのあまり慌てる。それすらも彼には微笑ましく写ってしまったらしい。彼はニコリとして続けた。

「一番おすすめの珈琲を頼みます。」

「はい!」

いつの間にか声が大きくなっていたのに自分でも驚いてしまった。耳を真っ赤にしてキッチンに戻る。渾身の一杯を作ろう、そう思えた。

店内には彼の他に一人いた。最初に来たお客様だ。テーブル席に深く腰掛け、まだ湯気の立っている珈琲を長い間見つめて、香りを楽しんでいるように目を細めている。黒いハットを机に置き、杖を隣の席にかけている。紳士のような立ち振る舞いで店に入ってきたその老人は、スラッと背が高く、少し曲がった背も気にならないほどの上品さと威厳さを兼ね備えていた。低く掠れた声で、

「珈琲を一杯頼むよ。」

と声をかけ、真ん中のテーブルに腰掛けた。その老紳士の目線を横目で感じながら、最初の一杯を淹れる。店内に珈琲の香りを漂わせる。僕が珈琲を淹れている間、老紳士は店内を見渡していた。その顔からは何の感情も読み取れなかったが、レコードから流れる音楽に合わせて足でリズムをとっていた。

「お待たせいたしました。」

と言ってカップをテーブルに運ぶ。緊張して小刻みに震える手をすぐに引っ込める。体が少し熱っているのが分かった。老紳士は、カップの中で渦巻く珈琲を少しの間見つめてから、穏やかな微笑みを浮かべてこちらに顔を向けた。

「素敵なお店が近所にできて嬉しいよ。」

そう言ってくれた。ただただ嬉しかった。ホッとして手の震えは一瞬で消えていった。背筋を伸ばし、丁寧に腰を折ってから頭を傾けた。

「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ。」

「ありがとう」

深く頷きながら老人がカップを自分の方へと近づけていた。


キッチンに戻り、また店内を見渡してみる。

きっと彼のように満足げな顔をしていただろう。


そして彼の珈琲を淹れている今もきっと同じ顔をしている。ソワソワとする気持ちが抑えられずに、彼の元に珈琲を運ぶ。彼は既にPCを広げて何やら書き込んでいるようだった。彼がキーボードを押す音が音楽の合間に入ってリズムを刻んでいるように思えた。老紳士が杖を動かすコツンという音がして、カップから珈琲を啜ったようなズッという音も聞こえてきた。

これだ。

そう気づくと口角が上がっていくのがわかっても抑えることなどできなかった。にやついたまま彼のテーブルに着いてしまって、また耳を真っ赤に染めていた。

「ごゆっくりどうぞ。」

紛らわすために声を出しても無意味だった。声が少し裏返ってしまった。彼はPCから顔を上げて、微笑んだ。

「ありがとうございます。」

そそくさとキッチンに戻る。その時またカランと音が鳴り、店のドアが開いた。二人組の男性客が姿を現した。何やら難しそうな顔をして話し込んでいたが、店の音楽を聴くなり、これこれと言い合っているのが聞こえてきた。キッチンの前のカウンターに腰掛けた二人は、一杯ずつ珈琲を注文し、レコードから流れる音楽に耳を傾けてた。ホームページを見たのかチラシを見たのか、店内で流している洋楽を聴きに訪れてきたようだった。香ばしい珈琲の香りが店内を包み込む。珈琲を淹れながら、男性たちに話しかけた。

「リクエストあれば流しますよ。」

目を輝かせながら一人の男性が、ならと、マライア・キャリーをりクエストする。レコードに向き直り、音楽を変えながら話を続ける。

「いいですよね、歌姫!やっぱりレコードで聴きたくてね、奮発しました。」

少し興奮気味になりながらも冷静な店主を装って言うと、二人も少し顔を高揚させて応えてくれた。

「いいですよね、やっぱりこの年代の曲には、音質があってるんだよ。」

「そうなんす、だからチラシ見て、これは行かないとなってなったんすよ。」

同じだ。

好きな人が集う居場所。やっぱり作ってよかった。またニヤケが止まらなくなる。また耳を赤くしながら、珈琲を淹れる羽目になった。

「ありがとうございます!ごゆっくりどうぞ!」

二人の前にカップを置きながらそれぞれと目を合わせる。

「ありがとうございます!」

「おお、香りがいいっすね!」

二人はまた向き直り、話を始めていた。二人の笑い声や興奮気味な声が店内を一層彩っていった。彼らと同じように興奮しているのを感じながらも、安心感を覚えることができた。できたという達成感や、これからの不安感も、どれも含めて不思議とホッとしていた。

その後も、数組の客が店を訪ねてきた。さまざまな風貌の人が淹れたての珈琲を楽しんでは、話に花を咲かせていた。そして、それを見て嬉しくなり、身体が熱くなるのを覚えた。1日でどっと疲れも出たが、楽しみができたことは確かだった。店仕舞いをしながら既に明日が楽しみになっていた。軽く鼻歌を歌いながら、また来てくれるかと思いを馳せた。

一階は喫茶店、二階は住居の間取りで作られた細長い建物になったここは、大通りから一つ入った路地の一角に位置している。都会の土地は高い。僕の貯金では、この広さにするのが精一杯だった。すぐそこに都会の賑やかさはあるが、目の前の道は狭く田舎道を連想させるほど静かだった。店の戸締りを再度確認してから、二階への階段を跳ねるように駆け上がる。窓からは大通りから漏れるライトで淡く明るい光が差し込んでいた。脱衣所の引き戸を引くと、冷たい空気に全身を包まれる。だが、熱を帯びた身体には、丁度よかった。洗面台の前に仁王立ちになり、手を洗いながら、ふと目の前の鏡を覗く。まだ口角が上がったままの顔がこちらを見つめてくる。ハッとして真顔を取り戻すが、頬はほんのり赤らんだままだった。トイレの前を通り過ぎ、居間へと続く扉を開ける。台所に入って、コップ一杯の水を口に含んだ。落ち着けと言い聞かせる。これから眠るというのに高揚感がおさまらないのは流石に困る。居間へと進み、小さなソファにドスンと勢いよく腰を下ろした。フーッと深い息を吐いてから、少しの落ち着きを取り戻す。まずは風呂でも入ってゆっくりしよう。その日、ベッドに入るまで、興奮が収まってくれることはなかったが、疲れは溜まっていたのだろう。明かりのない、真っ暗闇の中で暖かな毛布に包まれると、いつの間にか意識は遠のいていた。そして夢も見ないほど深く眠った。

次の日、窓から差し込む、太陽の眩しさで目を覚ました。まだ重たい瞼を押し上げて、温かい布団の中からやっとの思いで這い出る。冷たい床に素足をつけて、ベッドに座ったまま、大きくあくびをして身体を伸ばし、顔を洗いに脱衣所を目指す。眠たそうに歯を磨く虚な目が鏡越しにこちらを見返してくる様に自分でも少しビクつく。冷たい水で顔を洗い、ふかふかのタオルで顔を優しく拭きながら、昨日のことを思い出した。

「ああ!」

思わず声が出てまた驚く。

そうだ。自分の店がある。

寝起きの頭で一気に記憶を思い起こされ、現実味が増した。胸がドキドキするのが分かる。ひんやりとする床が足を包むが、身体を何故か熱を帯びているように感じた。嬉しくなり、急いで一階に降りて行きたくなった。バタバタと支度をして、出勤時間10秒の職場へと続く階段を転げるようにして駆け降りた。開店までは時間がある。開店準備をしながら、ずっとソワソワする気持ちを抑えきれなかった。テーブルを何度も拭いているのに気づいて、カウンターに戻る。今日の曲を選んで、レコードをかける。レコードから流れてくるマライヤ・キャリーの歌声を聴きながら少し落ち着きを取り戻した。カウンター席に腰掛けて大きく深呼吸する。フーッと息を吐き、ドクドクと高鳴る心臓を元の鼓動へと戻しにかかる。レコードのちょうど真上の壁にかけてある、大きな時計を見ると、開店まであと数分になっていた。

「よしっ!」

勢いよく座っていた椅子から立ち上がり、声を出して意気込む。店のドアまでの道のりは数メートルもないはずなのに、なぜか長く感じた。まだ浅く息をしながら、ドアを開け、スタンド看板を通りに向けて立てる。『closed』と書かれたドアプレートを裏返し、『open』へと変える。ドアを開け閉めするたびにベルがカランとなるのを聞きながら、冷たい空気を吸って、よく晴れた空を見上げた。いつの間にか胸の高鳴りが収まり、静かに呼吸している自分に気がついた。店に戻って、カウンター席に座り、曲を聴きながら待つ。珈琲でも淹れようかと立ち上がった時、カランと音がして店のドアが開いた。冷めた外気を背中に感じ、振り返る。冷たい空気と一緒にすらっと背の高い青年が入ってきた。ブルっと身体が震えるのがわかった。

「おはようございます。」

と聞き覚えのある声がして、顔に目を向ける。昨日と同じ灰色のコートを羽織った彼が、立っていた。手が冷たくなっているのか、両手を擦り合わせながら、ドアをくぐり抜けてくる。嬉しかった。ただただ嬉しかった。また来てくれた。

「早かったね、いらっしゃい。」

彼がニコリとして会釈した。

「昨日と同じのかな。すぐ用意するよ。」

「お願いします。」

彼は慣れたようにスタスタと店内を横切って、隅の席に陣取った。そこが彼の席になるのかと思うとまた嬉しさが高まった。珈琲の香りが店内に広がっていく。今日の始めの一杯が出来上がり、まだ湯気の立つカップを盆に乗せて彼の座るテーブルへと向かう。

「ありがとうございます。」

彼はPCをテーブルに広げて、すでにキーボードの上で忙しく手を動かしていた。それでもカップがテーブルに置かれると、律儀にも顔をあげてこちらを見上げた。

「前働いてたカフェでね、小説を書いてるって話す君を見てて、凄く感化されたんだ。夢を追いたいと思えたんだ。だから、本当にありがとう。」

彼の顔を見ると、何故か声をかけていた。息もつかずに、口をついてでた言葉は、とても不恰好だった。だが、やっと分かった気がした。昨日からの高揚感はなんだったのか。今やっと分かった気がした。彼ともっと話をしたかったのだ。彼に伝えたかったのだ。如何にしてこの店ができたのかを。彼は少し驚いたように聞いていた。それでも目を背けることもせずに、ただ聞いていた。そして一言だけ。

「嬉しいです。」

穏やかに微笑む彼はとても大人びて見えた。少し恥ずかしくなって、そそくさとその場を離れようとすると、彼に呼び止められる。

「あのっ!僕、凄くお話ししてみたかったんです。僕、人と関わるのが下手で、いつ話しかけたらいいかわからなかったんですけど…」

「えっ⁉︎」

彼の言葉に驚きを隠せず声が漏れる。彼は続けて言った。

「ただ、前のカフェで話しかけてもらった時は凄く嬉しくて、いつも明るくて常連さんにも人気者だったから、あんなふうに人と話せたらいいなって思ってて」

今度は彼が顔を赤らめる番だった。大人になると友達を作るのもこんなに下手になってしまうのかと思った。定員としての接し方とは違う。友人としての関わり方は、いつの間にか忘れていたのかもしれない。そんなふうにして不自然なほどの嬉しい偶然が、彼との繋がりを強めてくれた。開業してから欠かすことなく店に顔を出してくれる彼とは、もうすっかり気の許した関係になった。少しずつ、だが確実に、店主と常連客の関係は、親友と言っていいほどのものに変わっていった。定休日には、二人で街を歩いて、夜には酒を楽しんだ。朝まで飲み明かし、語り合った時もあった。

「賢さんはさ、かっこいいよ、ほんとに。知れば知るほどそう思う、すげーよ。」

飲んだ日は必ずそう言う。最初の印象とは似ても似つかないほどに、幼く、若々しく見える。

「もういいよ、それは。」

そう答えて二人で笑う。

「最初はすっごい大人な感じだったぞ、信だって。」

「それはただの人見知りなだけな。」

照れくさそうにそう言う信は、今ではあどけなさが勝っている。幼い頃から目立つことを嫌い、本の虫だった信は、人に話しかけることが苦手だったそうだ。そのおかげで文才を身につけ、人を観察することに長けていた。容姿や穏やかな出立は、大人びた雰囲気を醸しているが、親しくなればなるほどよく話すようになり、まだ純粋さを色濃く残した少年になる。

信の小説を読むこともあった。書店に行き、彼の本を手にとった時は、気恥ずかしいような気持ちになり、背骨に沿ってスーッとくすぐられたようなむず痒さがした。だが、一旦物語に目を向けると、引き込まれるような感覚に襲われた。あの穏やかさや幼さのない、鋭い視線で綴られた文章に触れた時は、信の新しい一面を目の当たりにした幸福感があった。

そんな日々を過ごして、何ヶ月が経ったろうか。

有難いことに客足も増え、店の回し方にもなれた頃だ。一人の女性が店に来た。見ない顔だ。ドアをすり抜ける細い身体を眺めながらそう思った。少し緊張しているようにも見えた。彼女はここを訪れる大概の人とは違って、紅茶を頼んだ。少し嬉しかった。茶葉も厳選しているから自信があった。落ち着ける空間になるといいなと思いながら彼女のためにジャスミンティーを入れる。店内にジャスミンの香りが広がり、珈琲の香りと混ざり合い、調和している。ふと信の方に目を向ける。驚いた。彼女に釘付けだ。確かに彼女は綺麗な人だった。信にとっては運命的な出会いに感じているのかもしれないと思うと、少女漫画のような出会いだと少し出来過ぎた感は否めないが、微笑ましくなった。信が彼女を一心に見つめるその目からは、これまでみたことのない温かな輝きを灯していた。カウンター席に腰掛けた彼女の前に空のカップと暖かいポットを出す。

「お待たせ致しました。」

そう言って差し出すと、彼女は少しビクッとしてカップを受け取った。信は彼女に声をかけることはなかった。ただ眺めていた。そして信の視線に気づいた彼女が、信に微笑むと、顔を赤らめた。

彼女はその日から喫茶店に顔を出すようになった。信のことが気になってか、この店が気に入ってかは分からないが、どちらでも嬉しかった。二人の若者が出会い、惹かれていく様をこの特等席で観覧できる。信の友人としては誇らしくも嬉しくもあった。

数週間が経ち、信がやっと声をかけることができた。彼女の名前は「桜依」。二人は話し始めると、閉店時間までとめどなく話し込んでいた。誰も二人の空間には入れないほどに。だが、それがとても微笑ましく、一緒に話しているわけでもないのに、不思議と笑みが溢れ、なぜか楽しくて仕方がなかった。その日を境に、二人は距離を縮めていき、遂には信が桜依ちゃんを連れて出かけるようになった。どこに行くにも一緒の二人はとても愛らしく、青春の煌めきに包み込まれていた。あどけなさの残る二人は、ただただ幸せそうに笑い合う。たまに「賢さんも!」っと誘われ、居酒屋やらに連れられる。幸せのお裾分けをされているようだった。

二人の幸せが、二人の眩しいほどの笑顔が、ずっと続きますように。

そう願った。

そして、ここが彼らの思い出の居場所になりますように。

そう願った。

それだけで満足だった。

二人の出逢いも運命だ。

だが、それ以上に、この場所を作った意味を見たかった。

二人の出逢いのためだったと思いたかった。

叶った。

そう思いたかった。

夢が叶ったと思いたかった。

これが私の傲慢さでないことを願った。

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