第25話 抜け殻の傀儡
壁際に追い詰められ、ネグロに見下ろされている。
逃げようにも腕で横を塞がれていている状態が、女性たちの憧れ……。バラッドのいう現実の女性たちのことが心配になってくる。
現実から目をそらす余裕もなく、顔を近づけた男が耳元で低く唸る。
「聡いお前なら気づいているだろう。教会は決して一枚岩ではない。聖女を擁立している一派はさほど害はないが、その裏は清らかとは言い難い。今の皇帝はそれら全てを御しきれていないからだ」
……ネグロの言葉には心当たりがあった。
何せ自分が皇太子として公務をしていた頃からそういった影は見え隠れしていた。
一方で信のおける信徒がいることも自分は理解しているが、それほどの心を傾けられる相手をネグロは教会に持てていないのだろう。
いや、教会だけではない。
今の彼が真実安寧を抱ける相手はどれほど存在しているのか。
かつては……自惚れかもしれないが、それでも心からの忠義と親愛を彼は自分に向けてくれていた。
だが、今は違う。皇帝の座は弟が継ぎ、今の私は皇太子でもなんでもない。彼の主として共に立つことはできないのだから。
あるいは──物語の主人公なら、聖女なら、彼を救うことはできるのだろうか?
《肯定します。ネグロルートではかつての主人への忠義を抱えていた彼を、時に支え、時に叱咤しながら同じ目線で国をよくするため、主人公が奮戦します。彼もまた、主人公のその姿に救済されていくのです》
──ああ。そうか。
その瞬間、ヴァイスは雷に打たれた心地だった。この場で自分が何をすればいいのか分かったからだ。
そらし続けていた視線を、彼とここではっきりと合わせる。
「…………お断りします」
「何故だ」
「教会が派閥争いの巣窟だというのなら、この騎士団はあなたという抜け殻の傀儡だ。操り人形を崇拝して支持する組織など、いつ瓦解してもおかしくない」
《……リメイク前後で大きく変化したものの一つとして、ルートに突入しなかった場合のネグロの末路があります。一定値の好感度を稼いだ上で特定のイベントを発生させない場合、彼は精神的に磨耗して倒れることになります。
ネグロという旗印を失った騎士団は、やがて崩壊していく。リメイク版によって新たに追加された分岐の一つです》
青い鳥が恐ろしい未来を奏でる。大きく変わっている彼の末路。それと私に執着する理由が同じなら。
「随分な言い様だな」
「そう言われるだけの振る舞いを、今のあなたはしていると自覚なさってください。今のあなたの行動がいなくなった主人の影を追った結果でないと、どのように俺に証明できますか?」
かつて自分が死の運命から逃れるために様々な方法を模索した時、救う側ではなく傷つける側に回ることも考えた。民を苦しめる悪逆たる皇太子。その道筋は他でもない目の前の男が不可能だと断じてきたが。
だが、今こそそれが必要なのだろう。後の聖女による救済を考えるなら、空虚に疵をつけねばならない。そしてそれが出来るのは私を置いて他にいなかった。
変化の薄い表情が、それでもはっきりと強張りを見せた。
「……たとえお前があの方に似ていようと、無能なものをこうして勧誘はしない。ユーリスもお前の有能さを十分に理解している」
「ですが、その勧誘にあなたが来る必要はない。こうして個人に目を向けるのは、およそ何年ぶりになりますか?」
虚をつかれたように息をのむ姿に胸が痛まないとは言わない。家族のように思っている相手で、誰より信頼していた騎士。不在の十二年間も心を傾けてくれた男。
だからこそ傷を広げる必要があった。救済を望まぬ男に、自らの傷の存在を気付かせるため。
「自覚なさってください。あなたは確かにヴァイス=フォルトゥナ・イラ=グレイシウスを神格視しすぎている。あなたにとってその方が真実人であったのなら、今のような愚かな道は選ばないはずだ」
「お前に……お前に!何が分かる!!あの方のことなど何一つ知らずして!!」
今にも抜刀する勢いでネグロが声を荒げる。いっそ勢いのまま私を両断してしまえば楽になるだろうに。
「知るわけがないでしょう。それでも推察は出来ます。尤も……俺の考えとヴァイス殿の像と、あなたの理想が同じならという前段はありますか」
──この後に及んでも、彼は俺を害そうとはしないのだ。胸を込み上げる感情と共に、馬鹿な子だといっそ憐憫すら浮かぶ。
「俺はあなたの元には下りませんよ、ネグロ殿。底の抜けた器に水を注ぐならよほど、多少穴が空いている器のほうがまともだからです。
それが嫌だというのなら、せめてその空白の埋め方を学ぶことですね」
ならば
……分かっている。これは彼を傷つける言葉だ。かつて彼に手を差し伸べた側である自分が告げるには、あまりに責任のない言葉だ。
だからこそ、こんな酷い男にこれ以上忠誠を誓ってくれるな。
「…………どうして」
絞り出すような声が、ネグロの口から零れ落ちる。
逃げ道を塞いでいた手が離れ、けれどもすぐに近づいて頬を撫でる。
「どうして、あの方は私に何も言わず、消えてしまったんだ」
私が持っている
「私が、あの方の信に足りない男だったからでしょうか」
ヴァイスさま、と。目の前の私を燃やし尽くすような瞳を向けながら、真実目の前の私を見てはいない。
……いや、その結果どこを見ているのかと言われたらそれも私だから、さぞややこしいのだけれど。
「……そこで事情があったに違いないと言い切れないのですね」
「私如きがあの方の心音を推察するなど烏滸がましい話だ。だから……そうだな、認めよう。お前が私の前からいつかいなくなるのではないかと、想像することこそが何より恐ろしい。聖女の娘が悪人ではないことは知っているが、所詮は教会の手勢だ」
「だから」
「確実に
「……分かっている。こんな選択をあの方が善しとする筈がない。今の私の判断は、間違っている。お前が私をおかしくしたんだ」
「何故。……どうしてそこまで、その方に執着をされるのですか」
「しれたことだ。私はあの方に救われた。……だから、あの方が救うに足る私でありたいのだ」
本当に、馬鹿な子だ。
思わず口の端が吊り上がる。
「前にも言ったでしょう。俺をかつての皇太子殿下と重ねるのはおやめください。あなたは彼に救われたといいますが……いなくなった者に心を残して引きずるのは救済ではなく依存です」
「…………はは。そうかもしれんな」
覇気なく笑うネグロの瞳は、間違いなく傷ついていた。
その姿に心臓に重石が乗ったような痛みを覚えるが、それでも、突き放さなければならない。
──ブランが皇帝となった以上、自分が彼と共にある道はないのだから。
「仕事に戻りましょう。……今任された業務まで放り投げるつもりはありませんので、安心ください」
「分かっているさ。お前はそういう男だろう」
頬を撫でていた手が離れていく。いつも通りの距離に戻れば、互いに仕事の話へとまた切り替わった。
窓際に留まる青い鳥が、高い鳴き声と共に無機質な言葉を私に向ける。
《──ちなみにですが、ヴァイス。『今のネグロが抜け殻だという指摘』『ネグロを激昂させる』『ヴァイス皇太子の救済から解放されるべきだ』という発言はネグロルートでの大きな転換点として存在しています》
(…………そうかぁ)
《はい》
言葉は少ない。少ないがふわふわとした青い毛に包まれているつぶらな目がこれ以上ないほどに訴えかけている。
曰く、お前が攻略ルートの話を進めてどうするんだ、と。
(……いや、あそこまで私に執心してしまった以上は私が突き放さないとどうしようもないだろうから……)
《否定はしません》
短いながらも視線が痛い。
それとなく
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