episode.5 提案

 ノアは直ぐに冷静さを取り戻し、質問を続ける。

「では、名前の他に何か覚えていることは? どんな些細な事でも構わない」

「歳ぐらいは……」

「幾つだ」

「十七です」

 軽く屈んだルージュが二人の会話に口を挟む。

「じゃあデビュタントは終わっていますね。社交界には必ず顔を出すようにしてるけど、僕は一度もお会いしたことないな。銀色の髪は珍しいから、何処かでお見かけしていたら間違いなく覚えているはずだから。うーん、他に思い出せる事はないですか?」

「……申し訳ありません。全く」

 勿論嘘は付いていない。だが、自分の出自に関することは本当に何一つ覚えていないのだ。自分は何者で、家がどこにあるのかすらもわからない。


「……嘘を付いている風でもないな。どうしたものか」

 ノアは額に手を当て深く溜息をつくと、引いた左足を前に出し立ち上がる。彼の体の軸は垂直に保たれたままで、所作に寸分の狂いもない。

「ただ本当に記憶が無いんだろうね。こういう時はどう対処するのがいいんだろう。僕もこんな状況初めてで分からないんだけど」

 戸惑うノアを横目に、ルージュは嬉々として思惑に耽っている。初めての状況を楽しめるタイプらしい。何やら良い考えでも思いついたのか、晴れやかな顔でリラを見る。

「そうだ。お嬢様、お腹は空いていませんか? 気分転換がてら朝食をお召し上がりになっては? お腹が膨れれば何か思い出せるかもしれませんよ」

「突拍子もないことを。ですが悪くないかもしれません」

 ノアはリラに軽く視線をやる。ルージュは大きく頷いた。

「じゃあ決まりね。……リオン! いる?」


 ルージュが扉に向かって声を飛ばす。一人の執事が部屋に入ってくると、恭しく礼をした。

「お呼びでしょうか、ルージュ様」

 腰の中程まであるグレーの長髪が麗しい、中性的な人物だ。その前髪は真っ直ぐに切り揃えられ、その一部をやんわりと片側に寄せている。切長の鋭い眼に飴細工のような琥珀色の瞳をしている彼は気怠げな雰囲気を纏っていた。部屋に系統が全て異なる美形が三人揃う。


「こちらのお嬢様に朝食を出してあげて」

「それなら既に用意が済んでおります」

「おおっ、流石! 仕事が早い」

 リラは勝手に話が進んでいく様子を呆然と眺めていた。

「あの……」

「はい!」

 執事と話をするのをやめ、ルージュは即座に威勢の良い声を返す。リラは彼とノアを交互に見る。

「お二人はもう朝食はお済みですか?」

「まだですよ」

「宜しければ一緒に食べませんか? 一人よりも皆で食べる方が、美味しく感じるでしょう?」

「いいんですか? 喜んでご一緒させて頂きます」

 隣にいるノアは相変わらず表情を変えないが、特に不満そうなわけでもない。朝食の支度の為にてきぱきと動いているルージュ達を見ている彼だけに聞こえるように小声で言う。


「――閣下、少しお話ししたいことがございます」

 彼は視線だけを此方に寄越した。先ほどと同等の圧は感じないことに少し安堵する。

「何か?」

 手当をしてもらっただけで十分だ。これ以上の厚意に預かるわけにはいかない。リラは頭の中で言葉を考え巡らせ、一言ずつ噛み締めながらゆっくりと言う。

「体調はもう大丈夫ですので、今日中には此方を出ていかせて頂きます。ご厚意に感謝申し上げます」

「行く当てはあるのか?」

「……ございません。ですが、此方を出てから探そうと思っております」


「そうか。――行く当てが無いのなら、暫く此処にいれば良い」



 温かみの無い声とは裏腹に、彼は慈悲深い提案をしたのだった。


「はい……?」

 リラは予想だにしていなかった返答に動揺を隠せなかった。彼はリラから視線を外すと淡々と言葉を継いでいく。

「冷静になって考えてみるといい。貴女はおそらく貴族の令嬢だ。街に降りたとしても、令嬢を雇ってくれる店など殆ど無い。市街で安定した生活を送れるようになるまでに、かなりの時間を要すると思うが」

 リラは声に表れる不服を隠せない。

「……やけに確信的に仰るのですね」

「身元が分からぬ以上断言はできない。故にあくまで私の憶測にすぎないが。そうだな……、その手」

 彼はリラの手に目を遣る。

「手?」

「庶民にしては貴女の手は美しすぎる。水仕事をしていたとも何か労働をしていたとも考え難い」

 リラは自身の手を見てみる。あかぎれやひび割れの一つもない綺麗な手だ。丸く切り揃えられた爪の表面は滑らかで、肌は白い。確かに彼が言う通り、労働をしていたとは考え難い。

「手入れが行き届いた長い髪もだ。それに言葉の訛りが一切ない。市井の人間の言葉には多かれ少なかれ訛りが見られるものだが、貴女にはそれもない。……他にもいくつか思うところはあるが、まだ聞くか?」

 長い銀髪は掬い取ると、指の間を滑り落ちていく。言葉の訛りは気にしたこともなかったが、そう言われればそうなのかもしれない。リラには言い返す余地もなかった。圧倒的に不足した情報量の中でここまで推察できるものなのかと、観察眼の鋭さに圧倒される。

「……もう十分です」

 反論を諦めたリラにノアは続ける。

「無理に引き止めるつもりはない。だがもし此処を出た後、行き倒れられでもすれば私としては心が痛む」

「それは……」

 リラはそうならないと直ぐに断言することは出来なかった。ノアは暫くの間リラの返答を待っていたが、沈黙を異存なしとみなしたのだった。



「生活の目処が立つまでの間、客人としてもてなそう」

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