北へ 3

 王都を出発して翌日の夜。

 ルーファスはふと、夜中に目を覚ました。


 隣からは、ヴィオレーヌのすーすーと規則正しい寝息が聞こえてくる。

 しばらくは宿を取りながらの移動だが、この先は天幕で夜を明かすことも多くなるだろう。

 宿でも天幕でもヴィオレーヌと同じ寝床を使うことになる。

 王宮で最初にヴィオレーヌの部屋で夜を明かした日こそ緊張していたようだが、あの日以降は普通に眠りについているようだ。ルーファスが何もしないとわかったからだろう。


(まあ、今から長距離を移動するというのに、妊娠させたりしたら計画が狂うからな)


 ヴィオレーヌは賢い女だ。そのくらいは予想しているようで、ルーファスが手を出すはずがないと高をくくっている節がある。

 それがちょっと面白くないと思うのは何故だろう。


 ベッドの上に広がっている彼女の紫がかった銀髪に触れる。

 しっとりと上質の絹のように手触りのいい髪を、なんとなく指に巻き付けてみた。

 出会った初日にルーファスに剣を突きつけ心臓を縛った苛烈さからは思いもよらないほど、ヴィオレーヌの寝顔は静かだ。


 いや、もともとはそれほど苛烈な性格ではないのかもしれない。

 泣き寝入りをするタイプではないようだが、攻撃してくる人間がいなければ穏やかな生活を好む性質らしいというのはなんとなくわかってきた。


 母ジークリンデとも仲良くやってくれているようでありがたい。

 父の側妃がいなくなって、ようやく落ち着いたと思えばアラベラがやって来た。

 王宮の女主人のようにふるまうアラベラは母の心労になっているだろう。

 リアーナとはそれなりにうまくやっているようだが、リアーナではアラベラを黙らせられない。


 ヴィオレーヌが正妃になると聞いたとき、彼女もアラベラのように母の負担になるのではと危惧していたが、蓋を開けてみれば意外にも王宮の調和を乱さないいい嫁だった。

 ついでにアラベラをうまくやり込めてくれるので、以前よりも居心地がよく感じる。

 加えて、剣を持たせれば一流の騎士並み、魔術は禁術まで操れるレベルで、さらに聖魔術まで使える。

 出発してすぐに、お守りだと言ってポーションを一本もらったことにも驚いた。


 ヴィオレーヌがくれたポーションは、普通のポーションとは違う特別製らしい。

 ポーションにローポーションと、それから恐ろしく値の張るハイポーションの二種類しかないと思っていたから驚いたが、これはヴィオレーヌにしか作れないと言っていた。つまりは魔術と聖魔術の両方を用いて作るのだろう。


(ハイポーションよりは劣るけれどローポーションよりははるかに高い性能のポーション、か。こんなものが出れば市場がひっくり返るが……)


 内緒にしておいてほしいと言われたので、市場に出す気はないらしい。

 ルーファスとしても、現時点でどう転ぶかわからない新しいポーションを市場に出させるつもりはないが、もしこれが市場に出ることがあれば、ヴィオレーヌの価値は格段に上がるだろう。


 もしヴィオレーヌがルウェルハスト国で確固たる地盤を築きたいのならば、あのポーションを使えば楽だろうに、それをしないのは彼女はそこまでのものを求めていないからだろうか。

 ずっとルーファスの隣にいるつもりなら、地盤固めにいそしむはずである。

 それをしないのはまるで、用が終わればさっさと消えると言っているようにも思えて――、ルーファスの胸にどろりとした感情が渦巻いた。


(子ができれば逃げられなくなるか……?)


 そんな物騒な思いが脳裏をよぎる。

 指先に巻き付けていた髪を離し、ヴィオレーヌの顔の横にとん、と手を突く。


 ヴィオレーヌが嫁いでくると決まった時、彼女の存在は国にとって害にしかならないと思った。

 同時に、マグドネル国への憎しみが胸の奥へ救っているルーファスにとって、再び戦争に持ち込みマグドネル国を完膚なきまでに叩きのめすための、格好の餌だとも思った。

 ヴィオレーヌを殺し、その首を持って宣戦布告をする。

 もしマグドネル国が戦に乗って来なければ、かの国の王家の人間を根絶やしにし、今よりももっと厳しい条約の下で縛ってしまえばいい。

 戦を仕掛け、大勢の国民を犠牲にし、ルーファスの友人の命も奪った。

 それでいて降伏し属国に下るだけの罰ですむなど、ルーファスには納得がいかない。

 せめてマグドネル国の王族だけでも根絶やしにしなければ気がすまず、ヴィオレーヌはルーファスの憎しみの犠牲にするはずだったのだ。


 ヴィオレーヌはモルディア国の王女で、マグドネル国の王家の血は引いていないが、そんなことは関係なかった。

 むしろ聖女と謳われるヴィオレーヌさえいなければ戦はもっと早く片付いていたかもしれず、彼女もまた、国民やルーファスの親友を殺した元凶の一人なのだ。

 そう――思っていた。


 だが、不思議と彼女と関わるうちに、自分の中のマグドネル国への憎しみが薄らいでいくような気がした。

 もちろん憎しみが全部消えるわけではない。

 しかし、再び戦を起こして蹂躙してやろうという気は、何故かだんだんとしぼんでいった。

 ヴィオレーヌが、敵国であったルウェルハスト国の兵たちに、惜しげもなく聖魔術を使ったからかもしれない。

 おそらく隠しておきたかったはずのその力で、死にゆくはずだった運命の兵士たちの命を救った。

 もしルーファスがヴィオレーヌと同じ立場なら、彼らが死ぬとわかっていても力は使わなかっただろう。


 モルディア国の兵士に死者が出なかったとはいえ、戦争の被害は大きい。

 敵国だった国の兵士に、慈悲をあたえるなどどうかしていると、思った。

 そして同時に、だから彼女は聖女と呼ばれているのだとも、思った。


 不思議な女。

 恐ろしく強く、苛烈な面を持ち合わせていながら、驚くほど慈悲深く優しい。


(お前は、俺の女だ)


 ルーファスの心にあるものが何なのかは、正直自分でもよくわからない。

 ただ、間違いなくルーファスはヴィオレーヌに執着をしていることだけはわかった。

 それは自分の心臓が彼女の手に握られているからではない。

 もっとこう――何か違う、決して綺麗なだけの感情が、胸の奥に渦巻いていた。


 本気になれば、ヴィオレーヌは簡単にルーファスの元から去ることができるだろう。

 彼女にはその力がある。

 悔しいが、ルーファスがいくら本気になろうとも、彼女の身を拘束することすらできないだろう。

 実力差は明白で、ルーファスは力で彼女をねじ伏せ束縛することは決してできない。

 それがルーファスをひどく焦らせ、イラつかせ――正常な思考回路を放棄させる。


 横を向いているヴィオレーヌの顎に手をかけ、くいっと上を向かせる。

 寝ている間にすべて奪われたと知れば、ヴィオレーヌはどんな顔をするだろうか。

 ぞくぞくとした興奮に似た何かが背筋に走り、そのすぐ後を罪悪感が追いかけていく。

 だが、白い肌の中のにぽっかりと浮かび上がる、薔薇の花びらのようにみずみずしい唇から目が離せず、吸い寄せられるように唇を重ねようとしたときだった。


「ニャー」


 小さな猫の鳴き声がして、ルーファスはぎくりと肩を強張らせる。

 振り向けば、大きな籠の中で眠っていたはずの黒猫が、金色の瞳をじっとこちらへ向けていた。

 いつの間にかヴィオレーヌが買い出した黒猫だ。

 ヴィオレーヌはこの黒猫を「師匠」と呼んでいたが、ルーファスにはただの黒猫にしか見えない。

 じっと見つめ返すと、黒猫がふっと口元をゆがめて笑った。


「寝ているおなごを襲うのは、男としてどうじゃろうなあ」


 黒猫の口から人の言葉が聞こえてきて、ルーファスはぎょっとした。


「ね、猫が……」

「もちろん喋るぞぃ。わしは元人間じゃからな」


 黒猫がすっと金色の瞳を細める。


「続けるというなら、わしは出て行ってやるが……、それで、本当によいのならな」

「…………」


 きゅっ、とルーファスは唇を引き結ぶ。


「ヴィオレーヌは何も言わんじゃろう。これでも一応、覚悟はして嫁いでおるはずじゃし、それがモルディア国のためになるなら、どんな理不尽でも受け入れるじゃろうて。じゃが、その瞬間、ヴィオレーヌの中でのお前さんの価値が決まる。わしにはどうでもよいことじゃがな、躊躇う気持ちがあるのなら、やり方は考えた方がいいぞぃ」


 ルーファスは大きく息を吸い込む。

 黒猫の言う通りだと思った。

 ただでさえルーファスは一度間違えているのだ。

 ヴィオレーヌの命を狙うという、一歩間違えれば取り返しのつかないことをした。

 これ以上彼女に幻滅されたくない。


 ごろん、とヴィオレーヌの横に寝転がる。

 しばらくじっとこちらを見つめていた黒猫は、ルーファスが何もせずに寝ることに決めたとわかると、体を丸めて瞳を閉じた。


 あの日、寝不足になっていたヴィオレーヌを笑ったが、どうやら今回眠れないのは、ルーファスの番らしい。




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