第十一話:無表情な彼女の陽気な両親 下




「はっはっはぁ。いやぁ、結構余ってしまったね」


 お腹をさすりながら笑う恵太さんと僕らの前には依然、揚げ物の山が残っていた。

 見た感じ半分も、下手すれば三分の一も減っていないんじゃないかというくらいだ。


「す、すみません。美味しかったんですけど元から食べる方じゃなくて……」

「いやいや、深青里君は悪くないよ。私たちが小食なんだ」

「そうそう。作りすぎた私が悪いんだから気にしないで」


 漆茨家の三人は大食いどころか見た目以上に食が細かった。

 勢いよく食べ始めた漆茨さんはすぐにペースが落ちて一番先に箸を止めていた。結さんと恵太さんもその様子を笑いながらもゆっくりと進めていく食事に量は伴わず、途中から諦めたみたいな苦笑を浮かべて雑談に花を咲かせるようになっていた。


 僕も苦しくなってからも少し頑張ってみたけれど、そもそもあまり食べる方ではない僕がそんなに食べられるのかというところでほとんど貢献できなかった。

 それでも、もしかしたら最初から余ることが前提だったのか恵太さん達が気にしている様子はない。逆にこれだけ残ったことを面白がるように笑っている。


「昔ならもっといけたかもしれないけど流石に私も歳らしいと実感したよ。良い機会だったかもしれないな、あっはっは」

「そうは言うけど恵太さん、昔から食べる量あまり変わっていないわよ」

「そうか? ははは、気のせいだったか」


 言葉を交わす二人はどこまでも楽しそうだ。

 来る前に聞いた印象よりもよっぽど元気な両親だ。


「いつもこんな感じなの?」


 隣の漆茨さんに聞いてみると彼女は静かに「うん」と頷いた。

 ポジティブというか楽観的というか、とにかく明るいから見ているこっちも楽しくなってくる。


「にしても、これだけ余ったからには、明日もたくさん食べなきゃいけないね」


 そう言いながら揚げ物を一つの大皿にまとめ始めた恵太さんは、一度その手を止めてパチンと手を打った。


「よしっ、明日は残り物祭だ!」


 それに続いて結さんが「いぇ~い!」と笑顔で、「おー」と漆茨さんが真顔で拳を高く上げた。

 リアクションが遅れた僕はなんとなく拍手してみた。なんだかそれがおかしくて笑ってしまう。

 なんだろう、残り物祭って。


 でも響きだけで明日の食事も楽しいんだろうなと想像できる。これが毎日だと僕は疲れてしまいそうだけど、また来たいと思えるくらいには楽しい想像だった。

 


「それでは、そろそろ遅くなってきたので僕はおいとまさせていただきます」


 食事の片付けが終わるのを見計らって言うと、恵太さんが「もうかい?」と時計を見上げた。

 もうすぐ二十一時になりそうだ。終電の余裕はまだあるけど、ずっといるのも申し訳ないし部屋の片付けだってある。きっとそちらの手伝いも断られるだろうから、僕がいたって邪魔になるのは目に見えている。

 そう思ったけれど、結さんは「あらあら」と頬に触れながら微笑んだ。


「深青里君が良ければまだいてくれて構わないわ。その方が樹ちゃんも喜ぶだろうし」

「というかいっそのこと泊まっていくのはどうかな? 寝間着は私用に買ってまだ着ていないものがあるからそれを使ってくれればいいし、布団も用意はあるからね」

「それもいいわね。どうかしら、深青里君?」


 恵太さんの笑顔の発案に結さんも乗っかりさらに笑みを濃くしていく。


「い、いえ、いきなりそんな、悪いですよ」

「いやいや、私たちのことは気にしないでいいよ。折角来てくれたんだから、好きなだけいて欲しいしね」

「で、でも……」


 すっかり二人は乗り気らしい。和やかな笑みを浮かべている。

 誘ってもらえる嬉しさはあるけど、なんの準備もなく突発的に宿泊させてもらうのは申し訳ない気もしてしまう。

 ご両親がいいと言っているから気にしなくてもいいのだろうか。

 どうしたものかと考えていると、結さんは漆茨さんの方を見た。


「うーん。樹ちゃんはどう思う?」

「えっ、私」


 虚を突かれた様に呟いた漆茨さんは、一度目を伏せた後、僕をジーッと見つめてきた。


「私はいて欲しい」

「だそうよ、深青里君。どうする?」

「うっ……」


 そう言われてしまうと断るという選択肢は無くなってしまう。


「……親に連絡してみます」


 言い残して廊下に出た。

 電話をかけると母さんはスマホを触っていたのかワンコールで応答した。


「もしもし母さん。ちょっと相談なんだけど」

『どうしたの珍しい。今、漆茨さんのお家でしょ?』

「そう、そのことなんだけど、泊まっていっていい?」

『えっ……』


 電話の向こうで息を呑む音が聞こえた。

 そして訝しむような声色に変わった。


『漆茨さんって女の子だったわよね?』

「……うん、そうだけど」

『…………』


 また沈黙した。

 そして、フッと軽い吐息が聞こえたかと思ったら、達観したような響きを帯びた声で静かに言われる。


『あんたにも春が来るとはね』

「今は夏だよ。暑さでボケたの?」

『いやねぇ。だってあの柊一郎が女の子の家に泊まるなんて、そんな、ねぇ……』


 なんとなくどんな顔をして喋っているのか想像がつくような粘つく声に耳を舐められて背筋がゾワッとした。


「な、なんか悪い?」

『別にぃ? ただねぇ、泊まるのはいいんだけど、粗相のないようにしなさいよねぇって言いたいだけよぉ?』

「しないよ、何も」

『どうだかねぇ』

「……切るよ」

『はいはい、楽しみなね。あっ、ちょっと待ってその前に一つ。漆茨さんのところの連絡先聞いておいて。後で私からも御礼言うから』

「分かった。それじゃ」


 電話を切ると一気に静かになった。廊下の温さのせいで余計に気だるさを感じる。 

 予想通り面倒臭い反応をされた。

 ああいうのが嫌なんだよ。

 でもとりあえず宿泊の許可はくれたし、今回は忘れることにしよう。


 そう思いながらリビングに戻ってその旨を伝えると、恵太さんは「よし!」勢いよくソファから立ち上がった。

 何をするんだろうと見ていると『深青里柊一郎君 感謝祭』の看板を外し、どこから取り出してきたのか新しい看板を同じところに引っ掛けた。

 そして笑顔で「今からは宿泊祭だ!」と言い放った。

 看板に書かれている文字は『深青里柊一郎君 宿泊祭』

 文字の墨が完全に乾いているところを見るとすでに用意されていたんだろう。最初から僕を泊めるつもりだったということだ。


 新たな祭の開催に結さんはノリノリで「わぁぁ!」と拍手しているけど、漆茨さんは驚いているのか目を開いて看板を見つめていた。もしかしたら漆茨さんにだけ伝えられていなかったのかもしれない。

 というか何でもかんでも祭になるんだな、漆茨さんの家では。

 一体一日に何個の祭が生まれているんだろう。毎日何かしらやっていそうだし年間通すと千を超えそうだ。



 

 何度か断ったけれど、客人兼主役だからと一番風呂を進められて僕はまたまたお言葉に甘えることになった。

 風呂から出ると次は漆茨さんが入るらしく、廊下ですれ違う時に「私の部屋で待ってて」と言われた。分かった、と答えちゃったけどよくよく考えたら僕は彼女の部屋がどこだか知らない。

 引き返して聞こうと思ったけど、すでに脱衣所に入って扉を閉めていた。きっと入浴の準備が始まっているだろう。そんな状態の本人に聞くわけにはいかない。


 そっちは諦めて僕はリビングにいる両親に聞いてみることにした。

 リビングに入ると冷房から送り出された空気が火照った身体には心地よく感じた。

 恵太さんと結さんはダイニングテーブルにかけて話していた。

 僕が話しかけてもいいものかと逡巡している間に恵太さんの方が気付いて笑いかけてきた。


「お風呂は快適だったかな?」

「はい、おかげさまでとても。一番に入らせてもらって本当にありがとうございました」

「気にしなくていいんだよ。僕らがいいと言ったのだからね。それよりちょっと時間いいかな。今のうちに話がしたいんだ」


 そう言いながら恵太さんはリビングのドアの方を、厳密にはおそらく風呂場の方に目をやった。漆茨さん抜きで話したいということなのだろうか。

 僕には断る理由がないし、漆茨さんの部屋で一人だけで待つのは落ち着かなさそうだから丁度いいかもしれない。

 でも漆茨さんがいないうちに話したい事ってなんだろう。


 気になりながら「はい、構いません」と答えると、恵太さんは安堵したように「ありがとう」と微笑んで座るように促してきた。


「まずは飲み物を用意しようか。深青里君はコーヒーと紅茶、どちらが好きかな?」

「それならコーヒーでお願いします」

「分かった、ちょっと待っていてね」


 三人分のコーヒーを淹れてきた恵太さんは僕の正面、そして結さんの隣に座り、それぞれの前にコップを置いた。夕食の時と同じ席だ。

 ただ、さっきとは雰囲気が全く違う。

 僕の前に座る二人は今も笑顔を作っているけど、食事中のような太陽光みたいに元気なものではなく、より自然で落ち着いた月明かりみたいに穏やかな微笑だ。

 その落ち着きそのままに、しっとりとした調子で恵太さんが口を開いた。


「じゃあまずは、樹と仲良くしてくれて本当にありがとう」

「いえ、こちらこそ漆茨さんにはとてもお世話になっているので」


 恵太さんは「ふふっ、そうか」と肩をすくめて続ける。


「今年に入ってから樹はとても楽しそうでね。あぁ見えても、今までとは比べものにならないくらい元気なんだ。それは深青里君のおかげだよね」

「そう、ですかね?」

「えぇ。樹ちゃん、いつも深青里君の話しかしないから。深青里君が、深青里君がーって楽しそうに。不器用だったりちょっとデリカシーがなかったり、鈍感なところがあったりって、色々聞いているのよ?」

「うっ……」


 結さんに微笑まれて恥ずかしくなってくる。

 もしかして僕の悪いところばかり言われているんじゃないか。


「もちろんそれだけじゃないよ。深青里君は感情表現が出来ない樹を受け入れて一緒にいてくれている。それはとても、あの子にとってはとてもとても大きなことなんだ。それが嬉しいんだよ、樹は。小学生の頃からずっと、表情のない変な子だと避けられてしまって友達がいなかったからね。いじめはなさそうだったからまだ良かったんだけども、やはり可哀想だったよ」

「そう、ですか……」


 そういえば、確か漆茨さんは無表情になったのは小学生に入る前だと言っていた。

 その時期も友達を作れなくなった時期も僕と同じだ。

 今更そのことを思い出して、渦巻きだした世界移動と無表情とが関連している説が僕の中で強くなる。

 そこで思考を働かせる前に、結さんの声が続いた。


「だからね、私たちは心配だったの。これからもずっとそうなっちゃうのかなって。でも深青里君が転校してきてくれて樹ちゃんと仲良くしてくれて、あの子が生き生きし始めたから本当に嬉しかったし、ホッとしたの。もしかしたら、樹ちゃんがこうなってしまったのは私たちのせいだったのかもしれないから、なおさらね」

「えっ……どういうこと、ですか?」


 思わぬ言葉に頭が強く弾かれた様な気がした。

 この二人は漆茨さんが感情を出せなくなった理由を知っているのか?

 だとしたらどうして、どうやってそうなった?

 恵太さんは結さんと見合わせると、静かに口を開いた。


「樹が小学生になる直前の春休みに木ヶ暮市主催の遠足会に参加したんだ」

「えっ……?」


 衝撃が続いて頭が真っ白になりそうになる。


「あの年から北側の旧木ヶ暮市と南側の旧森原市が合併してね、その記念として合併後の木ヶ暮市内の小学生までの子供のいる家族を対象とした木ヶ暮山に登るイベントがあったんだよ」

「し、知っています。僕も、参加していたので……」

「深青里君も?」


 山登りといっても山頂にある木ヶ暮神社までちゃんと舗装された参道があり、それを上って降りてくるという簡単なものだったはずだ。

 それ以上のことは詳しく覚えていない。

 でもあの遠足に漆茨さんの無表情の原因があるとするなら、僕の世界移動の原因さえあの時にあるのかもしれない。

 僕は思わず息を呑んで恵太さんを見た。

 彼は「あぁ」と納得いったように頷いた。


「そういえば小学生の頃まで木ヶ暮市に住んでいたんだっけね」

「あっ、はい、住んでいたのは森原の方でしたが」

「となると、もしかしたら私たちは一度会っていたのかもしれないね」


 そう笑った恵太さんは、顔をしかめて言いづらそうに口を開く。


「それに参加している時だったのだけどね、私の不注意で樹が迷子になったんだ。結がトイレに行っている間、私は樹といたのだけどタイミング悪く仕事の電話がかかってきてしまってね、私は出てしまった。その数分、私が目を離してしまったばかりに樹はどこかに行ってしまったんだ」

「そう、なんですか……」


 恵太さんは長く息を吐いて机の上で拳を握った。

 その震える手を取って、結さんが後を引き継ぐ。


「その後、市のスタッフの方も協力してくれて、しばらく探しているうちにね、樹ちゃん、ひょっこり茂みの中から出てきてくれたの。安心したんだけど、その時にはもう喋り方と表情が今みたいになっていて……」


 結さんは一度言葉を切って困ったように笑った。


「あの時は大変だったわ。どこの病院に行っても、原因は分からない、おそらく精神的なものだろうって言われるばかりで治す方法が分からないんだもの。きっと迷子になっている間に相当怖い想いをしたんじゃないかって想像するしかなくて、でも樹ちゃんに聞いてもそんなことはないって言われちゃって。どうすれば元に戻ってもらえるのかも分からなくて。しまいにはあなたが目を離したから悪いんだ、いやいや結が遠足に行こうなんて言いだしたから、だなんて毎晩恵太さんと本気で喧嘩して。離婚するかどうかってところまでいったくらい。でも、そういう時に何度も樹ちゃんが来て言ってきたの。悲しいから喧嘩しないでって。あの真顔で言われちゃうとね、私たちの方が悲しくなっちゃってね。一番辛いのは樹ちゃんなのに、何しているんだろう、なんでこの子に私たちが心配されているんだろう、普通逆じゃないかって」


 顔を上げていた恵太さんは結さんと肩をすくめて微笑んだ。

 それから真っ直ぐ僕を見た。優しい瞳が僕を映している。


「その時に決めたんだ、樹が元に戻るまで笑えなくなったあの子の代わりに私たちが精一杯笑っていようと。そうやって楽しく過ごしているうちに僕らの笑顔が伝染してあの子も一緒に笑ってくれたらいいなって思いながらね」

「なるほど、だから……」


 今日この家に入ってから漆茨さんの両親はずっと笑っていた。無邪気にくすぐったそうに、楽しそうに面白がるように、祭を開催して笑い続けていた。

 ふと、小さい頃見た戦隊ものの主人公が言っていた台詞を思い出す。


『悲しさとか苦しさは笑顔で塗り替える事が出来るんだ。笑っているうちに人は嬉しくなってそれはどんどん周りに広がっていく。そうやって人はみんな幸せになるんだ』


 確か敵幹部の一人との戦闘中に出てきた台詞で、それをきっかけに幹部は主人公達の仲間になったはずだ。まさか敵が仲間になるとは思っていなかった僕は当時凄く衝撃を受けたし、その台詞が格好いいなと憧れもした。

 そんなヒーロー達と同じように、この両親は漆茨さんを助けて支えている。直接的に解決は出来ないかもしれないけど、漆茨さんの心は間違いなく救われているはずだ。


「私と結は奇妙に見えたかな?」


 無表情を貫くしかない娘に対して異様に明るく元気な両親。

 それだけ聞くと確かに奇妙なのかもしれない。

 それでも。


「いえ、とても優しくて温かいご両親だと思いました」


 この家に来てから驚かされたこともあったけど、決して変だとは思わなかった。

 そして理由を知った今はもっと強くそう思う。

 漆茨さんのことを純粋に想っているのだから間違いない。


「嬉しいことを言ってくれるね、深青里君は。こうやって樹のことも受け入れてくれたのかな」


 呟くように言って、恵太さんはコーヒーを一口飲むとゆっくりと息を吐いた。


「すまなかったね、こんなつまらない話を聞かせてしまって。でも、樹と一緒にいてくれて、もしかしたら今の表情の変化を生んでくれたかもしれない深青里君にはどうしても話しておきたかったんだ」

「いえ、謝らないでください。僕も聞けて良かったので」

「なら感謝にしておくよ。本当にありがとう」

「ありがとうね、深青里君」


 恵太さんに合わせて結さんも頭を下げた。

 その姿に僕は胸を突かれて耐えられなくなった。

 自分の中にある言葉がまとまらないまま口からこぼれていく。


「あの、僕も本当に漆茨さんに感謝しているんです。僕は人の顔を見るのが怖くて、仲良くすることにも怯えていて、毎日が不安だったんです。でも漆茨さんは特別で、顔を見ても話しても全然怖くなかったから、そのおかげで僕は普通に学校に通えているし、少しずつ頑張って人と話せるようになりたいって、思うようになれたんです。だから、本当は感謝するのは僕で、漆茨さんがいてくれなきゃ困るのも僕の方で、ずっといて欲しいって、思っているので……あれっ?」


 何言っているんだろう、僕。

 とんでもないこと言ってしまった気がする。

 途端に顔が熱くなっていく。いや、顔だけじゃない。全身暑くて汗が噴き出してくる。

 恐る恐る目の前の二人を見ると、特に結さんの方がきょとんとした顔を浮かべていた。

 でもすぐににっこりと微笑んだ。


「深青里君も樹ちゃんのこと、大切に想ってくれているのね」

「は、はい……」


 顔の熱さを感じながら俯く。

 とんでもなく恥ずかしいけど、言ったことは嘘じゃない。紛れもない本心だ。

 漆茨さんがいてくれたから僕は少しずつでも変わろうと思えたし、その先でいつか一緒に笑い合いたい。他の世界では出来ているように、この世界でもそうしたい。


「深青里君がいてくれれば樹も安心だな」

「そうね、これからも樹ちゃんのこと、よろしくお願いするわね」


 恥に喉が引きつって上手く声が出せずに俯いたまま一度だけ大きく頷いた。

 その時ガチャリと音がしてリビングのドアが開き、漆茨さんが入ってきた。

 それから僕らを見て一瞬固まった。


「話していたの」


 その言葉に結さんがクスクスと笑った。


「あらあら、今日はいつもより早いわね」

「そんなことない……多分」

「そうかしら?」


 時計を見上げて揶揄うように笑う結さんを見るにきっといつもより早かったんだろう。

 半目を母親に向ける漆茨さんの反応からしても図星っぽい。

 そんな無言の抗議を割くように、恵太さんは目を輝かせて立ち上がった。


「あまり気にしなくていいよ、樹。私たちは三人で懇親祭を開催していだけだからね」

「……気にする。変なこと話してない」

「うふふ、大丈夫よ。話していたのは樹ちゃんと深青里君がとーーっても、仲良しだってことだから」

「なっ……」


 結さんの言葉に漆茨さんは口をパクパクさせて僕を見てきた。

 否定するのはなんだから僕はあははと愛想笑いを返す。

 しばらく金魚みたいにパクパクしながら震えていた漆茨さんは口を閉じると、早足で僕の前に来て手首を掴んだ。


「早く部屋、行こう」

「う、うん、分かった」


 返事が完了する前に引っ張り立たされて連れて行かれる。

 僕を掴む漆茨さんの手は少し震えていてやけに熱く感じた。僕の腕も同じくらい熱く感じられているかもしれない。


「二人ともお休み」

「ゆっくり休むのよ」


 背中からかけられた二人の声に振り向くと、恵太さんと結さんは笑みを浮かべていた。

 穏やかな、優しい笑みだった。


「はい、おやすみなさい」


 僕も笑って挨拶を返した。

 胸をくすぐるような恥ずかしさのせいで照れ笑いみたいになった。




   *  *  *




「な、何言われたの」


 漆茨さんの部屋は二階にあるらしく、僕は手を掴まれたまま階段を上がっていた。

 その途中、上を見たままの漆茨さんに問いかけられた。


「えっと、普段の様子について話したり、あとは仲良くしてくれてありがとうって丁寧に言われたくらいかな」

「そ、それだけ」

「うん、それだけ」

「……ならいい」


 もう一つ話題があったけどそれは言う必要はないだろう。本人にとってもあの二人にとっても、僕にとっても気持ちが良い話ではない。

 代わりに笑って伝える。


「本当にいい両親だね」

「えぇ、私もそう思う」


 そう話しているうちに二階につき、漆茨さんは一番奥の部屋へと向かった。

 入るとすでに冷房をつけてくれていたようで快適な空気に包まれた。それになんだか自然な甘い香りがしてドキドキする。


 部屋は全体的に明るい色でまとめられていてベッド周りはライムグリーンで統一されていた。ベッドの端にサングラスをかけた真っ白いチンアナゴのキャラクターみたいな細い生き物のぬいぐるみが置かれている。僕は知らないキャラクターだけど好きなんだろう。


「あまりジロジロ見ないで。恥ずかしい」

「ご、ごめん、つい……」


 ベッドに座った漆茨さんに視線を向けると、もじもじしながら胸元のリボンを弄っていた。

 さっき学んだから分かる。

 これはきっとあれだ。


「パジャマも可愛いね」


 さっきよりはより自然に言えた気がする。直前までもっと恥ずかしいことを言ってしまったおかげで照れが緩和されているからだろうか。

 漆茨さんのパジャマは大小様々な白い水玉がちりばめられたピンク色の上下共通したデザインだった。胸元の透け感のあるリボンがまた可愛らしい。


「あぅ……」


 襟を弄る指を止めて固まった漆茨さんは頭から布団を被って丸くなった。

 そして「ん~~~」とくぐもった呻き声を上げながら数秒その中でモゾモゾ蠢いてから顔を出した。


「ありがとう」


 口調と真顔のせいで何でもなさそうに聞えるけどきっと嬉しかったんだろう。

 顔と行動のギャップがおかしくて笑ってしまった。


「なんで笑うの」

「いや、何でもない」


 というかそれどころじゃない。

 もっと気にしなきゃいけない光景が目の前にある。


「……そういえばさ、どこで寝るのか聞いていなかったけど、もしかして漆茨さんとこの部屋で?」


 すぐ足元、ベッドの横に布団が敷いてあった。

 この状況を見るからに、僕のために敷いてくれているものなんだろうという事は分かる。

 分かるけど果たしてそれでいいのだろうか。

 漆茨さんは布団の中から這い出てベッドの縁に座った。


「嫌」

「そういうわけじゃないけどさ、漆茨さんとしてはいいのかなって」

「どうして」

「なんというか……もし、僕が何かしたらとか、心配にならない?」

「……逆に聞くけどな、何かしたいの」

「もちろんするつもりはないけど」


 間違っても変に思われないように即答すると、一瞬硬直した漆茨さんはそっぽを向いた。


「……そう、ならいい」

「いい……のかな」


 漆茨さんがそう言うならいいけど。

 そう思いながら布団に座るも、僕の方は意識してしまう。同じ屋根の下どころか同じ部屋で、しかも二人きりで寝るだなんて状況、落ち着けるはずがない。

 ちゃんと眠れるのか心配になってくる。

 漆茨さんは平気なのかな、と彼女の方を見たら丁度口を開くところだった。


「な、何もしないってハッキリ言われると、それはそれでショック」

「へっ!?」


 心臓が止まりかけた。

 かと思ったら凄い速さで脈打ち始める。心臓を通っただけで燃えるように熱せられた血液が全身に送られていく。鼓動の度にどんどん体温が上がっていくのを感じる。

 それに合わせて頭が茹で上がりボーッとしてきた。

 ボンヤリとする視界の中で漆茨さんは右手を逸らした目元に持ち上げた。


「……ぃ、いつきちゃん、じょーく」


 その声はどんどんしぼんでいき消え入ると同時に漆茨さんはまた頭から布団を被って、さっきより小さくなると今度は一切動かなくなった。

 その様子を僕はポカンと見つめていた。

 なんかすごいことを言われたような気がするけどジョークだったらいい。

 ……ジョークだったんだよね?

 というか久しぶりに聞いたな、樹ちゃんジョーク。

 相変わらず分かりにくいしリアクションにとても困る。前とは全く違う意味でとても困る。

 それでもジョークだったんだと自分に強く言い聞かせて茹だった頭を落ち着かせる。


 そうしているうちに火照ったままの身体にどっと疲れが襲いかかってきた。布団に倒れ込むと沈み込んでいくように身体が重くなった。


「そろそろ寝ようか?」


 隣の丸い塊に問いかけると「んー」布団の中からくぐもった声が聞えてきた。多分肯定だろう。

「じゃあ電気消すね」と言うと同じように「んー」と返ってきたから、僕は立ち上がって電気を消して、もう一度布団の中に潜り込んだ。


 ただ、勝手に寝る体勢になっておきながら全然眠れる気がしない。

 状況が状況だ、睡魔はなかなか寄ってこない。


 しばらく慣れない天井を見つめながらどうしようかと考えていたらベッドの方からガサガサ音が聞えてきた。漆茨さんが苦しくなって布団から顔を出したんだろう。

 そう思いながら目を瞑っていると「深青里君。寝た」呼びかけられた。

「起きてる」と目を開けた。上体を起こした漆茨さんがこちらを見ていた。

 窓から差し込む月明かりがその顔を照らしている。少しだけ上がった口角のおかげで微笑んでいるように見えた。


「いつもありがとう」

「何が?」

「二人から聞いたかもしれないけど、深青里君のおかげで私はいま、楽しい。本当にありがとう」

「それは僕もだよ。ありがとう、漆茨さん」


 照れながら、何気ない風を装って言うと漆茨さんは「そう」いつもみたいに頷いた。

 そして長く息を吸って、吐いて続けた。


「私ね、もうこのままでも……表情を返られないままでもいいかもしれないって、最近思うようになったの」

「……へっ?」


 スッと、心に冷たいものが流れ込んできた。

 火照っている身体に張り巡らされている血管が凍り付いていく。

 寒気が押し寄せてきて身体が動かせなくなる。


「今までずっと笑いたいって思っていたし、自分の意志で笑えるのが一番だとも思う。でも今は深青里君がいてくれるから毎日が楽しい。深青里君のおかげで表情が変えられなくてもこうやって誰かと過ごせるんだって、嬉しいことがあるんだって分かったから、もうこのままでもいいかもって」

「…………」


 どうして?

 上手く言葉が出てこなかった。

 向けられている気持ちは嬉しいはずなのに今だけは苦しめるように心を締め付けてくる。

 僕が漆茨さんのことを特別だと思うように、漆茨さんも僕の事を想ってくれているのかもしれない。

 けどその気持ちのせいで漆茨さんは止まろうとしている。このままでもいいと諦めようとしている。


 それはダメだ。ダメだよ漆茨さん。

 僕は漆茨さんのおかげで少しずつでも変わろうと思えた。だからこそ漆茨さんには今のままでいいだなんて言って欲しくない。

 なのに、どうして。


「全部深青里君のおかげ。これからも一緒にいて欲しい」

「…………」


 ……そうか、僕が言わせたんだ。

 僕が漆茨さんに甘えて依存していたから、そうしているうちに漆茨さんにも依存させてしまったんだ。今上手くいっているからそれでいいと納得させてしまったんだ。いつまで一緒にいられるのかも分からないのに。


「私の気持ち、深青里君には伝わっているわよね」

「……口にしてくれた分はね」

「私の言葉を信じてくれているから伝わっているの」

「そうかな」

「えぇ、そうなの。だから、いつもありがとう、深青里君」

「……うん」


 青白く照らされる漆茨さんの微笑が怖くて、僕は頷く動作の流れで目を逸らした。いつもは見れているはずなのに、見たいと思っていたはずなのに今は目を合わせたくない。

 こんな感謝は間違っている。

 いや、間違ってなきゃいけない。

 傲慢な我が儘だったとしても、今の漆茨さんの気持ちは否定したい。


 どうすれば表情を取り戻せるかは分からないから無責任なのかもしれない。

 それでも僕は漆茨さんには笑って欲しいんだ。今みたいな自分の意志じゃ動かせないまま作られた微少もどきじゃなくて、心からちゃんと笑って欲しい。他の世界にいる漆茨さん達がやっているみたいに、当り前に笑って泣いて怒って。そんな表情を今、隣にいる漆茨さんにもして欲しい。僕はその全部が見たい。

 それなのに。


「どうかした」

「ううん、噛み締めていただけ。漆茨さんからもらった感謝を」

「そう」


 囁く様に頷いた漆茨さんは視線を彷徨わせていた視線を僕に真っ直ぐ向け直して「あ、あの、私……」胸元で両手を握り締めて口をパクパクと動かし始めた。

 心臓が高鳴った。甘美な鼓動と嫌な予感が発する張り裂けるような鼓動が交互に響く。

 無表情でも、いくら口調が棒でも漆茨さんが何を言おうとしているのか、僕でも察する。


「私、み、深青里君のこと、その……」

「温度上げる?」

「……へっ?」


 言い淀んだ隙間に言葉を挟んだ。

 耳の奥からクシャッと、大切な手紙を握り潰した時の様な乾いた音が聞こえた。

 気付かなかったフリをして、目を見開いたまま固まっている漆茨さんに問いかけた。


「冷房。なんだか震えているみたいだからさ」


 漆茨さんの握られた手は細かく震えていた。

 その震えが寒さのせいなんかじゃないと分かっていたけど、こんな風に話をそらすことしかできなかった。

 もし漆茨さんの口から直接聞かされてしまったら僕はきっとその甘い感情に飲み込まれて今のままでもいいという言葉に従ってしまう。自分の我が儘なんて忘れて共依存の沼に沈んでいってしまう。

 漆茨さんの好意は、僕にとってそういうものだから。 


 しばらく口だけをパクパク動かしていた漆茨さんは、やがてその動きに言葉を乗せた。


「だ、大丈夫。このままでいい。それより今日はもう寝るわ」

「うん。そうしようか」

「ごめんなさい、さっきは寝る邪魔をした」

「そんなことないよ。僕もすぐには眠れなかったから」

「ならよかった。おやすみなさい、深青里君」

「うん、おやすみ、漆茨さん」


 そう交わして僕は頭から布団を被った。ギュッと目を瞑って丸まる。

 僕は最低だ。

 自分で共依存の状況を作り出したくせに、いざ漆茨さんが気持ちを伝えようとしたらそれを拒んだ。何もかも漆茨さんのためになっていない。

 漆茨さんは支えてくれて、背中も押してくれたのに僕は何もしてあげられていない。それどころか空虚な満足感を与えてしまっただけだ。


 僕は一体何をしているんだろう。

 なんでこんなことになっているんだろう。

 どうすればいいんだろう。

 今更でも、まだ何かできることはないのだろうか。


 ……。

 …………。

 …………そうだ。


 鬱々とした渦巻く虚無の問いが、頭の隅で止まっていた思考を掠めて再びそれを動かし始めた。

 世界移動と漆茨さんの無表情は関係している可能性があるんだ。

 連鎖的に漆茨さんの両親と話したことを思い出す。 


 漆茨さんは僕と同じように遠足会に参加して、その時に感情表現を失った。

 漆茨さんが無表情になったきっかけが遠足にあるのは間違いなさそうだ。

 その時期は小学生になる前の春休み。世界移動が起こり始めたのと丁度同じ時期になる。

 もしも本当に世界移動と関係があるのだとしたら、僕がそれに巻き込まれるようになった原因も遠足にあった可能性が高い。

 そうなると僕も遠足の時に何かあったのかもしれない。


 気になって布団にくるんだまま母親にラインを送る。

 深夜にもかかわらずすぐに返信が来た。

『何時だと思ってるのよ』という文句に「ごめん。でも教えてほしい」とだけ返すとまたすぐに返事が来た。

 それを見て呼吸が止まった。


『確かにあの時、あんたちょっと目を離した隙にいなくなったわね。すぐ出てきてくれたから良かったけど』


 画面を消して押し殺すようにつまった息を吐いていく。

 やっぱりそうなんだ。

 僕も漆茨さんと同じように迷子になっていた。

 そしてきっと、迷子になっている間に何かがあって漆茨さんは無表情になり、僕は世界を移動するようになった。

 無表情だけなら過度な精神的ストレスが原因だといえるかもしれないけど、世界移動なんて超常現象まで起こっているとなるともうストレスの問題じゃない

 それを引き起こすものが木ヶ暮山の中にある。


 鼓動に熱が戻る。凍っていた全身の血液が溶けていく。

 あくまでも全て仮定でしかない。

 僕らの異常が関連しているという確たる証拠はない。


 でも、もし関連しているなら僕がなんとか出来るかもしれない。移動先の世界にいる期間を短く出来たみたいに、少しずつでも漆茨さんの感情表現を取り戻せるかもしれない。

 それが今の僕に出来ることだろう。

 いや、やらなきゃいけないことだ。

 そのためにまずは明日、木ヶ暮山に行こう。

 何かがあるであろう、あの場所に。




   *  *  *




 白い世界にいた。

 どこを見ても真っ白に光っている非現実的な空間。



 存在するものは数多もの観音開きの木製扉と、四角く空間を切り取ってできたようなモザイクがかった緑色の平面。そして天井まで伸びる巨大な石英。

 その石英の前に僕は泣いている女の子と並んで座っている。

 時々夢で見ているあの世界だ。

 でも今回はいつもと違った。


「僕が来たから君も笑えるよ」


 いつもはくぐもってよく聞えなかった声が鮮明に聞えた。


「どうして笑っていられるの?」


 女の子は顔を上げて不思議そうに見てきた。

 その顔に、僕はとびっきりの笑顔を作って好きだった戦隊ヒーローの言葉をかけた。


「辛い事は笑顔で塗り替えれるんだって。笑ってるうちに嬉しくなって、そうするとみんなも嬉しくなって、人は幸せになるんだって。だから、僕は笑ってるんだ」

「笑ってれば、辛い事を消せるの?」

「うん! レッドが言ってたから嘘じゃないよ! 僕も今、なんだか楽しくなってきたもん」


 きっとそれは強がって言ったんだと思う。

 でも、僕の言葉に女の子は笑った。


「それなら本当かも」と言って笑顔を見せてくれた。


「なんだか君、ヒーローみたい」

「そ、そうかな?」

「そうだよ、今私のところに来てくれたもん」

「そっか、それならまた君が悲しかったり辛かったりした時は来なきゃいけないね」

「来てくれるの?」

「うん! ヒーローはいつでも助けに来るものだから。その代わり君も、悲しくても笑っていてね」

「うん、分かった」


 そんな言葉を交わしながら僕たちは笑っていた。

 その笑みに僕は安心して意識が遠のいていく。

 夢は覚めていく。





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