第九話:溌剌な彼女 下




 漆茨さんに連れてきてもらったのはチェーン店ではなく個人営業のカフェだった。

 ガラスが所々にはめ込まれた木のドアを開けて入ると塊のような冷えた空気が身体を迎え入れてくれた。それまでしかめ面をしていた漆茨さんも「生き返るね~」と表情を和ませていく。

 すぐにカウンターの中にいた女性が顔を上げてにっこりと微笑んだ。


「いらっしゃい。おっ、樹ちゃん、来てくれたんだ。久々だねぇ」

「こんにちは、おばさん」


 おばさんと呼ばれた女性は五十代くらいだろうか、恰幅が良く朗らかな表情が似合っている。


「後ろの子はもしかして彼氏?」

「ち、違うよっ! 深青里君に失礼だから!」


 漆茨さんはあわあわしながら元から赤かった顔を耳まで赤く染めた。

 にっこりがニヤニヤに変わった店員とは知り合いみたいだ。


「み、深青里君、こっち。早く奥行こ」

「う、うん」

「ゆっくりしていってねぇ」

「注文以外では来ないでね!」

「はいはい。二人の邪魔はしないから安心して」

「もう! だからそういうのじゃないって!」


 プリプリと頬を膨らませながら僕の手を引く漆茨さんに続いて奥へと進む。

 店内は結構広く、ざっと見た限り三十程の席がある上、吹き抜けの二階もあるようだ。個人経営でこの広さは大変そうだ。


 テーブルや椅子、階段や内装に至るまで全て木製で統一されていて天井には大きなシーリングファンが回っている。ログハウスチックな秘密基地みたいだ。

 十七時という時間のせいなのか今はあまり人はいない。パソコンを見ながらコーヒーを飲むTシャツの男性や年配の四人組、勉強をしている中学生達くらいか。


 そんな先客達を横目に、僕らは一番奥の二人掛の椅子に向い合って座った。

 漆茨さんは机に置いてあったメニュー表で赤らんだ顔を扇ぎながら言った。


「なんかごめんね、おばさんが変なこと言って」

「別に僕は構わないよ。それより仲良いんだね」

「うん、近所にあるから昔からよく来るんだ。おばさん優しくて元気だし居心地もいいから。……時々あぁやってからかってくるけど」

「あはは」


 今回は僕も当事者だからちょっと反応しづらい。

 愛想笑いを返すと「あっ、ごめん!」すぐにメニュー表を差し出してきた。


「深青里君は見なきゃだよね。あおぐのに丁度良くてつい使っちゃった」


 受け取ったメニューは表紙が革製の冊子になっていてドリンク、スイーツ、ランチ、ディナーとページ毎に分けられていた。そこまで厚みは出ていないけどしっかりしているから確かに扇ぎやすそうだ。


「僕はアイスコーヒーにしようかな。漆茨さんは?」


 一通り見てからメニューを返すと、漆茨さんは「私は決めてあるんだ」と言って手を上げた。


「おばさん! アイスコーヒーとオレンジジュース、あとパフェお願い!」


 漆茨さんが座ったまま呼びかけると「はいねぇ」とカウンターの方から声が返ってきた。

 互いに慣れたやりとりらしい。結構な大声で呼び合っていたけど他の客も特に気にする様子はないあたりみんな常連でこのカフェはこういうものとして受け入れられているのかもしれない。

 注文を終えた漆茨さんは居住まいを直して髪を耳にかけた。


「それで相談……というかほとんど愚痴かな、聞いて欲しいんだ」

「わかった」

「えへへ、ありがと。じゃあお言葉に甘えて……」


 照れ笑いを浮かべた漆茨さんはもう一度座り直すともじもじしながら下を向いて掌をこちらに向けた。


「や、やっぱちょっと待って! 何からどう話せばいいか分かんない!」

「うん、ゆっくりでいいよ。時間はいくらでもあるし」

「ご、ごめんね」


 本当はいくらでもあるわけじゃないけど、話なら今日中には終わるはず。三日もあれば十分だろう。

 漆茨さんは俯いて唇に指を当ながら「う~ん」と唸り始めた。次第にその頭頂部はどんどん下がっていき、やがてガツンと額がテーブルに着いて動かなくなった。この漆茨さんは悩み始めるとドツボに嵌るタイプらしい。結構時間がかかるかもしれない。


 しばらく唸る頭頂部を眺めていると、先ほどの女性店員がお盆を持ってやってきた。


「お取り込み中のところ悪いけどこれ、注文のコーヒーね」


 そう言いながら僕の前にコーヒーを、唸る頭の前にオレンジジュースとパフェを置いた。それから「あとこれ、来店記念ってことでおまけ」とエクレアも二つ出してくれた。


「あ、ありがとうございます。でもいいんですか、いただいてしまって」

「樹ちゃんの友達ならサービスしちゃうわよ。というか実はこれね、もうすぐ賞味期限切れそうなの。そうなったら私が食べるしかないじゃない、勿体ないから。でもこれ以上横幅増えちゃったらカウンターから出られなくなりそうじゃない。それが怖いから我慢してるの。どう、偉いでしょ? だから気にしなくていいわ。その代わりまた来て」


 パチッと決まったおばさんのウインクに「ぜひ喜んで」と笑い返すと、おばさんは満足そうに頷いて漆茨さんに目を向けた。


「それで、樹ちゃんどうしちゃったの?」

「あー、なんというんでしょう。悩んでいるみたいで」


 ぼかして言うと、おばさんは掌で口を覆った。


「あら、もしかして今から告白するところだったりした? ならアドバイスしちゃうけど、スパッと言った方が上手くいくわよ? 男も女も結局度胸ってものだし」


 これには不動だった漆茨さんは顔を上げて「違うから!」とおばさんを睨んだ。睨んだみたいだけど端から見ても赤い頬で凄んでいる彼女の顔は可愛らしさの方が強くて怖くない。


「私、真面目な話しようとしてるんだけど!」

「告白も十分真面目な話じゃなくて?」

「あーそうかもしれないけど! もっと重要な話なの!」


 ぷくっと頬を膨らませた漆茨さんに対しておばさんはふーんと鼻を鳴らして肩をすくめた。


「ならそれこそちゃっちゃと言っちゃった方がいいじゃない。そういうのは時間が経てば経つ程言いづらくなって結局言えなくなっちゃうものよ。何度も後悔した私だから言えるわ。……あら、もしかして今の年の功ってやつかしら? 似合わずいいこと言っちゃったかも。とにかく邪魔者は消えるわね。おほほほほほ」


 おばさんは言うだけ言って奇妙な笑い声を上げながら去って行った。嵐みたいな人だなと思った。突然やってきては場を乱して消えていったところとか。まぁ注文したものを持ってきてくれただけなんだけど。

 と思ったら、途中でピタリと止まると引き返してきて隅の方に伝票を置いて、今度こそカウンターに入っていった。置き忘れていたらしい。

 その背中を見送って、僕はほぅと一つ息を吐いた。


 大切なことこそ迷ってないですぐに言わないと段々伝えられなくなってしまう。

 何でもなさそうに陽気に言っていたけど確かにそうかもしれない。

 漆茨さんも感じるものがあったのか、ハッとしたような顔でおばさんが去って行った方を見たまま固まっていた。


 やがて「そう、だよね」小さな唇を動かした。

 そして僕の方に向き直った。


「ごめん、聞いてもらおうって言うのにためらっちゃって。でも、今度こそちゃんと言う。全然頭の中でまとまってないから分かりづらいかもだけど」

「うん、どうぞ」


 赤茶色の目を見つめ返すと、漆茨さんも恥ずかしそうに口を開いた。


「私って何もないんだ。喋り方は子供ぽくて頭は悪いし何かに打ち込んでるわけでもないし、得意なことがあるわけでもないから何が出来るんだろうって考えちゃって、でも何も思い浮かばなくて」


 そんなの僕も一緒だよ、と言いかけたけど口を挟むのはやめておいた。折角話し始めてくれたのだから変に横やりを入れないで漆茨さんのペースで話して欲しい。

 喋りかけて開いた口でコーヒーのストローを咥えた。

 口の中に広がる苦みを感じながら話の続きを聞く。


「みんなは部活頑張っててさ、こんな熱い中でも走ったりラケットを振ったり、それか涼しい部屋の中で絵を描いたり何か実験していたり勉強に専念していたり。そうやって頑張ってキラキラ輝いているのにさ、私は何も出来ないままこうやって自分がダメな人だってことをグチグチ言うしかないんだよね」


 氷が少し溶けて動いたのか、コーヒーのコップから、カランと高い音がした。

 漆茨さんは苦笑して肩をすくめる。


「なのに頭の中では綺麗な理想ばっか思い浮かべてね、それで満足しちゃってるんだ。なんていうんだろう、妄想癖ってやつなのかな。いつかシンデレラみたいに私を見つけてくれる特別な人が白い馬に乗って颯爽と現れる、みたいにさ、ある日ふと生き甲斐だとか何かの才能みたいなものが降ってくるんじゃないかって、都合のいいことばっか考えて何もしないんだ。……あれっ、シンデレラの王子様って白馬に乗ってたっけ? まぁいっか。とにかく、それがダメだって分かっているけど、じゃあ何をすればいいのーってなっちゃって」


 漆茨さんは頬を掻いて下を見た。

 それから何かを探すように、あるいは机の木目をなぞるように視線を動かして小さく息を吐いた。


「そうしている間にみんなに置いてかれちゃって、もうきっととっても遅れてる。隣にいるように見えてもみんなは一周も二周も、何周も先を走っていて、その状態で私に合わせて笑ってくれてる。だから本当は周りには誰もいなくて私は一人なんだ。それが怖くて、寂しくて」


 苦しいんだよ。


 小さな口からこぼれた気持ちは僕にも少し分かる。

 周りにいくら人がいても抱いてしまう自分という異物感。自分だけは劣っていてどこかおかしくて、ここには居場所がないと突きつけられる。


 突きつけられた孤独感は静かに首に絡みついてゆっくりと徐々に絞まっていくものだ。

 最初は違和程度にしか感じない。けど気付いた時には呼吸がし辛くなっていて頭に酸素も行き渡らなくなっているから、まともに考えられないまま思考を放棄して諦めるしかなくなるってしまう。

 そうやって苦しさだけを感じながら無力感に打ちひしがれて空虚に日々を過ごしていく。

 ただ、そうなった時に怖いのは、もう苦しさや空虚さは大した問題じゃなくなっていることだ。そんなことよりも、そういう日々がこの先もずっと続いていくであろう事実に対する絶望感が心を圧し潰しにかかってくる。


 嫌という程味わって、大分マシになったとはいえ今もまだ感じていることだった。

 漆茨さんは机の上で祈るように両手を握って、そこに伏せるようにして額をつけた。


「だから私は時間が経つのが怖い。過ぎれば過ぎる程、私は遅れていって動けなくなっちゃうから。自分だけが動けないのにそれでも時間とみんなはどんどん進むから、私一人何にもなれないまま死んでいくんだろうなって想像しちゃうんだ。それが怖くてどうしようもないの。そんなの嫌。そうならないために私は普通じゃなくなりたい。何でもいいから特別な何かになりたい。でもその方法が分からないし、そうなるための技術だとか能力だとか、そういうものも持ってない」


 ゆっくりと顔を上げて漆茨さんは真っ直ぐ僕を見た。


「私、どうすればいいと思う?」


 縋るような、懇願するような感情がそのまま籠もった顔だった。

 それがあまりにも痛々しくて、僕は顔を背けたくなった。

 でもそれはできない。聞かせてもらったからには受け止めなきゃいけない。


「漆茨さん……」


 彼女の目を見つめ返しながらできるだけ軽薄に聞こえないように言葉を紡ぐ。


「僕も、その気持ち、少しかもしれないけど分かるかもしれない」


 全部分かる、なんて言えない。

 言ってしまったらそれは共感じゃなくて傲慢だ。

 漆茨さんが僕の感じた苦しみを知らないように、僕だって彼女の苦しみをちゃんと理解することは出来ない。

 偏に首を絞められるような苦しさと言ったって、使われるのが例えば真綿なのか麻糸なのか、バラの蔓なのか鉄線なのかで大きく変わってくる。

 人によってそれは変わるから他の苦しみは分からない。

 けど、言える事がないわけではない。


「僕も何もないんだよ。出来ないことばかりだし臆病だし怖がってばかりで一人では何もしないんだ。色んなことに流されるばかりで自分の力じゃどこにもいけないから、居場所を作れないままどんどん時間だけが過ぎていくのを感じてさ。挙げ句、流され続けた結果いつの間にか暗い穴に落ちたみたいに身動きが取れなくなっていて、僕はそこから綺麗な空を見上げている。手を伸ばしても這い上がろうとしてもできなくて、本当はどこまでも広がっている空だって僕から見たら丸にしか見えなくて。他のみんなは穴の外から当り前のように綺麗で広大な空を眺めているんだろうなって思いながら僕はうずくまっているんだ」

「……深青里君も、なの?」


 漆茨さんは驚いたように目を丸くした。

 苦笑しながら頷くと、漆茨さんは恥と安堵が混ざった様な顔で笑った。


「私たち、似たもの同士なんだ」

「そうみたいだね」


 その同調がなんだかくすぐったくて僕らは小さく肩を震わせ合った。


「なら私たち、どうすればいいのかな?」


 頼りなく揺れる瞳の中に、漆茨さんは僕を映した。

 その中の自分と見つめ合う。


「……分からない。分からないけど、でもきっと、少しずつでも進むしかないんだと思う」


 みんなにとって当り前のことが僕には上手く出来ない。する度胸がまだない。

 他人が当り前に見ている景色が空なら、僕の景色は真っ暗な穴の壁だ。

 でも、その穴の中に同じように無表情の漆茨さんがいた。彼女がいる事に気付けたから僕はなんとか平気でいられるようになった。


 そして今、僕は諦めていたその穴を登ろうとしている。少しでもまともに話せるようになろうとしている。世界移動について知ろうともう一度もがいている。

 漆茨さんが頑張ってって背中を押してくれているからちょっとくらいなら這い上がれている。鞠寺君が上から伸ばしてくれた手もまだちゃんと掴めていないけど、触れることなら出来た。


「自分なりでいいから、何でもいいから自分に出来ることをやり始めて、それを積み重ねて進んでいると信じて、そうやって自分を納得させていくしかないんだと思う。納得しながら進めば、きっと何か、どこかにはたどり着くから。そこが今より良い場所だと願いながら歩き続けるしかないんだ」


 他人から見たら馬鹿げていて大したことないかもしれないけど、それでも僕は僕の速さで、僕の見える景色の中を納得しながら進むしかない。誰より遅れているとか進んでいるとか、それは具体的な数値で表されるものじゃなくて自己意識でしかない。

 結局僕の居場所なんてものは、今僕がいる場所以外のどこでもないんだから。

 何度も世界を移動して漆茨さん達と会話を試みているうちにそう気付いた。


 どの世界にいてもそこには目の前にいる漆茨さんしかいないんだから、他の彼女の事は忘れて目の前の漆茨さんに集中するしかない。それはきっと漆茨さんだけじゃなくて他の誰にでも当てはまることだ。

 そしてそこで流れている時間では、僕はその世界で生きていることになっている。

 なら僕が認めても認めなくてもそこにしか僕の居場所はない。そこで必死になるしかない。


「だから、なんだろう。なんだっていいけど、できるとかできないとかそういうことはおいておいて、漆茨さんは好きなこととかやりたいことはないの?」

「わ、私……」


 一度視線を落とした漆茨さんは、パッチリ目を見開いて顔を上げた。


「小説読むのが好きなんだ。現実じゃ絶対あり得ないことを体感できて色んな世界に連れて行ってくれるから。主人公に寄り添いながら心がキューってしたりドキドキしたりハラハラしたり、ワァーってなったり! そうやって色んなことを忘れて想像の世界に浸れるってすっごい楽しいなって! この前読んだ本はね、主人公が平行世界に跳ばされてそこで昔好きだった人と出会うんだけど、」


 キラキラした目で怒濤の勢いで話し始めた。

 まるでオタク茨さんを見ているようで苦笑してしまう。


「なら、書いてみたらどう?」


 漆茨さんの話途中だったというのにあんまり深く考えずに半ば反射的に口から出ていた。

 漆茨さんは見開いた目の前で両手をブンブンと横に振った。


「え、えぇ!? そそ、そんな、無理だよ、私には書けないって! 頭悪いし書いたことないし」

「頭の良さとかはあんまり関係ないと思うよ。会話とか試験とは違って書き上げるまでに時間をかけていいんだし、思ったこととか描いた理想とか、そういうものを伝えるのにはもってこいだと思うし。書いたことないならなおさら、分からないんじゃないかな」


 想像するのが好きなら漆茨さんには向いているんじゃないかと思う。それに確か無表情の漆茨さんは、だけど、小説を書くのは時間はかかるけど楽しいと言っていたはずだ。

 なら想像するのと小説が好きなこっちの漆茨さんならもっと楽しめるんじゃないかと、根拠なんてないけど思った。


「そ、そう……かな?」


 俯きがちに上目遣いをした漆茨さんはどことなく満更でもなさそうだ。

 もしかしたら小説を書きたい気持ちは元からあったのかもしれない。

 その上で自分には無理だと決めつけて選択肢から排除していたとか、あり得そうな話だ。

 ならその背中を押すのが今の僕に出来ることだ。


「うん、勉強で使う頭とは違うだろうし、なにより好きならきっと続けられるでしょ。そうすればいつの間にか何かは積み重なっていくよ」


 もちろんたくさん小説を読んでいれば良いものを書けるとは限らない。けど、目を輝かせて話を始めてしまうくらい好きなら漆茨さんには書ける気がする。


「じ、じゃあ、じゃあだよ?」


 漆茨さんは身を乗り出してきた。

 恥ずかしそうに顔を赤くして、不安げに眉をハの字にした。


「もし私が小説を書いたら、深青里君は読んでくれる?」


 僕は見つめ返してきっぱりと言った。


「もちろんだよ。ぜひ読ませて欲しい」

「そ、そう? それなら、ちょっと書いてみよっかな……」


 漆茨さんは小声になりながらも安心したように顔をほころばせた。

 そして椅子にどさっと座り直すと「そ、そういえば頼んだのに食べてなかった!」目の前にあったパフェをかき込んでいった。

 ほんのりと赤らんだ顔のまま幸せそうにパフェとエクレアを頬張る姿を見て僕もなんだか嬉しくなった。

 一気に甘いものを平らげた漆茨さんはオレンジジュースを飲んで、一息ついた。


「深青里君、今日はありがと。話して良かった。とってもスッキリした!」

「大したことはしてないよ。僕も悩み続けているだけだし。それより楽しみにしているね、小説」

「うん、私、頑張るから!」

「分かった、待ってる」

「約束だよ」

「もちろん」


 とびっきりの溌剌とした笑顔に僕も笑って頷いた。

 今の僕は読めなくても、こっちの世界の僕が必ず読む。

 読ませるために今日のことは全部日記に書き記してちゃんと伝えよう。それこそ小説を書くみたいに。




 カフェを出ると、依然じりじりとした日差しが皮膚に突き刺さってきた。

 まだまだ太陽は元気で気温も大して下がっていない。

 でもそれに負けず劣らす漆茨さんも元気そうで、暑さを気にする素振りも見せずに鼻歌を唄いながら歩いている。

 そんな彼女の隣を歩きながら僕は感謝するのは僕の方かもしれないと思った。


 きっと僕は漆茨さんに話していながら、同時に自分自身に言い聞かせていたんだろう。

 今やっていることが世界移動を理解する手がかりになると。そしていずれ、登り始めた穴から外に出られると、そう信じたいから。


 でももし、本当に僕が暗い穴から抜け出すことが出来たら無表情のままの漆茨さんはどうなるんだろう。僕の背中を押すだけ押して、本人は出られないままだったらどうすればいいんだろう。

 ……考えるまでもないか。

 その時は外から僕が彼女を引っ張り上げる。それだけだ。




   *  *  *




 日記を長々と書き綴った翌日、起きて開いた日記には『漆茨さんの書いた小説を楽しみにしていて』という文章はなく、僕は元の世界に戻っていた。

 狙い通り一日で戻ってこられた。

 やっぱり早く元の世界に戻るトリガーは誰か、僕にとっては漆茨さんと悩んでいることについて話をすることみたいだ。その関連性は分からないけどどうやらそれは確からしい。


 そしてもう一つ、薄々僕の中で一つの予感が生まれている。

 悩みについて話す相手は誰でもいい訳じゃなくて、僕にとって、でもなくて、漆茨さんじゃなきゃいけないんじゃないかということだ。

 今までの世界移動の中でも気になっていたことだけど、どの世界に行っても漆茨さんだけは毎回違う性格に変わっている。無表情の漆茨さんは僕が本来いるはずの世界にしかいない。


 最初は試行回数が少ないからだと思っていた。でも流石に四ヶ月以上何度も世界を移動しているのに一度も無表情の漆茨さんに出会えていないのはおかしい。

 鞠寺君も他のクラスメートも、ほとんど同じ性格で同じ振る舞いをしているのに漆茨さんだけ元の世界とほぼ同一の彼女がいないのは明らかに不自然だ。

 だから僕が移動する世界は漆茨さんの性格を軸にして選ばれている可能性を考え始めたのだ。


 でも、仮にそうだとするならどうして漆茨さんなのだろうか。

 一体何が僕の世界移動と彼女を結び付けているのだろうか。

 具体的には何も分かっていないし確証もないけど考えてしまう。

 否定する材料なんて「現実的に考えてあり得ない」くらいしかないけど、そもそも起こっていること自体が現実的じゃないのだから。




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