第16話

「どうしてん? 来るなり黙って」

「今日の道徳の授業が、納得いかなくて」

「テーマは?」

「トロッコ問題」

「ああ、必ずどちらかが犠牲になる、っていうやつやな」

「そう、正解が出せなくて」

「なあ、泉? 正解は必ずあるものちゃうで」

「だって、答えを出せって言われた!」

「そうやな……、まあ、例え話なんやけど、赤ちゃんが生まれた時の記憶がない理由、知っとるか?」

「わかんない」

 森谷先生は時々、難しい話をする。

 赤ちゃんは、お母さんのお腹の中から生まれてくる、その時に感じる痛みが一生の中で一番辛く苦しい痛みなんだって。だから、これからの人生を幸せに生きる為に忘れる。生きる為の防御らしい。

「出産っていうのは、奇跡なんや。お母さんも、赤ちゃんも元気に健康でいられる。それがいかに尊い事か、それが理解できるのは二人の命があってこそや」

 どんなに設備の整った病院でも、どんな名医の腕を持ってしても、お母さんと赤ちゃん、どちらかしか助けられないっていう状況が必ず来るそうだ。

「泉、もし将来結婚して子供が出来て出産の時に、どちらかしか助けられない、そんな状況になった時、誰が答えを選択すると思う?」

「……わかんない」

「父親となるお前や」

 驚きすぎて言葉が出なかった。更に森谷先生は続ける。

「奥さんか赤ちゃん、どちらかの命しか助けられない。そんな時、どうやって答えを出す?」

「……選べない」

「答えを出さなければ、二人とも失ってしまうんやで」

「なんで⁉」

「時間の経過と共に助かる確率は下がっていく。医療って言うのは、命の選択なんや。極限の状態での選択、正解だと思うか?」

「……思えない」

「そう、どちらを選んでも一生後悔が残る。そんな時に、より正解に近い答えを導き出す。道徳の授業はその為にある」

「どういう事?」

「先生の言った、答えを出せという言葉は、答えを考えろという意味なんや」


『人間は考える葦である』

 フランスの有名な哲学者・パスカルの言葉


「思考、つまり考えるというのは、人間のみに備わった機能。人間は考える事によって解決を導いていくことができる。考え続ける事は、選択をし続けるという事。思考を重ねた分だけ、選択肢、つまり正解の数が増えていくという事なんよ」

 答えの出ない難しい問題をあえて考える事で、自分の中に選択肢を増やしていく。その作業をするのが道徳の時間だと森谷先生は言う。

「今は正解を導き出せなくてもいい。でも、自分で考えたりクラスメイトの考えを聞いていくことで、考え方を学べる」

 そうして、いつでも、どんな問題でも、自分の力で考えていく事が自分の幸せに繋がるそうだ。

「考える事を止めてしまったら、人間はどうなると思う?」

「……わかんない」

「思考停止、つまり機械と一緒。人生の終わりを意味する。世界には八十億もの人間がいるんやで? その全員が考える事を止めてしまったら、どうなると思う?」

「人間が、いなくなる?」

「……そう、人類滅亡。世界の終わりや。それを防ぐためには、全員が考え続けなければいけない」

「なるほど」

「……答えを出さない。それも考えた結果なら正解となる、だから正解はない。やろ?」

「……難しい」

「焦らなくてもいい、でも少しだけ考えてみ? 明日になれば、また違った考えが生まれてくるはずやから」

 今日の授業はこれで終わりと、両手をパチンと叩く。

「俺は仕事するから、お前は早く帰れ」

「なんで⁉ もう少しここに居たい!」

「どうしてそう思うん?」

「え?」

「なんで、ここに居たいん?」

 そう問われるとは思わず、黙ってしまった。

「ほら、ちゃんと考えろ」

「分かんないよ!」

「宿題や!」

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