#6
彼と同棲を始めて驚いたのは、箱入り娘の私に欠如している高い生活能力を、貴方が見事に持ち合わせている事だった。
家を出てから何となくで
「今日もお疲れ様」
立て込んだ仕事のお陰で残業した私がスーツのままでソファに倒れ込むと、一通り調理を終えた貴方がキッチンから顔を覗かせる。
「つーかーれーたー」
ふわふわのソファに顔を埋めたまま子供のように駄々を捏ねる私に近寄った貴方は「うん」とだけ答えてそっと労るみたいに私の頭に手を置く。
「夕飯できてるけど……先に風呂行く?」
「ううん、ご飯食べる」
部屋に充満した
「今日のお献立は?」
「親子丼……時間なかったから簡単なヤツ。さて、卵を入れましょっか」
用意周到とはまさにこの事──キッチンに戻って鶏肉やら玉ねぎやらを煮込んだ手鍋を火にかけつつ、片手で卵を二つ器に割りながら「手、洗ってきて」と声を掛ける彼は、菜箸で白身と黄身が溶け合うぐらいに混ぜ合わせた。カチャカチャ……ッと軽快な音にむくりと起き上がった私は「はーい」と戯けた返事をして洗面所に向かう。
家事は完全に分担せず、基本お互いができる時にやれる事をやるスタンスだが、まるでパズルのピースみたいな私達は足りないところを補うように得手不得手がハッキリしている。料理やら洗濯は貴方のほうが得意だし、掃除や片付けは私のテリトリー。この前も私が早く仕事を上がったからと作ったナポリタンは、どう頑張っても彼が作る料理の足元にすら及ばなかった。
堅苦しいスーツを脱いで部屋着に着替えた私は、洗濯物を脱衣場のカゴに入れつつキッチンを覗く。コンロに置かれた手鍋の中からふわふわと帯を作って浮んだ卵が、今や遅しとこちらを眺めては待ちくたびれている。
「お待たせ」
調理台に置かれたお揃いの丼にご飯をよそう貴方の瞳が糸みたいに細く微笑むと、「ん」というだけの返事でよく煮込まれた鶏肉と溶ろけるような卵が覆い被さる温かい食事が差し出された。
「いただきます」
「いただきます」
親子丼に味噌汁。
たったそれだけの、二人の為だけに作られた料理。
その小さな幸せがあれば、私は他に何も要らないとすら思ってしまう──。
「美味しい……本当に料理上手だよね」
「フツーだろ、これぐらい」
ほくほくと頬張る彼を見ながら笑う私は、程良い味付けでどこか安心する食事と一緒に幸福をも噛み締める。
「料理ってさ、食べる人によって美味しさが変わるらしい……」
味噌汁を啜る貴方はお椀に視線を落として呟くと、恥ずかしそうに声をくぐもらせて言葉を溢す。
「うん……今まで食べた料理の中で一番美味しいと思う」
実家には料理人がいて、外に出れば一流のシェフがいて、とうに舌なら肥えているはずの私は、俯いたままの彼をしっかりと見据えた。
「いつもありがとう」
「……おう」
心地よい沈黙に包まれ、林檎みたいに耳朶まで赤く染まった食べ進める貴方が、空になった食器ごと逃げ出すようにそそくさと手を合わせる。
「ご馳走様……先、風呂行くわ」
「うん」
照れ隠しにしてはあまりにも無愛想、それでもその様子がいじらしくて仕方ない私は、言及する事なく立ち上がって遠のく背中を見つめて微笑う。
「あとさ……」
「どうしたの?」
「……いつも、その……ありがと」
何故か不貞腐れた様子で口を尖らせながら声を零した貴方に「うん」と答えた私は、彼の後ろ姿が脱衣場に消えるのを見届けて手を合わせる。
「ご馳走様でした」
これまでの人生で、こんなにも料理に対して感謝した事があっただろうか?まだ愛おしさが余韻を残す食器を片付けて、いつも向かい合って座る机を拭いて、貴方が作ってくれた努力と比例する調理道具を洗って──。
今まで苦痛でしかなかった家事の全てが、蛹から飛び出した蝶のように色を変えて私の手を進めてゆく。彼という存在は紛れもない私だけの『幸せ』で、彼さえいればどんな贅沢にも代え難い『素敵な生活』になり上がるのだ。
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