触犯男~しょくぱんまん~

ヒ目Lてんてん

第1話

「麦白さん、わたし先に帰るから残ってる業務は今日中に終わらせておいてください」


茶色にカラーリングされ、カールされた前髪を手櫛で慌ただしく整えると、女上司はデスクを片付け足早にオフィスを後にした。

気合の入った香水の残り香が男の記憶だけでなく鼻腔の中にまで忌々しい記憶を刻み込む。


――もう何日、あと何日虐しいたげられなければならないのか。


上司がいなくなったデスクの前で意気消沈する男の名は麦白むぎしろ土銀どぎんの部下――いや、奴隷である。


奴隷の始まりは二年前、土銀のいる部署に配属となってからだった。


「麦白さん、昨日頼んだ書類まだできてないわよね。いつできるの? まさかあの子供の落書きみたいな書類が完成品なんて言わないわよね?」

「何回同じこと言えばいいの。もう他の人に頼むからいいわよ。それ、返して」

「この紙、シュレッダーにかけてきて。これなら頭が小学生以下のあなたにもできるでしょ」


「はい……」

「はい……」

「はい……」


真面目な性格の麦白は部下という立場上、土銀からの命令にただただ頷くしかなかった。


時計の針が今日二回目の12時を迎えた。自分の座っているデスク島の所だけが晒し者のスポットライトをてられ、儚く光っている。

今日中に終わらせなければならない仕事は終わっていない。朝から何も食べていない麦白は栄養剤と軽食を買うために駅前のコンビニに向かった。


駅前のコンビニに向かっている途中には目のかたきがうじゃうじゃとハエのようにたかっていた。

集られないようにアルコール臭気が蔓延する道を足早に通り過ぎ、コンビニに到着する。


ここにも麦白の居場所はなかった。


店内は酔いどれたちの宴会会場と化しており、学生と思われる若い男女や、週末の華を咲かせた会社員が大声をあげながら泥酔している。


麦白は目線の高さを自分の足元に固定して異界に突入する。

さっさと買物を済ませて仲間外れと気づかれない内にこの場から逃げ出そうとしていた――その時


「わたしもうあるけないよぉ~」


何千、何万としつけられた耳が反射的に声のする方向に耳を傾けてしまった。


土銀だ。


その表情はいつも会社で向けられている冷徹な表情と違って酒色に染まった女の顔をしている。


「よっぱらっちゃってあるけないよぉ。倍木ばいきくん。だいてぇ……だっこしてぇ……」


泥酔状態の土銀は今日のターゲットと思われる身なりの良い若い男に糖度たっぷりの声で甘えていた。


膝上スカートから零れる肉感的な白磁の太腿ふともも。Yシャツのボタンを弾け飛ばすのではないかという勢いで突き出されたGカップの巨肉果を武器に、衆目もはばからず獲物を仕留めにかかっている。


倍木は優しく介抱する振りを見せながら、脇目も降らずにムチムチとした太腿と柔鞠を揉みしだく。


高級感のあるスーツパンツからは隠し切れない欲望の隆盛がテントとなってピンと膨れ上がっていた。


幸い、今コンビニのトイレは塞がっている。もし二人がいる間にトイレが空いてしまったら、そこを愛の巣として連れ込みそうな勢いで互いの情欲が昂っているのは麦白の目から見ても明らかだった。


土銀のスタイルの良さは毎日顔を合わせている麦白も知るところだった。


二年間もの間、理不尽な罵倒を受け続けても喰らい付いてきたのは、この肉感溢れる暴力的な肉体美を間近で見ることができたからである。始めて見る女の顔をした土銀はあまりにも煽情的だった。


「あぁん。おトイレ空いたぁ……倍木くん一緒にお・と・い・れ。いこぉ……?」


倍木の耳をくわえてしまいそうなほどに艶やかな唇を近付け、肌色のリップグロスから吹き出る悪魔の囁きが男の官能を最大限まで高めた。


倍木の目つきが細く、鋭く光る。


土銀はお姫様抱っこで抱き上げられ、二人はドア一枚で仕切られた一人用のトイレに愛の巣を作り始めた。


あまりに破廉恥で羨ましいことこの上ない一部始終を見てしまった麦白は、急いで買い物を済ませ、逃げるようにしてコンビニを後にした。


「ふざけんなよ……」


闇に呟く。


「ふざけんじゃねえよ!」


闇に吠える。


負け犬がいくら吠えたところで何も変わらないことは分かっていた。

それでも麦白はぶつけようのない怒りと憎しみを音に乗せるしかなかった。


大声に反応し、侮蔑ぶべつを含んだ周囲の視線が矢のごとく降りかかる。


(酒臭いハエ共がこっち見てんじゃねえよ!)


全てをなげうって、今にでも発狂したい激情が込み上げていたが、そんな度胸も覚悟もない。


麦白は憤怒の形相ぎょうそうで地面を睨みつけながら一人会社へと戻っていった。


駅前の喧騒から抜け出し、見慣れた雑居ビルの景色へと変わる。

人の音がしない世界――街灯の灯りも届かない“闇”の中からその声は聞こえてきた。


「お怒りですか?」


年は麦白と同じくらいだろうか。やせ細った中年男性が夜の帳からどこからともなく現れた。


「だ、誰だお前は」


おどろおどろしい男の出現にたじろいでしまう麦白。

不気味な風貌に思わず悪寒が走ったが、麦白はこの男から不思議なシンパシーを感じていた。


「お前なんかに構っている暇はないんだ。さっさと今日の仕事を終わらせないといけないのに……」


いつものように地面を向きなおしビルに戻ろうとすると、


「貴方は土銀という女を心底恨んでいるのでしょう? 屈服させ、あの女をこの手でぐちゃぐちゃに犯したいのでしょう?」


核心を突かれた麦白が心が鷲掴まれる。


「知った気になって……いったいアンタに何ができるってんだよ……!」


この男にそんな力があるわけない。できっこない――頭ではわかっていても一度掴まれた心はドクドクと大きく鼓動を打ち、期待に満ちた上擦り声が漏れてしまう。


「力が…………欲しいですか?」


男はさらに問いかける。いっさい表情は変わらないが、闇から発せられる並々ならぬオーラは麦白にも確かに伝わった。


「アンタも俺と同じだったんだな……」


男は突っ込んでいたポケットの中から手を出すと、そこに握られていたのはコルクで栓がされた小さな小瓶だった。中には紫色をした蛍の光のような幻想的な丸い光がポツンと漂っている。


「その光が俺の中に入ったらどうなっちまうんだ?」

「貴方が今一番必要としている力が手に入ります」


男はもう片方の手でコルクの栓を抜く。丸い光はまるで意志があるかのようにゆらゆらと揺蕩たゆたいながら麦白の胸に入っていった。


光が入った心臓を手で擦ってみるが何ら変化はない。非現実的な出来事に胸を膨らませた麦白の表情が落胆の色に変わる。


「おい、何も起こらないぞ。やっぱり嘘っぱちじゃ…………!? ぐ、ぎ……ぎゃああああああああああ!?」


心臓が破裂しそうになるほどの激痛が襲う。

パンパンに膨れ上がった心臓を金属スパイクで思い切り踏み付けられているようだった。


凄絶なショック痛が血流を伝って全身に届けられていくと、一瞬で意識を持っていかれそうになってしまう。

あまりの劇薬にの麦白は地面に身体を放り投げ、打ちあげられた魚のようにジタバタと藻掻もがいた。


「あああああああ!? 腕!! 腕がああああ!?」


心臓を押さえていた麦白に異変が起こったのはものの数秒後だった。

心臓を蝕むしばむ激痛は腕に伝播し、煮え滾るマグマの中に放り込まれた熱さが襲ってくる。


悍ましい熱さに二の腕から先の感覚が一瞬にして失われ、自分の腕がすっぽり抜け落ちてしまったと錯覚させられる。


カこぶのような肉瘤がポップコーンよろしくボコッボコッと浮き上がり、みるみるうちに黒紫色に変色すると、根元から浸蝕された腕は異形の触手へと姿形を変えた。


「ぐっ……………………うおおおおおおお!」


凄痛を乗り越え、闇の力を使役した麦白から常軌を逸した活力が漲みなぎってくる。


「へへへっ、ひゃぁぁぁああっ! たぎる……! 滾るぜぇえ……!」


うねうねとうごめく腕触手を自在に操り、己の力を再確認する。満ち満ちた怨讐を淫欲に変え、生まれ変わった麦白は闇の中に消えていった。


謎の男は残されたコンビニ袋を拾い上げると不敵な笑みを浮かべながら闇の帳に消えていった。


「期待しております」


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