深層標本ー瓶詰めの物語たちー

ヨルトキト

青い蝶の暮らす日々

 水の中にいるような、安らぎと眠りに満ちた空間。白髪の少年はそこでただ揺蕩っていた。

 ずっとここにいたいような、ここにいてはいけないような気持ち。そんな心地よさに、少年は身を委ねている。

「起きて」

 柔らかく彼を呼ぶ声がする。ルカはその声を知っているような気がした。

「起きて、ルカ。もう朝だよ」

 名前を呼ばれ、少年──ルカは目を覚ます。彼の左右で色が違う空色と柘榴色の瞳は、眠たそうに微睡んでいる。

 簡素な部屋の中にはルカしかおらず、砂の落ち切った砂時計だけが確かに時間を刻んでいた。

 今日も、曖昧な朝が来る。


「おはよー」

「おはよう」

「今日は実験だって」

「違うよお遊戯だよ」

「それは別の子じゃなかったっけ?」

 施設で暮らす彼らの声が満ちる。彼らはルカと同じ、どこから来たのかわからない「来訪者」と呼ばれる者たちだった。

 空白の宿木。それはこの箱庭にある唯一の施設であり、来訪者たちはここで保護と管理をされながら時間のない日々を過ごしている。

 あくびをしながらのんびりと朝食を取るルカに、よく知った声がかけられた。

「ルカ、おはよう」

 そこにいたのはルカと同じ顔立ちの、黒髪に空色の瞳の少年がいる。ルカの双子の片割れであるノアだった。

「おはよう、ノア」

 ルカものんびりと挨拶を返す。ノアはルカの隣へ座った。

 ルカに繋がれている管と、それに通じている丸いマスコットのような生き物のような何か。それを見てノアはぽんと手を叩いた。

「ああ、今日は検査の日か」

「そう、検査。そろそろ実験も近いのかな」

 実験。その単語にああ、とノアは頷いた。

「僕も最近はなかったな。今度は何をするんだろうねぇ」

「ね。色々と候補は上がってるらしいけれど」

 ルカはご馳走様、と手を合わせて食器を片付ける。のんびりとした支度が終わった頃合いでルカは職員に呼ばれた。

 ノアはルカに笑顔で手を振る。

「いってらっしゃい。もし時間が合えば一緒に遊ぼう」

 ルカも笑顔でノアに手を振った。

「いってきます。そうだね、時間が合えば後で一緒に遊ぼうか」

 ここは時の流れが曖昧な箱庭。ゆっくりと流れる時間に思いを馳せながら二人は別れた。

「こんにちは。ルカくん、今日は簡単な検査だからね」

 職員はルカに説明をしながら検査室へ連れて行く。ルカは大人しく職員に連れて行かれた。

 検査を行う部屋で、ルカは研究員に囲まれながら健康状態を確認されている。研究員の誰かが言った。

「ルカくん、この後でお客様の相手も控えているんでしょ? 手短に済ますね」

「よろしくお願いします」

 局長が手元のカルテを見ながら研究員に指示を出す。

「それでは、いつも通りによろしく頼むよ」

 いつもの手順通り、ルカは台の上に固定されていく。きらきら光る棚を眺めながら麻酔でふわりとゆらりと沈んでいく意識の中で、ルカは無意識に呟いた。

「おじいちゃん」

 呼ばれた局長はルカを見る。

「聞きたいことが、あるんです……」

 そうして彼の意識は眠りに落ちた。ルカが眠りに落ちたのを改めて確かめながら、研究員たちは様々な器具で数値を測ったり成分を調べたりしていく。

「──よし。特に問題ないね」

 局長はカルテに記入された数値を見て頷いた。

 そういえば、と研究員はルカを見ながらぼんやりと呟く。

「ルカくんの聞きたいことってなんでしょうねぇ」

「さあ。麻酔で浮ついてたみたいだし、大した話ではないんじゃないかな」

 やがてルカの瞼が震え、虚げな瞳が顔をのぞかせる。局長はルカに声をかける。

「ああ、起きたかい?」

「んー、ぅん……」

 重たい身体を起こして眠たそうに瞼を擦るルカの手を、局長はやんわりと止めた。

「目を擦っては体に悪いよ」

「あー……、と。そうですよね」

 だんだん意識がはっきりしてきたのか、大きく伸びをしてルカは台から降りた。局長が若干申し訳なさそうにルカに告げた。

「早速で悪いんだが、そろそろ天使さまが来る頃だ。いいかね」

 局長の言葉にルカも頷く。

「大丈夫です。支度は皆さんにお任せするので」

 そのままルカは、研究員から職員に引き継がれた。

「それじゃあ、ルカくん。早速行こうか」

 ルカは職員に手を引かれていつもの場所、遊技場へ向かう。

 遊技場。そこは来訪者たちが客の相手を行う場所である。ルカは客の相手をするためにこの部屋へ連れてこられ、職員たちの手により美しい衣装と装飾を施されていく。

 銀の鎖と装飾品は彼を儚く飾り立てる。そこへやってきた顔色の少し悪い美しい男性は、ルカを見て嬉しそうに笑う。

「やあ、ルカ」

 ルカもまた、男性ににこりと微笑んで頷きお辞儀をする。

「こんにちは、天使さま」

 天使さまはこの箱庭の上位存在である。天使を名乗っているが今は翼はなく、恐ろしいほどの美しさと傲慢さを持っていた。

 天使さまはにんまり笑いながらルカの髪をすく。

「今日もよろしく頼むよ」

「ええ、仰せのままに」

 白い部屋と飾りと、大きな天蓋のベッド。天使さまはいつもこの内装を好んだ。

 天使さまはルカに付けられた鎖と飾りを外し、そっとベッドの上に座らせる。そして横でごろりと寝転び、ルカを見上げた。

「さて。今日はどんな話を聞かせてくれるんだい?」

「では、双子のお星さまの話を」

 ルカの口から、柔らかく物語が紡がれる。天使さまはこうやってルカのぬくもりを感じながら、ふかふかのベッドで眠るのが好きだ。

 見た目は少年に見えるがその実長い長い時を生きてきたルカにとって、天使さまは幼い子供のようなものだ。だからこそ我儘もまあいいか、と聞き入れられる。

「ルカの隣は暖かいね」

 ルカの声を聞きながら、天使さまはうつらうつらとうわ言を言う。

「ルカ、ルカ。──頭が痛いんだ」

 天使さまはルカの手を掴み、懇願するように呟き続ける。

「お前が望むのなら、なんだって用意しよう。だから、お願いだ」

 天使さまは頭を押さえて苦しそうにうめき出す。

「ルカ。頭が痛い。いたい、いたい」

「……大丈夫」

 ルカは天使さまの頭を撫でて慰める。

「大丈夫ですよ。怖いことも痛いことも、ここには何もありません。安心して、ここは束の間の揺籠です」

 ルカの声でそっと眠りに落ちる天使さまを、ルカはずっと慰め続けていた。

 眠り続ける天使さまを撫でたりあやしたりしながら子守唄を歌うルカは、ふと扉の前に誰かの気配を感じた。

 見知った気配に、ルカはそっと扉を開ける。扉の前ではくすんだ翼の少年が立っていた。

「アンジュ?」

 ルカが少年の名を呼ぶと、少年ははっと振り返った。

「ルカ」

 アンジュと呼ばれた少年はルカの手を掴んで言う。

「ルカ、ここから逃げよう」

 アンジュの言葉に、ルカは困ったように微笑んだ。

「いらないよ。僕はここが好きだから」

「でも!」

 アンジュはルカの手を必死に掴んで懇願する。

「実験だ客の相手だ、いつも酷いことばかりじゃないか!」

 アンジュの訴えにルカはゆるく首を振る。

「多分、たぶん……君にはわからないかもしれない。けれど、悪いことはないから。……でも、心配してくれてありがとう」

 ルカは彼を安心させようと、アンジュの頭を撫でて彼を宥めようとする。

「なんで……?」

 絶望したようなアンジュの呟きに、ルカは曖昧に笑うだけ。

 そこに、天使さまの声が降る。

「ルカ」

 その声に、アンジュはびくりと肩を振るわせた。

「おや、贋作。お前もいたのか」

 天使さまからの冷ややかな視線を浴びて固まるアンジュをルカは背に庇う。

「天使さま、もうお帰りですか? 出口まで送りましょう」

 来た時よりかは随分顔色が良くなった天使さまに声をかけたルカだったが、天使さまは首を振る。

「いや、ここまででいい。……贋作、行くぞ」

 天使さまはアンジュに声をかける。アンジュは恐々と天使さまの後ろに控えた。

「それじゃあ、ルカ。また」

「ええ。お待ちしております。アンジュもね」

「……」

 アンジュは黙ってお辞儀をして、天使さまと共に去っていく。ルカはそのまま手を振りつつ二人を見送った。

「──ルカ」

 柔らかい声にルカは振り返る。

「おじいちゃん」

 おじいちゃん。そう呼ばれた局長は微笑んだ。

「お疲れ様。それで、聞きたいこととはいったい何だね?」

「え?」

 一瞬ぽかんとしたルカだったが、検査前にそんな譫言を言ったことを思い出す。

「あー……大したことではないんですけども」

 ルカは棚の上にある素材の瓶たちを思い浮かべながら局長に問うた。

「実験の時に使う材料って、どこから取ってくるのかなって」

 それを聞いた局長はああそのことか、とぽんと手を叩く。

「夢幻、と呼ばれる場所があってね。君たちの記憶や物語のかけらを元に、色んなものが流れ付くんだよ。よかったら一緒に行ってみるかい?」

「いいんですか?」

「ああ。減るものでもないからね」

 局長はルカを連れて、施設の奥にある大きくて古い扉を開けた。

「ほら、ここが夢幻。そしてこれらが、君たちのかけらから流れ着いたものだよ」

 夜を深く煮詰めたような、果てのない深海を切り取ったような深い青色が流れている。そこには確かに、鉱石や羽根や透き通るものたちが流れては沈んでいく。

 局長は手で掬い取り、ルカに鉱石のような何かを見せた。鉱石の中に青色と黒色の粒が混ざり合い、インクルージョンとなり溶けていく。

「君とノア。二人の結びつきは誰よりも深いところで結われているんだろう」

 局長は静かにルカに告げる。

「実はね、君たちに要望が来ているんだよ」


 今回の実験は、ルカとノアを対象に行うらしい。

 一度に二人も使うなんて贅沢だ、との声も上がったが双子だからこそ得られる実験結果もあるだろう、という意見で今回の実験はあっさりと決まった。

 台の上で二人は手を繋ぐ。そして面白そうにくすくす笑って言葉を重ねる。

「一緒なんて珍しいね」

「だね。今回はどんなことが起こるだろう」

 二人はそっと微笑み合う。二人は声を揃えて宣言した。

「さあ、始めよう」


 双子の蝶は夢を見る。それは過去の──かけらの中の記憶かもしれない。

「おいで」

 ルカはその手に愛しの家族の手を握る。ルカの周りを青い蝶が飛び交い舞う。

「ルカ」

 振り返ると、そこには黒い蝶を纏ったノアが笑っていた。

「行こうか。僕らの帰るところに」

 仲良く手を繋ぎ、彼らは歌う。愛おしそうに歌う。懐かしい追憶を愛おしそうに撫でて、甘やかな幻想を辿っていた。


 研究者たちは切先で皮膚を撫でて、一つ一つ中身を取り出す。夢見る彼らの中身は幻想で満たされ、ほのかに煌めいていた。

 震える身体、脈打つ鼓動。箱庭に元々いる者には決して手の届かない幻想と夢幻を持つ彼らは蠱惑的で、研究者たちを惹きつける何かがある。これだから、実験はやめられない。

 いくつかの薬を投薬しながら、研究者たちは実験を進めていく。

 双子の蝶。培養槽の中で再構築される彼らは、こんこんと夢を見る。やがて彼らの背にそれぞれ青い翅と黒い翅が形成されていく。

 噂を聞きつけた天使さまが、アンジュを連れてやってきた。

 天使さまは培養槽にいるルカとノアを見てうんうんと頷き、局長に袋を手渡した。

「今日は二人にご相手願おう。やはり彼らは美しく、愛らしい」

 局長は頷き職員と研究員を呼んだ。職員の一人が手元にある資料を見ながら天使さまに確認する。

「それでは、整い次第準備をいたします。いつも通りの部屋と装飾で構いませんね?」

「ああ。いつも通りに頼む」

 天使さまと職員のやりとりを聞いて、アンジュは俯き手を固く握りしめた。

 そうして用意された部屋の中で、ルカとノアは蝶のように透き通る翅を広げて天使さまとアンジュを見上げている。

 天使さまは壊れ物を扱うようにノアに触れた。ノアはきゃっきゃっと嬉しそうに笑っている。

 扉の前で硬く手を握りしめて俯くアンジュに、煽るような口調で天使さまは言う。

「どうした? お前も触れたいのだろう、嘘とは言わせないぞ」

 そう、アンジュだって彼らに触れたくて堪らない。だからこそ浅ましい自分に吐き気を催す。

 天使さまは言葉を重ねる。惑わすようにアンジュを誘い込む。

「彼らはお前を赦すよ」

 そんなこと、アンジュだって知っている。知っているからなおさら近づくのが怖くなる。見ないでくれ。浅ましいおれを見ないでほしい。アンジュは強く思う。

 ああ、でもだからこそ。

「ルカ」

 アンジュは祈りを捧げ赦しを乞う。

「ルカ、時止めの青い蝶と呼ばれた魔法使い。おれの希望。どうか、ごうかこの感情を許してほしい」

 青き蝶と呼ばれた彼はそっと笑って、アンジュの手を取る。そして無邪気に抱きついてふふ、と笑った。それだけでアンジュは無性に泣きたくなった。


 ──ぱちりと、ルカは目を覚ます。

 ルカはそっと横目に片割れを見た。広いベッドの上で、ノアはくうくうと無邪気に眠っている。

「ルカ」

 上から優しい声が降る。ルカが見上げると、そこには局長が立っていた。

「おじいちゃん」

 ルカの呼びかけに、局長は優しく問いかける。

「今回の実験も無事に終わったよ。ルカ、夢は見たかい?」

 局長の問いに、ルカは嬉しそうに微笑んだ。

「とても幸せな夢でした」


 夢と幻想を内包した悠久のこの箱庭で、今日も彼は過ごしている。

 それが彼にとって、現実であり居場所であるのだから。

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