第47話 モウレン
その魔物は、木々の影から突然姿を現した。
手足の妙に長い細身の人間のような姿。だが、のっぺりとした顔を含め全てが黒一色の、まるで影人間だった。
それが、口もないのに身体を震わせて笑い声のような鳴き声を発した。
モウレン。
マイトエグドの前触れとして現れる奇妙な魔物。
「うわ」
先頭のムルケが、ぺたんと腰を抜かして座り込んだ。
「出た」
「下がって!」
戦闘用のハンマーを構えたヒルダと剣を抜き放ったヘスが、その前に飛び出す。
「とりあえず補助するね」
ファリアが一瞬の動作で二人の武器に強化の魔法をかけた。
「おお、早い」
ヘルートは感嘆の声を上げる。
「おじいちゃんはヒルダに筋力強化」
ファリアは振り向きもせずにヘルートに指示を飛ばす。
「早く早く」
「はいはい」
ヘルートがヒルダの筋力強化を終えたときには、ファリアはもうヘスの筋力強化も終えていた。
「おじいちゃん遅いよ」
「それはすみませんな」
「……ん?」
ヒルダが自分の前でハンマーを一振りする。ハンマーは、ひゅんと鋭い風切り音を出したが、ヒルダは首をひねった。
「なんというか、強化が弱い気が」
「あれ、おじいちゃんもしかして」
ファリアがヘルートを振り返る。
「魔法、下手?」
「下手なものですか」
ヘルートは落ち着き払った顔で顎髭をしごく。
「きちんと強化できたでしょう」
「それはそうだが、いつものファリアの魔法よりも効きが悪いというか」
「あのね、おじいちゃん。強化の魔法っていうのは」
「ファリア、今はそんなことを言ってる場合じゃない、後にしろ」
ヘスが叫んだ。
「敵に集中しろ、もう一体来るぞ」
影人間のような魔物が、背後の木の影からまた姿を現した。
「いや、もう二体いますな」
ヘルートが言った。彼の言葉通り、さらに二体、モウレンが姿を現す。全部で四体。
「俺から行くぞ!」
ハボンが素早く弓につがえた矢を射た。
矢は先頭のモウレンの胸に突き立ったが、接近してくるその動きに変化はない。耳障りな笑い声が大きくなる。
「効かねえぞ」
「じゃあ、私の魔法で薙ぎ払う!」
「待って」
はやるファリアを、ヒルダが止めた。
「まだ先は長い。効率のいい戦い方をしましょう」
そう言うと、胸の前で片手で素早く印を結ぶ。
それはヒルダの仕える、知恵神ハルクムの印。
「分かったわ」
ヒルダは微笑んだ。
知恵神の神官のみが使える神聖魔法、「鑑定」。
動植物や土地、魔物や武器防具、術具など、様々なものについて、この世の全てを知るとされる知恵神ハルクムの持つデータベースにアクセスすることのできる力だ。
ハルクムに仕える神官は、実物を目にすることで、鑑定の力を発動できる。
「あいつが人間と同じ形をしているから、それに惑わされそうになるんだ。モウレンは頭を潰さなければ倒せない」
「頭だな」
ハボンが次の矢をつがえる。
「慌てるな、ハボン。あいつの頭はあそこだ」
ヒルダが指差したのは、右脚の先だった。
「へ!?」
「通常武器は効きが悪い。ファリア、ハボンの矢にも」
「強化の術ね。はあい」
「私たちも行くぞ、ヘス」
「おお!」
ヒルダとヘスが突っ込んでいく。
「脚の先が頭? 地面に頭くっつけて歩いてんのか、こいつら」
ぼやきながらハボンがファリアに強化してもらった矢を放つ。
矢が見事にモウレンの右脚の先を貫くと、モウレンは一度「ぎゃはは!」と笑い声を上げた後、どろりとした液体状になって地面に滲み込むようにして消えた。
他の三体のモウレンの動きが慌ただしくなった。
人間と同じ体なのに、人間の関節ではないところを奇妙に曲げながら、モウレンはヒルダとヘスに迫る。
「ふんっ!」
ヒルダの振り下ろしたハンマーがモウレンの足を地面ごと抉り取る。
ヘスの剣がもう一体のモウレンの足を切り刻むと、二体のモウレンも奇怪な笑い声とともに消え去った。ヒルダはハンマーを構えて最後の一体に突撃する。
「ええいっ」
ハンマーの横なぎの一撃は空を切った。モウレンが意外なほどの速さで、胴を真ん中から直角に後ろに折ってかわしたからだ。
素早く身を起こしたモウレンは、踏み込んで黒い腕をヒルダに伸ばす。
まるで戦士のような、目にも留まらぬ攻撃だった。
とっさにヒルダは身をかわしたが、モウレンに触れられた籠手からは白い煙が上がった。
「ヒルダ!」
「大丈夫!」
モウレンが続けざまに腕を伸ばす。その攻撃をかいくぐったヒルダは、ハンマーでモウレンの脚を叩き潰した。
モウレンが耳障りな笑い声とともに消えると、ヒルダとヘスの周りには四体のモウレンの黒い染みのような残骸が残った。
魔物狩人のマリウスに怯まず言い返すだけあって、ヒルダたちの実力は確かなものだった。
モウレンを排除したハイザル幻想楽団の面々は、そこで一旦前進を止めた。
怯え切った様子のムルケを助け起こし、道の先を見るが、今のところ次の魔物の姿はない。
「じきに後続のモウレンも来るだろうから、この辺りでマイトエグドと戦うことになると思う」
ヒルダは言った。
「……ところで、ヘルートさん。さっきの話だけど」
「はい」
「あなた、魔法の腕は」
「初歩魔法ならば一通り使えます」
「それ以外の魔法は」
「勉強中です」
ヘルートの返答に、白けた空気が漂う。
「ああ、契約金が安かったのはそういうわけか」
ヘスが納得したように頷き、ハボンが首を振る。
「何もこんなヤバい仕事のときにハズレのじいさんを掴まなくたっていいのによ。ツイてねえな」
「おじいちゃん、実はかなりブランクがあるんじゃない?」
ファリアがため息交じりに尋ねる。
「若い頃に魔法を習った後で、研鑽しないでほったらかしてたんでしょ。それで最近急にまた使い始めた。だからあんなに下手なんでしょ」
「いえ」
ヘルートは首を振った。
「魔法を初めて習ったのは、二十年くらい前のことですな。それからずっと、研鑽を続けておりますが」
「二十年もやってて下手なのか。それじゃ才能ねえんじゃねえのか」
ハボンが言ったが、ファリアは「噓でしょ」と苦笑した。
「二十年前って、おじいちゃんそのとき何歳よ」
「四十四とか五とか、まあそのへんですかな」
「それは嘘よ」
ファリアは首を振る。
「だって、魔法って若いうちじゃなきゃ絶対に身につかないんだもの。大人になってから魔法使いになろうとしても、もう手遅れなんだから。学び始めるリミットは十二歳とか十三歳とかって言われてるのよ。それでみんなもっとちっちゃい子供の頃から魔法学校に行ったり魔法使いに弟子入りしたりするんだから」
「だから二十年かかっても下手ということか」
ヘスが言った。
「おっさんになってから始めたから、上達が遅くていまだに初歩の魔法しか使えないと」
「違う、違う違う」
ファリアは激しく首を振る。
「下手とかそういうことじゃないの。四十いくつとか、そんな年齢で魔法使いになれる人なんて、そもそもいないんだよ! おじいちゃんの話が本当なら、今魔法を使ってること自体があり得ないんだってば!」
「そうはいっても、現実に使ってるしな」
「だからおじいちゃんが嘘をついてるとしか」
「噓などついておりませんぞ」
「その話はもういい」
ヒルダがファリアを遮る。
「今はそんなことよりも、自分たちの戦力を把握することが大事だろう」
「うん、それはまあ……」
「じゃあヘルートさん、あなたは私とヘスの補助に徹して。武器強化の魔法を専門に」
「分かりました」
ヘルートが頷く。
「ファリア、大きな攻撃魔法はあなたが担当よ。いい?」
「いいよ」
まだ納得のいかない表情ながら、ファリアは頷いた。
「おそらく、あと何度かモウレンの集団を排除すれば本命のマイトエグドが現れるはずだから、それまではできるだけ戦力を温存しておきたいわ」
「今の感じなら、筋力強化は要らないな。武器強化だけで十分だ」
ヘスの言葉に、ヒルダは頷く。
「ええ。モウレンの手に触れられると凍傷のようになるから、それだけは気を付けて。ファリアの大魔法はなるべく使わずに済ませたいわ。ムルケさん、そういうわけで、ここまでありがとうございました。ここから一人で帰れますか」
「え、あ、ああ」
ムルケが頷いたときだった。
ふわり、と風に乗って甘い香りがした。
「ん? 何だ、この香り」
ハボンが鼻を引くつかせる。
「自然の匂いにしちゃ強すぎる。これは……」
「嗅いだことがあるような、ないような」
ファリアも鼻筋に皺を寄せる。
「おい!」
ヘスが前方を指差した。
不意に、げらげらという笑い声が巻き起こる。群衆が一斉に笑い出したような騒々しさだった。
狭い山道の先に、ぎっしりとモウレンが詰まっていた。それぞれがぎくしゃくと奇怪な動きをしながらこちらに迫ってくる。その数は少なく見積もっても。
「三十はいるぞ!」
ハボンが叫ぶ。
「どうしていきなり、こんなに出て来やがった」
「パルハクランの香りですな。異界の魔物どもが好む匂いだ」
ヘルートが言った。
「おそらく、これは彼らの」
ヘルートが言い終わらぬうちに、冒険者たちの背後から四人の男女が音もなく姿を現した。
軍の魔物狩人チームだった。
「仕事の邪魔をしてもらっては困るな」
マリウスは冷たい目でヒルダを一瞥した。
「こんなところで、我々の予定を狂わせないでくれ」
「これはあなたたちの仕業なの」
ヒルダは叫んだ。
「魔物を集めているの?」
「パルハクランの香りでモウレンを引き寄せて、まとめて叩き潰す。それによってマイトエグドを速やかに出現させ、村まで誘導して撃破する。それが我々の作戦だ」
マリウスはそう言うと、小さくため息をつく。
「本当はもっと麓でモウレンを倒すつもりだったが、お前たちがこんなところで勝手に始めてしまったのでやむを得ない。ここでやらせてもらう」
「やらせてもらうって、あれだけの数を?」
ヒルダは自らのハンマーを掲げる。
「ここは協力しましょう。あの数を相手にするなら、戦力は少しでも多い方が」
「黙れ」
氷のような声で、マリウスは言った。
「かえって迷惑だ。余計なことをして、巻き添えで死んでも文句は言わせんからな」
マリウスが右手を上げると、くすくすと笑いながら二人組の女魔法使いがヒルダの脇を駆け抜けていく。そのすぐ後に、若い男も続く。
「死にたくなければここで見ていろ」
そう言い残すと、マリウスは走り出しながら剣を抜き放った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます