第37話 老魔法使いは動じない

「……若造、だと」


 さすがのトリアも、一瞬呆気にとられた顔をした。


 世界を救った大英雄の一人である彼に、いくら年上であろうともそんな呼びかけをできる人間がこの国にいるはずはなかったからだ。


「なんだよ、若造だろ?」


 ヘルートはもう一度言った。


「あんたさっきから、今の連中は、今の連中はってそんなことばっかり言ってんだからよ。それだけ年齢の上下にこだわってるんなら年上の儂があんたを若造呼ばわりしたって何にもおかしくねえだろ」


「年齢だけではない、問題はその密度だ」


 虚を突かれたのは、ごく一瞬に過ぎなかった。トリアは早くも威厳を取り戻していた。


「ただ無駄に年齢だけを重ねた老いぼれなど、敬うに値せん」


「都合のいい話だぜ」


 ヘルートは肩を揺らす。


「自分の人生には価値があるが、他人の人生はクソってことか。結局は自分を崇めてほしいだけなんだろ?」


「違う」


 トリアが右手を突き出した。


「お前のような恥知らずがいるから、若い世代が堕落するのだ!」


「おいおい。若造、落ち着けって」


 ヘルートは落ち着き払っていた。


「まさかいきなりでっけえ魔法をぶっ放すつもりじゃねえだろうな。後ろにこんないたいけな女の子が眠ってるってのに。“光の剣”の大英雄ってのはそんなことをするのかい」


 トリアはヘルートの背後に横たわるカテナを忌々しそうに見やると、乱暴に腕を振った。


 その一瞬で魔法が発現し、光の羽毛に包まれたカテナの身体は、離れた茂みの陰に運ばれた。


「これでよかろう」


「そうだな、まあいいだろう」


 ヘルートは顎髭をしごいてにやりと笑った。


「それじゃあ、始めるか」


「ふん」


 トリアは鷹揚に両腕を広げる。


「ハンデだ。お前から来るがいい。その年齢になるまで重ねてきた研鑽の成果を、見せてみろ」


「伝説的パーティの大魔法使い様に儂の魔法を見ていただけるのか。そりゃあ光栄だな」


 ヘルートは口の中で呪文を呟くと、右手を勢いよく突き出した。


「ふんっ」


 火球の魔法。


 こぶし大の火の玉が自分に向かって飛んでくるのを見て、トリアは一瞬己の目を疑った。


「……何をしている?」


 トリアが身じろぎ一つせずに剥き出しの魔力を身体から発しただけで、火球は儚く消えた。


「おお」


 ヘルートが目を見開く。


「やるな」


「まさかこれが全力というわけではあるまい」


 トリアは言った。


「ふざけていないで、全力で来い」


「そうか。それでは遠慮なくいかせてもらおう」


 ヘルートは口の中で呪文を唱え始めるが、トリアは、


「違う」


 と言って手を振った。


 それだけでヘルートの魔法は発現することもなく消え失せた。


「むおっ」


「初歩の魔法ばかりではないか」


 トリアは怪訝そうに目を細めた。


「お前、本当にその程度の力しかないのか」


「初歩の魔法は全て使えるぜ」


 ヘルートは胸を張った。


「それ以外に何が要る」


「まさかとは思ったが」


 トリアは嘆息する。


「貴様、虚勢だけで世を渡ってきた口舌の徒か」


 その口ぶりに静かな怒りが滲む。


「真摯な人間ばかりが命を散らし、貴様のような屑だけが無駄に長生きをしてその世代全てを汚すのだ。世代の敵だ、貴様は」


「世代の敵」


 ヘルートは笑う。


「初めて言われたな、そんなこと……ぐっ」


 ヘルートは突然呻いた。


 喉を押さえて苦悶の表情を浮かべる。


「がっ」


「貴様の呼吸を止めた」


 トリアは身体を折って苦しむヘルートを冷たい表情で見下ろした。


「今まで口ばかりで巧妙に逃げまわってきたツケを払え。貴様が本来負うべきだった人生の苦悶を、まとめて味わって死ぬがいい」


 息を止められただけではない。


 全身に無形の圧力がかかり、きしむような痛みを発していた。


「ぐううっ」


 ヘルートは呻いた。その顔が赤黒く染まっていく。




 ヘルート。


 ヘルート、お願い。これを。




 全身が目に見えない巨大な手に握り潰されていくような感覚。


 だが、ヘルートを襲うその痛みは、どこか懐かしいものだった。


 ああ、そうだ。


 混濁しかけた意識の中で、ヘルートは思った。


 あの頃は毎日こんな苦しみを味わっていたんだった。




 目の前の敵を、ただ機械的に屠り続ける日々。


 今日も、屠る。


 明日も明後日も、屠る。


 熾烈さを増す戦場。


 次々に命を落とし、入れ替わっていく仲間たち。


 ナシオンのようなやつも、ニドックのようなやつもいた。


 そいつらがみんな死んでしまって、いつの間にか古参と呼ばれるようになって。


 それでも、魔物の数は減らなかった。




 魔物狩人だと?


 呼吸もできない痛みの中で、ヘルートは声を出さずに笑った。


 いくら魔物を狩ったって、そんな洒落た名前は俺たちには与えられなかった。


 あの頃は冒険者が崇高な職業だったって?


 それなら、俺達はいったい何だった?




 ヘルートの両目の端から、赤い血が流れ落ちた。


 それはまるで涙のように、老人の皺だらけの頬を伝った。


 崇高な生き方。俺たちの世代に、そんなものありゃしなかった。


 俺たちは、ただ必死に戦っていただけだ。


 来る日も来る日も、こんな苦しみに耐えながら。


「ああ、これだ」


 ヘルートが、ごきん、と自分の首をひねった。


「ぷう」


 溜まっていた息を深く吐く。


「思い出した。あの頃はいつも、こうだったな」


 そのまま、トリアに向かって足を踏み出す。


「久しぶりに昔の感覚を思い出したぜ」


「なに?」


「お前が勝手に美化してるあの頃とやらじゃねえ。本当のあの頃のことを」


 ヘルートは何事もなかったかのように歩き出していた。


 自分の魔法が跳ね返されたことにトリアはわずかに困惑する。


「お前のその抵抗力だけは、特筆に値するな」


 トリアにはそれでも相手を誉める余裕があった。


 魔法の力で飛翔すると、ヘルートからふわりと距離を取る。


 直接の攻撃魔法に切り替えるか。


 着地したトリアは、胸の前で素早く印を結んだ。


 全盛期の力はすでに失ったとはいえ、炎王龍との戦いで大きな力を発揮した大魔法の一つ。


 裂空陣の魔法。


 突如、あらゆる方向から風の刃がヘルートを襲った。


 鋼の鎧も難なく断ち切るその魔法は、炎王龍の鱗すら両断する威力を持つ。ローブ姿の老人などひとたまりもない。


 ヘルートが刃の中心で身をよじる。


 纏っていたローブにたちまちいくつもの裂け目ができた。


 後ろに撫でつけていた白髪が、風に乱されてぱらりと額にかかる。


 だが、それだけだった。


 まるで不可視の刃が見えているかのように、ヘルートは裂空陣から抜け出した。


「ほう」


 トリアが腕を突き出す。


 ヘルートの頭上から、稲妻が叩きつけられた。


 激しい爆音。


 それも一発ではない。立て続けに五発。


 天譴雷槍の魔法。


 先日、魔物の群れを一掃した必殺の魔法だった。


 地を揺らす轟音。だが爆風の中から、トリアの額目がけて小さな石が飛んできた。


「むっ」


 トリアは魔力を発して石を粉々に砕く。


 煙の中からヘルートが歩み出てきた。


 破れかけたローブから煙が上がっていたが、本人の表情は変わらない。


「稲妻が貫いたはずだぞ」


 トリアが言った。


「どうしてまだ生きている」


「かわしたよ」


 ヘルートは答える。


「一発か二発は当たったかもしれんが、そこはまあ気合いだ」


 破れたローブの袖から、何かが地面に転がり落ちた。


「おっと」


 敵の面前だというのに、ヘルートは身を屈めてそれを拾い上げる。


 大英雄を前にして、まるで眼中にないかのような態度。


「貴様」


 トリアが両手を前に突き出した。


 その呪文を耳にしたヘルートはにやりと笑う。


「ああ、それだ。ちょうどいい」


 そう言って、拾い上げたものを自分の前に掲げる。


 トリアの手から、炎王龍の炎もかくやという熱線が放たれた。浴びたもの全てを焼き尽くす強力な魔法だった。


 熱線はヘルートの掲げた何かに直撃する。そのまま本人ごと蒸発させるはずだった大魔法は、しかしそのまま消えた。


 まるで吸収されてしまったかのように、膨大な熱量はどこにも残らなかった。


「何?」


 今度こそ、トリアは驚きの声を上げた。


 ヘルートは自分が手にしていた氷の塊を見て、それから失望したように首を振る。


「やっぱりだめか。まあ、そう甘くはねえか」


「何だ、それは」


 トリアは言った。


「その氷は」


「あんたの魔法ならもしかしたら溶かせるかも、と一瞬期待したんだがな」


 灼熱線の魔法ですら溶かすことのできない氷。


 トリアの知る限り、そんなものはこの世にたった一つしかなかった。


「永久氷壁の欠片か」


 トリアの言葉をヘルートは否定しなかった。


「なぜ、貴様がそんなものを持っている」


「そんなこたあ、どうだっていいだろう」


 そのまま無造作に距離を詰めてくるヘルートに、さすがに危険を感じ取ったトリアはもう一度灼熱線の魔法を放った。だが今度は、ヘルートは氷をかざすこともしなかった。


 首をわずかに傾けて、熱線をかわす。背後で大きな爆発が起き、ヘルートの白い髪を揺らした。


 さっきの裂空陣をかわしたときもそうだった。


 この身のこなしは、魔法使いのものではない。


 トリアは確信した。


 この男、何者だ。


 ヘルートが不意に地面を蹴った。


 目にも留まらぬ速さで、一気にトリアとの距離を詰める。


 それでもとっさに光球の魔法を叩き込むことのできたトリアはさすがだった。だが、ヘルートは肩でそれを受け止めた。


「何!?」


 なんだよ、やっぱり溶かせねえのか。


 ヘルートの脳裏を、あの日の光景がよぎる。


 三十年近く、一日たりとも忘れることのなかった光景が。




 ただ一度の、だが取り返しのつかない、大きな過ちだった。


 ヘルートはなすすべなく絶望の呻き声を上げる。


 巨獣の、断末魔の哄笑が響く。自分の愛した女が、目の前で凍り付いていく。


 ヘルート。ヘルート、お願い。


 必死に伸ばした手からこぼれ落ちた手紙。


 お願い、これを。


 ヘルートも震える手を伸ばす。


 だがそれすらも、ヘルートに届くことなく凍り付いていく。




「貴様はいったい何者だ!」


「うるせえ」


 ヘルートの頬を、真っ赤な涙が伝っていた。


 白いローブの胸ぐらを掴むと、かつての英雄を引き寄せる。


「そんなこたあどうだっていいんだ。俺がつまらねえドジを踏んじまったせいで、連れの女が目を覚まさねえんだ。それでこっちは困ってるんだ」


「な」


「永久氷壁を溶かさなきゃならねえんだよ。そのために太陽の石が要るんだよ。なあ、何か知ってるのなら隠さねえで教えろよ」


 ヘルートの目に、偏執的な光が宿っていた。いつの間にかその一人称が変わっていることにトリアは気付く。


「てめえ、知ってて隠してるんじゃねえだろうな。教えろよ、なあ。この世のどこかにあるんだ。絶対にあるんだよ。不可能は可能になるんだ。俺が可能にするんだよ」


 その異質な迫力に、トリアの背筋は凍った。


 そんな恐怖を感じることなど、ついぞなかった。炎王龍を目の前にしたあの日以来。


 飄々とした態度を崩さなかったこの老人をして、ここまでの執着をさせるもの。


 まさか。


 トリアは、とどめの一撃を受けて滅びゆく炎王龍の最期の言葉を思い出していた。


「余を討ったとて、王は一人ではないぞ」


 冒険者たちのそれまでの奮闘をあざ笑うかのような哄笑。


 今までそれは、敗れた魔物の悔し紛れの負け惜しみだと思っていた。炎王龍ほどの魔物であっても、人の心を弄ぶためにそんな言葉を吐くのかと。


 事実、あの日から現在に至るまで、ほかの王龍は現れていないのだ。


 だが目の前の男の持つ氷の塊が、恐るべき可能性を示唆していた。


 永久氷壁を作り出せるのは、氷王龍のみだ。


 そして、決して砕くことのできないはずの永久氷壁の、“欠片”を持つ男。


 その示すところは。


 まさか。


 まさか、この男は。


「聞いたことがない」


 トリアは言った。


「あの時代に、そんな男がいたなど。英雄は私達だけだったはずだ」


「一人の人間が見ることのできるものなんて、どれだけちっぽけなのか知らねえのか」


 ヘルートはトリアに顔を近付ける。


「昔はよかったなんて美化すんのはてめえの頭の中だけにしときな。自分たちの時代だって知らねえことだらけなのに、そんな寝ぼけて霞んだ目で今の時代を斜めに見るんじゃねえよ」


 その猛禽のような目に見据えられると、トリアはもう次の魔法を繰り出すことができなかった。


「自分の誇りに殉じるやつも、名を挙げたいだけのやつもいた。踏みとどまって戦うやつも、逃げ出して生き延びるやつもいた。そんなのは、今も昔も変わらねえよ」


 私の目にすることのなかった真実があるのか。


 英雄は私たちだけではなかったというのか。


 自分が今まで立っていた、堅固だと信じて疑わなかった土台。だがそれは実は、底のない沼だった。


 そんな感覚に襲われたトリアは、不意に足の力が抜けてその場に膝をついた。


「だから、そんなことはどうだっていいんだよ」


 ヘルートはトリアの胸ぐらを掴んだまま、もう一度言った。


「こっちは今を生きてるんだ。なあ、教えろよ。太陽の石はどこにあるんだよ」


 その目が、ひたとトリアを見据える。


「知ってるんなら教えろ。お前の御託になんざ何の興味もねえ」


 揺らぐことのない目的。


 至極単純な、だからこその強固さ。


 それにトリアは圧倒された。


 ヘルートのその確固たる信念を前にすると、自分の掲げた理想がまるでうわべだけの陳腐なもののようにさえ感じる。


 これから生まれてくる子供たちが、純粋に未来を信じられる世界。


 それを作るには、あの苦難の時代を忘れてはいけないのだ。それを思い出させるのが私の役割だ。


 そう信じていた。だが。


 わが友、クワトルよ。


 私は、間違っていたのか。


「なあ、答えろよ」


 ヘルートがローブを掴む手に力を込める。


「知ってるんだろ、なあ」


「もう、許してくれ」


 トリアはついに敗北を認めた。


「私の負けだ。お前の言葉は正しい」


「単なるケンカだろうが」


 ヘルートは答えた。


「こんなもんに、正しいもくそもあるかよ」




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