第19話 未熟な老魔法使い
「すぐに済みますのでな」
ヘルートは優しい口調でカテナに言うと、一歩前に出た。
口髭の中で、もごもごと呪文が唱えられる。
「てえいっ」
ヘルートが魔物に向けて手を突き出すと、彼の足元に転がっていた石ころが、目に見えない手に投げられたかのように、魔物に飛んだ。
カテナは目を見張る。
これは、魔法だ。
まさかヘルートも魔法使いだったなんて。
だが、魔物は石をよけようともしなかった。
四つの口の一つをワニよろしくばくりと開くと、鋭い牙で石をくわえ、そのままごりごりと噛み砕いた。
「
魔物の別の口が嘲った。
「こんな初歩の魔法で、私を倒すだと?」
しかしヘルートは怯まなかった。
続けざまに、二つ、三つと石が魔物に飛ぶ。
「やれやれ」
これ見よがしにため息を吐き、魔物が再び口を開く。
凄まじい速さで四つの顎が動いた。
ヘルートの飛ばした石は全て魔物の牙に捕らえられ、そのまま咀嚼されてしまった。
「どれ、今度はこちらから行こうか」
魔物が右手を軽く動かすと、風が巻き起こった。
「きゃあっ」
カテナが思わず悲鳴を上げるほどの強風だった。前に立つヘルートが風を遮ってくれるものの、それでも白い衣装がばさばさと激しくはためく。
ヘルートの足が、ずずず、と後ろに動いた。
その痩せた身体が飛ばされそうになっているのだ。
魔法使いでも何でもないカテナにも分かった。二人の力の差は圧倒的だ。
真剣に呪文を唱えて、石ころを三つか四つ飛ばしてみせたヘルートと、手を少し動かしただけでこちらが息もできなくなるくらいの強風を吹かせるクウラフウラ。
比べるまでもなかった。
ヘルートには、とても勝ち目はない。
「このまま吹き飛ばして壁に叩きつけてやってもいいが」
魔物はそう言って、手を下ろす。
その途端、風がぴたりと止んだ。
「それではあまりに面白くない」
そのときには、ヘルートが呪文を唱え始めていた。
それを聞いた魔物が「お」と言って笑う。
「なんだ、次は火で勝負か」
「ええいっ!」
ヘルートが気合とともに突き出した右手から、こぶし大の火球が飛んだ。
だが、魔物が無造作に手を振ると、再び巻き起こった風によって火球は瞬く間に吹き散らされてしまった。
「未熟な魔法使いよ。いいか、火球というのはな」
魔物がヘルート同様に手を突き出す。
「こういう風に使うのだ」
その瞬間、ヘルートはカテナを抱いて横っ飛びに身を投げ出した。
「きゃあっ」
魔物の放った巨大な火球は、石の扉に当たって爆発した。
巨大な塔そのものが、ずしん、と揺れた。
危うく難を逃れた二人に、魔物の放った次の火球が迫っていた。
ヘルートの何十倍もの威力の火球を、魔物は苦もなく立て続けに放ってみせた。
「ぬうっ」
ヘルートは再びカテナを抱いたまま跳んだ。
だが、今度は逃げ切れなかった。爆風に巻き込まれて二人は吹き飛ばされる。
それでもヘルートはカテナを庇うように抱いたまま、石畳を転がった。
「ぐうっ」
さすがのヘルートも苦痛の呻きを漏らす。
それを耳にしたカテナの胸には深い絶望が広がった。
無理だ。
とてもじゃないけれど、勝てる相手ではない。
こんな戦いにもならないような戦いを続けて、二人そろって殺されてしまうくらいなら。
カテナは決意した。
それならば、元から決まっていた通りに私が晴らし子として食べられてしまえばいいんだ。
そうすれば、霧は晴れて村は平和になる。
確かにヘルートはクウラフウラの正体を見てしまったけれど、村で彼の言葉を信じる者はいないだろう。
私を食べて満足すれば、ヘルートは見逃してもらえるかもしれない。
カテナは覚悟を決めて立ち上がった。
「クウラフウラさま。もういい。あなたの力は分かったから、私を食べて」
そう言って、カテナは両手を広げた。
「その代わり、ヘルートのことは見逃してあげてください」
「おお、なんと、これは」
魔物もカテナに合わせるように両手を広げた。
「なんといじらしい。老い先短いじじいのために、可憐な少女がその身を犠牲にしようというのか」
芝居がかった口調でそう言うと、それから四つの口をいやらしく歪めた。
「大好物だ」
カテナは全身に怖気が走るのが分かったが、それでも魔物から目を逸らさなかった。
「その気高い精神のまま、私に食べられてくれるのであれば、そこのじじいのことは考慮しよう」
まるで紳士のような口ぶりで言いながら、魔物がゆっくりと近付いてくる。
怖い。
涙で視界が滲んだが、カテナは歯を食いしばって恐怖に耐えた。
お父さん。お母さん。
カリーン。
私も今から、そっちに行くよ。
「カテナさん」
カテナの背後から、ヘルートの声がした。
こんな状況だというのに、まだその声は場違いなほど落ち着き払っていた。
「あなたのお気持ちはありがたいが。なあに、そこまでしていただくほどのものでもないですよ」
飄々とした物言いに、思わずカテナは振り返った。
「もう無理よ、ヘルート」
悲鳴のような声で叫ぶが、ヘルートは答えの代わりに微笑むと、口の中でもごもごと呪文を唱えながらカテナの前に立つ。
「また火球か」
呪文を聞いただけでヘルートが何をしようとしているのか察した魔物が、呆れた声を出す。
「それはもう見た。つまらぬじじいだ、せっかくの場面に水を差すな」
「ヘルート、もうそれは」
「てえいっ!」
気合とともにヘルートの放った火球は、目の前の魔物を大きく逸れて、階段の方へと飛んでいってしまった。
「前に飛ばすこともできなくなったか」
魔物が肩をすくめた時だった。
ぼん、と階段で火が上がった。かと思うと、火は爆発を伴いながら螺旋階段に沿って塔の内壁を駆け上がっていく。
「な」
魔物が初めて驚きを見せた。
階段の途中にいたローブの人物がその炎に巻き込まれて燃え上がる。
階段を伝って最上階へと達そうとする火を、呆気にとられたように魔物が見上げた。
「貴様、こんな魔法が使えたのか」
違う。魔法じゃない。
カテナには分かった。
あの爆発は、以前へルートと話したことがあるホクチの実だ。螺旋階段に置かれたいくつものホクチの実が火球の火で連鎖的に爆発しているだけだ。
いつの間にそんな仕込みを、と思ったが、それは前回この塔に来たとき以外にあり得なかった。
そういえばあのとき、ヘルートのローブの袖はやけに膨らんでいた。森に行ったとも言っていた。きっと袖にはたくさんのホクチの実が入っていたんだ。
どこからどこまでを考えて行動しているのか。
とぼけているように見えて、その実、油断も隙もない老人。
炎が塔の中を駆け上がっていくのを当のヘルート自身は見もしなかった。彼は魔物が自分から目を逸らしたその隙を見逃さなかった。
「ぬうんっ!」
ヘルートの魔法が発動し、再びいくつもの石つぶてが魔物を襲う。
飛礫の魔法。
だが、不意を衝かれたかに見えた魔物はたちまち迎撃態勢を整えた。
四つの口を大きく開くと、目にも留まらぬ速さで、ばくん、ばくん、と石を噛み砕いていく。
「それで不意を衝いたつもりか。石などいくつ飛ばしたところで、私には」
「がっ!?」
苦痛の呻き声を上げたのは、喋っていたのとは別の口だった。大きく開いた口から、何かがごろりと床に転がった。
「あっ」
カテナにも見覚えがあった。それは、赤梨を冷やしてくれたあの氷の塊だったからだ。
床に、魔物の折れた牙がばらばらと散らばる。
石をも易々と砕く力で噛まれたというのに、氷には傷一つついていなかった。
「なんだ、これは」
魔物が呻く。そのときには、ヘルートは猛然と魔物に飛びかかっていた。
歴戦の戦士もかくやという、無駄のない身のこなしだった。
ヘルートに組み付かれた魔物は、怒りの声を上げる。
「無礼者め、この私に触れるな!」
「うるせえ」
ヘルートは一声吼えると、牙を失った魔物の口に自分の腕を突っ込んだ。一切の躊躇のない突き込みだった。
「てめえ程度の魔物、こっちはとっくに見飽きてんだよ」
ヘルートが呪文を紡ぐ。火球の魔法。
魔物の口の中で、火球が炸裂する。
いかに魔法に長けた魔物といえども、体内に直接炎を流し込まれればひとたまりもなかった。
「ぐばっ」
「よせ、やめろ」
そう叫んだ別の口からも炎が溢れ出す。
「ごぶっ」
それでもヘルートは呪文を紡ぐのをやめない。口に突っ込んだ手から、何発もの火球を流し込み続ける。
「やめろ、分かった」
血を吐くような声で、魔物は絶叫した。
「取引してやる。太陽の石のありかを教えてやろう。だから、まずこの腕を抜け」
「要らねえよ」
ヘルートの答えは、にべもなかった。
「てめえなんかに教わることは、何一つねえ。自分で見つけるから心配すんな」
容赦なく撃ち込まれ続ける火球に、魔物は身をよじる。
「貴様、貴様はいったい」
魔物は叫ぶ。
「いったい何者だ。それにその氷は何だ。この私が噛み砕けぬほどの」
「永久氷壁の氷だよ」
「あり得ぬ」
魔物の全ての口から炎が噴き出す。それでも魔物は叫び続けた。
「永久氷壁は、決して砕けぬ。砕けぬ物の欠片を持っているということ自体が大いなる矛盾ではないか」
そこまで言って、魔物は自分の言葉の意味に気付いたように赤い目を見開く。
「まさか、それでは。その氷は」
「うるせえ」
ヘルートはもう一度言った。
「四の五の言わずに、死ね」
最後の火球が叩き込まれると、魔物は口と目から激しく炎を噴き出し、永遠に沈黙した。
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