そこに、君の死体が埋まっている

星来 香文子

第1話 彼


 彼の笑顔は、俺には眩しすぎた。

 なんの邪心のない、屈託のない笑顔。悩み事なんて何もないような、その笑顔。

 女優さんみたいで可愛いと評判の姉、優しくて料理上手な母親、医者として人々のために働く父親と祖父、祖母はこの町の婦人会の会長、曽祖父はこの小さな町長だった有力者。誰より大きくて広い屋敷に住んで、上質な服を着て、欲しいものは望めばなんでも手に入る。


 同じ町に住んでいるのに、まるで違う世界の住人のようで、気持ち悪い。


 他人と比べるのは良くないと頭ではわかっていながら、どうすることもできなかった。


 俺には職を失って妻の実家に寄生している父親、そんな父を支えるためにいくつも仕事を掛け持ちしていた母親がいる。兄弟はいない。祖父母はただの人で、彼の家のような力は持っていなかった。

 持っているのは築四十年の、冬になると家中の隙間から冷気が入る部屋の大半が和室のこの家くらい。田舎だから辛うじて広い庭がついてはいるが、彼の家のような白い椅子とテーブルがある西洋風のガーデンでもない。いつからあるのかわからない大きな紅葉の木が一本と、枝が伸び放題の松の木が雑草が生い茂っているだけの粗末なもの。

 職探し中の父親は、月に何度か仕事の面接には行っているようだが、帰ってくる度に上手くいかなかったのがわかる。着崩したスーツ姿で酒を飲んで帰ってきて、当然のようにその鬱憤をぶつけるように俺を殴る。唯一の救いは祖母だったが、ただそこにいるだけで家事の一つも手伝わない口だけ偉そうな祖父の世話を、甲斐甲斐しくしている様子がなんとも情けなく思えてならなかった。


「————ねぇ、おさむくん、聞いてる?」

「え……?」

「明日約束したよね? 一緒に遊んでくれるって」

「あ、あぁ、そうだったな」


 小学五年生の時、なぜか夏休みの初日に彼は俺と遊びたいと言って聞かなかった。

 とくに仲良くしていたわけではない。都心から離れた、町といってもほとんど田舎の小学校では一学年一クラスが当たり前で、去年の秋から転校してきたいわゆるよそ者の俺はそれなりに日々を過ごしていた。

 ただのクラスメイト。彼に限らず、誰かと特別仲がいいということもない。彼は頭も良くて、スポーツも万能で、いつもクラスの中心にいたが……


「約束だからね? 絶対来てよ?」

「わかってるよ」


 一学期の終業式の日、彼は何度も俺に念を押した。

 一体何を考えているのか、俺なんかと遊んでどうなるのか、当時は見当もつかなかったが、約束を破ったらどうなるかはわかっている。裏切り者のレッテルを貼られて、あいつは約束を守らないとからかわれる。彼からじゃなく、彼を取り巻いているほかのクラスメイトからだ。

 それに、母も祖母も「彼とは仲良くしておいた方がいい」と念を押していた。町の有力者の子供だ。うまく取り入れば、父の仕事先でも用意してもらえるとか、きっとそんな邪な考えだったのだろうと、今なら理解できる。


 翌日、約束した時間に彼を尋ねると、あの眩しい笑顔で彼は俺を自分の部屋に招き入れた。外からしか見たことがなかった大きな家。古臭い畳の匂いもしない、フローリングの洋室。壁の扉は押入れじゃなくてクローゼット。立派な学習机に大きなベッド。テレビにパソコン、ゲーム機、一人の部屋だっていうのに、ソファもあった。

 丸いのテーブルの上には、母親の手作りだという見たことも聞いたこともない焼き菓子にレモンが浮いた紅茶。

 外はうだるような暑さだったのに、家の中は涼しくて、不思議に思っているとクーラーが動いている。扇風機しかない自分の家とは大違いで、まるで異世界に来たような気分がした。


「僕ね、君とずっと遊んでみたかったんだ」


 彼は部屋のドアに内側から鍵をかけた後、俺の隣に座って「ゲームをしよう」と誘って来た。テレビのリモコンを操作し始めたので、俺はてっきりテレビゲームをするのかと思っていたが、彼がつけたのはゲーム実況の動画だった。詳しい内容は覚えていない。

 その動画の声は子供の声だったことだけは覚えている。それも、彼によく似た声だ。


「ルールは簡単。声を出したら負け。ただそれだけ」


 彼はそういうと、俺の脇の下に手を入れた。


「な……何するんだよ……」

「しーっ、声を出したら負けだっていったでしょう? 次出したら罰ゲームね」


 軽くくすぐられたかと思えば、その手は俺の体をなぞるように腰まで移動する。その瞬間、鳥肌がたった。


「ちょっと……待て!」

「はい、罰ゲームね」

「え……」


 彼は机の引き出しから結束バンドと真っ白なタオルを取り出して、俺を押し倒した。驚いて動けずにいた間に、無理やり俺の両手首を結束バンドで縛り、タオルは丸めて口に突っ込んだ。そうして、笑いながらさらに続ける。


「大丈夫、これはゲームだから。何も怖いことはないよ」


 彼は嘘つきだった。


 怖くてたまらない。彼の指と舌が、変なところに無理やり入ってくる。抵抗しようにも、彼の力は強くて、俺には何もできなかった。恥ずかしさと、恐怖と、痛みが俺の体を支配して、涙も汗も止まらない。何をされているのかわからない。この感覚がなんだったのかわからない。自分の体なのに、自分のものじゃないような……そんな感覚が恐ろしかった。


「や……めて……」


 こんなに気持ちが悪いのに、俺の声はテレビから聞こえる知らない誰かの笑い声にかき消される。何かを体に入れられた後、頭の中が真っ白になってしばらく気を失った。

 目を覚ました時、彼はあの眩しい笑顔で、俺と繋がっている動画を嬉しそうに見せる。


「また遊ぼうね」


 消して欲しいと頼んでも、彼は聞いてはくれなかった。それどころか、次の約束の日に来なければ、罰としてその動画をクラスのみんなに送ると言った。安いキッズケータイしか持っていなかった俺とは違って、クラスの大半がスマホを持っている。それがどういう意味かなんて、すぐに察しがついた。

 酷いことをされたと、親にも誰にも言えなくて、夏休みの間、毎日のように彼に呼び出されておもちゃにされ続けた。


 地獄のような夏だった。

 途中から彼は自分の部屋だけでなく、外でも同じようにするようになった。学校の裏にある山が、彼の親が所有している山らしく、そこに秘密基地を作った。今は使われていないが、昔、何か作業をするために使っていた小屋があり、それを利用して作った。


「ここなら、声を出しても大丈夫だよ。誰も来ないから」


 彼はそう言ってまた笑った。俺と会うのは、そこでということが多くなっていった。俺は嫌で嫌で仕方がなかったが、彼の命令は絶対だった。母と祖母が期待していた通り、父は彼の親の知り合いが経営している店で働くことになった。父に殴られることはなくなったが、もし俺が彼の命令に従わなければ、その仕事もまた失ってしまうだろうと思った。本当は彼に会いになんて行きたくないのに、逃げることはできなかった。


「理くん、理くん……」


 地獄の中で何度も名前を呼ばれて、何度も絶望した。

 あの動画さえなければ、そもそも、あの時、遊ぶ約束なんてしなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。

 彼さえいなければ……

 彼さえいなければ……

 地獄の中にいる俺は、変わらず笑顔でいる彼が憎くて仕方がない。


 そして、夏休みが終わりに近づいたその日、突然空が真っ暗になって、大雨が降り始めた。


「まるで地獄のような天気だね」


 小屋の窓から近くに落ちた雷を眺めていた彼がそう呟いた時、俺の中で何かが切れた音がした。


「地獄は、そんなものじゃない」


 気づいた時には、小屋にあった大きなシャベルを振り下ろしていた。

 衝撃で床に倒れた彼を、何度も何度も何度も何度も叩いて叩いて叩いて————動かなくなるまで叩き続けた。俺のどこにそんな力があったのかわからない。けれど、確実に殺した。


 そうして、山の中に穴を掘って埋めたんだ。人一人分。彼は俺より大きかったけど、それでも頑張って埋めた。とにかく必死だった。

 埋める前に抜き取った彼のスマホは、ロックがかかっていたけれど、何度も解除する瞬間を見ていたから、すぐに解除できた。中を確認したら、俺の写真と動画が大量に出てきて、本当に気持ちが悪い。いつ撮られたかわからない、盗撮も混ざっていて、吐きそうになる。何度か気を失った時があったから、その時に撮られたものもあったと思う。すぐにデータを全部消して、近くの川に放り投げた。濁流に流されて、きっと今頃、どこか海の底に沈んでいる。


 汗と雨でずぶ濡れのまま、家に帰ってきてやっと自分のしたことの恐ろしさに気がついて、震えが止まらなかった。どうしようと思った。これから新学期が始まる。俺は、人殺しとして逮捕される。


 ————なんて最悪な人生だろう。


 貧乏だけれど、決して良い暮らしではないけれど、俺の人生は彼のせいでめちゃくちゃになった。何もかも、あいつに奪われてしまったと気づいた時、母が言った。


「理、引っ越すから準備しなさい」


 父の就職先は、確かに彼の親の知り合いが経営している店ではあったが、この町ではなかった。遠く離れた別の町だった。


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