Father's secret and other stories

秋中琢兎

Father's secret

 私が父の訃報を知ったのは、3日間の憂鬱な入院生活から解放された、その日であった。29歳の誕生日を迎えた日以降、私は極度の不眠症を患ってしまい数日間文字通り眠れず、食事も口に運ぶ気力すらも失い、その結果栄養失調で倒れ勤務先から病院へ運ばれそのまま入院をしていた。

 こうまで私を追い込んだのは、職場での人間関係によるストレスや、プライベートでの女性関係や金銭面でもない。


 私は悪夢を見るのだ。


 その思い起こすだけでも吐き気を催すような悪夢を初めて見たのが、先述したように29歳の誕生日を友人らに祝ってもらい柄にもなく酔いつぶれた時だった。夢は必ず暗闇の中で目覚める所から始まる。


 光すらも怯えて姿を現さないほどの漆黒。


 あるわけがない出口を探しながら彷徨っていると、必ず蠅の羽音のような音が聞こえ始め、次第にそれが10、50、100、1000匹といった具合に耳を抑えても鼓膜にたどり着くほど酷く悍ましい音が終始聞こえるのである。


 そのころになると私の身体の筋肉は弛緩し、両耳を強く抑える両手は降ろされ、無数の蠅にされるがまま身をゆだねることになる。そして私の両耳の穴から入り、さんざん頭の中を駆け擦り回り、まぶたと眼球の間を押し抜け外へと出ていく。体の中からすべての蠅が抜けきると、我に返り忌まわしき蠅たちによって齎された激痛によって叫び声を挙げ、私はようやくその悪夢から解放されるのである。


 こういった悪夢を見ると親離れしたはずだが、母の腕に抱かれたくなる。

 だが、私には母の記憶がない。顔や髪の毛、肌の色、声、仕草、匂いなどが欠落したように思い起こせないのだ。


 小さいころ、一度父に母のことを尋ねたことがあるが、頬をぶたれ「2度と聞くな」と釘を刺された。その表情は憤怒そのもので、私はそれ以降母について尋ねることを止めた。時が流れ、中学生ぐらいにもなると、父は母に愛想をつかされ捨てられたのか、もしくは息子にも言えぬ悲劇的な亡くなり方をして思い出したくないのだろうと納得していた。


 自宅の和室には、父のかかりつけの医者と男性の看護師2名がすでに居た。軽く自己紹介をしたのち、私は横たる父を見た。


 その時、私は父に関する数少ない記憶の中でも特に印象的だった父の言葉をふと思い出した。ある時、私がクローゼットに魔物がいるという子供らしい想像によって支配され眠れずにいると、リビングから父の啜り泣く声が聞こえた。父は寡黙かつ厳しい人物だったため、私はただ事ではないと思い、ゆっくりと父の元へ向かった。私はクローゼットの魔物のことなどすぐに忘れてしまっていた。きっと魔物はそのことに興ざめし、異界に戻っていったのだろう。


「すまない」


 リビングの裸電球の薄明りの下、父が涙を流しながら、ひとりでウィスキーを飲んでいた。あの厳しく寡黙な父も人の子だったのだ。しかし、私が近づくと、すぐに何事もなかったかのようにいつも通りの父に戻り、私は寝るように言いつけられた。

 だがその日の夜は、父がひとりで発したあの言葉の意味を考えてしまった。初めての夜更かしだった。


 突如、妄想の世界から追い出されたかのように身体に強い衝撃をうけた。

 私の身体を看護師の二人が抑え込んでいるのだ。医者は、私を悍ましい化け物を見るかのような目で見ており、反対に看護師たちは私に対して暴力的な言葉を浴びせた。


「警察に突き出されないだけマシだと思え」


 私は訳が分からないまま、父の残した遺品が押し込められた箱と共に追い出されてしまった。理由もなく追い出されるのは失礼だろうと、家の中に戻り抗議しようとしたが、父の葬儀の前に大きなトラブルになってはいけないと思い、その気持ちを心のずっと奥にしまいこんだ。


 結局私は実家に帰ることもできないまま、近くの漫画喫茶に泊まることとなった。日々の疲れからか、今日の出来事のせいか、私は久しぶりに泥のように眠った。


 後日、父が長い間借りていた貸倉庫へ行ってみると、久しぶりに扉が開けられたのかカビのにおいが漏れ出してきた。空気によって空中に舞った埃は太陽に照らされ、ダイアモンドダストのように輝いていた。


 だが、そこに遺されていたものは私の想像を遥かに超えるものだった。

 まるで学校の理科室のようなその部屋は、試験管やビーカーなどが所せましに置いてあり木製の棚には、多種多様なものがホルマリン漬けにされ保管されていた。私は理解もできないまま、倉庫の中を探索した。


 そこで私は奇妙な革張りの本を見つけた。その本の表紙は妙にぬめぬめとしており、腐敗した魚を思わせる異臭を放っていた。そして何より、本に記されている言語は、決して日本語でも、ラテン語でも、英語でも、フランス語でもなかった。

 ミミズが這ったようなその言語で記されている内容を理解するなど決してあり得なかったのだが、その本の挿絵に描かれていたものを見たとき私はこの本をすぐに手持ちのライターで燃やした。

 あの本は、決してこの世に存在してはならないものであると直感で分かったからだ。

 

 その挿絵には大きな蠅を思わせる怪物が描かれており、その周りを裸の人間たちが円を描くように囲み、蠅の姿をした赤子を抱いていたのだ。それほどまでにおぞましいものだったが、私は不思議とつながりを感じた。



 その日以降の私は強いショックからか、毛髪もまばらに抜け初め、いつしか野良犬のようになっていた。不思議と悪夢を見ることは、無くなったが代わりに記憶が抜け落ちるという症状に悩まされ始めた。映画のカットシーンのように、いつのまにか知らない土地の薄汚い路地で寝ているのだ。


 ある日、猛烈な吐き気を覚え床に胃の中をすべてをまき散らしたこともある。床に胃液とともに吐き出されたのは灰色になるほど腐敗した小さな肉塊と指のようなものだった。


 そして今日、歯を磨いているときに口の中に鉄の味がしはじめ、違和感を覚えた。

 エナメル質の塊とシンクの陶器が衝突する甲高い音が複数聞こえたときに初めて私は、自分の歯が全て抜け落ちたことに気が付いた。



 だが、私を真の絶望の底に落としたのは、鏡に映る巨大な蠅の怪物を見た時だった。


 自分自身を悩ましていた無数の羽音は、自分の中に流れる血から聞こえているのだと、そう感じざる終えなかったからである。

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