Ⅲ章――夢に溺れ、騒がしい海に沈む
13 熱気をまとう雨
八月に入り、四日連続の雨。それでも、長い間熱せられた空気はそう簡単に冷めてくれないらしい。水気を含んだ空気が校舎内に漂っている。
今日は登校日。午前だけ授業を受けたら帰ればいい。
夏の間は登校するのも一苦労だ。雨だから幾分かすごしやすいが、大雨になると靴はグジュグジュになってしまう。靴下の替えを用意してきたが、帰宅する時にはまた濡れた靴で帰らなければならない。
通学路にはダンジョンのトラップのように水たまりが敷かれている。
避けられないことはない。だが車がスピードを出して、路肩近くを走り去ったあかつきには、遊園地のアトラクションのように水を飛ばしてくれる。そう。やってくれやがったのだ。あの白ワゴンめ!
教室に入った俺は、クラスメイトの注目を一身に集めた。どこを見ても驚きの顔が並んでいた。
少なくとも心配はあったと思う。怪我をしたわけじゃないし。しかし制服をずぶ濡れにさせてきた男子高校生の登場は、目の前に餌を垂らされているのと同じだ。
無理だ。我慢なんてできるわけがない。
俺を見るなり、クラスメイトはキラキラとした目で駆け寄ってきた。
『お前、雨の魔獣にやられたのか⁉』
『それとも、森にすむ小人に足を引っ張られた!? 』
『くっ! 遂に犠牲者が出たか。島中に張り巡らせていた
『これも運命だったのよ。この島にやってきた藍原君に、自己紹介がてらこの島に住んでいる妖精や魔獣が、藍原君と遊びたかった。うん、間違いない!』
とまあ、色々と勝手に言ってくれやがったのだ。
俺の小さな不幸をネタに、クラス全員でミニコントを始められたらツッコむ気も失せる。多少イジられる覚悟をしていたが、まさかミニコントをおっぱじめるとは予想外だった。
クラスのヤツらは可哀相な俺を半笑いで慰めつつ、着替えに向かう俺を盛大に見送った。
保健室の先生に事情を話し、予備の体操服に着替えさせてもらった。制服は乾かしてくれると言ってくれたのでそれはいいとして、教室に一人だけ体操服とあっては浮くのは必然。
事情を知らない先生は、純粋に聞いてくる。からかいたくて聞いてるわけじゃないとわかっているだけに、怒るに怒れなかった。一日に何度も説明する不幸な自分を恨む以外になかった。
まあいいさ。今日の俺は寛大なのだ。なんせ、俺のスキルステータスに一つ加わったのだから。
羞恥の三時間を終えた俺は、廊下を歩きながら手元のそれを食い入るように見ていた。
海を優雅に泳ぐイルカの群れがカードにプリントされている。『OPEN WATER DIVER』の文字と俺の名前が印字されている。
第一号の資格が俺の履歴書に刻まれた。達成感が胸を満たし、心が躍り出しそうだった。思わず鼻歌を口ずさんで、保健室に向かう。
今日の授業は終わり、生徒は部活や自習、自宅へ帰るなど、それぞれ足を運んでいる。ホームルームの時間も終わって三十分も経てば、廊下の人通りはまばらだ。
保健室に向かう三階の廊下の奥で、一人の生徒が立ち止まっている。あそこには掲示板がある。部活の活動紹介、ボランティアの募集、地域で開催されるイベントや講演などの紙が貼ってある。
じっと何かを見ているのかと思ったその時、彼女は掲示板に手を伸ばした。
彼女は掲示板から貼り紙を取り、それをビリビリに破いてしまった。
破いた紙を握り潰すように丸めた彼女は、掲示板から離れようとこちらを向いた。
俺に気づいた折谷は、一瞬歩き出そうとしていた足を止めた。
しかし動じていないようだ。掲示板の貼り紙を破くなんて、まず見られたら異端なヤツとして目立ってしまう。もし見られたのが先生なら、怒られるのは必至だろう。
折谷は何もなかったかのように俺の後ろへ視線を留めたまま、俺の横を通りすぎようとした。
「どうだ! 俺もようやくダイビングできるようになったぞ!」
俺はライセンスの証であるCカードを見せつける。
「そう。おめでとう」
一言、それだけ言って去っていく。
その時、折谷の手から紙片が零れ、廊下に落ちた。俺はそれを拾い上げる。
「フェアリー」
マリンフェアリーを映像技術で再現する。そういうのが会館ホールで開かれるらしい。あそこまでするとは。アイツの憎しみは筋金入りらしい。
「父親の夢か」
窓の外では、一度弱まっていた雨がまた強くなっていた。
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