冬木シオリ・エスプレッシーヴォ -喫茶探偵物語余話-

きよし

 それは、ある夏の昼下がりのことである。

 今年の夏も猛暑が予想されるという気象庁JMAによる会見が行われたのは、二ヶ月ほど前のことであった。気温上昇の様々な因子ファクターは律儀なことに、決して人間の予測を裏切ることはなく、この日は朝早くから驚く速さで気温が急上昇し、うだるような暑さに地表付近は陽炎が揺らめき、街を歩く人々の表情には困迫したように辟易という単語が深く刻まれている。

 ひるがえって喫茶探偵『四季しき』の店内は、文明の利器「空調設備エアコン」によって快適な温度に保たれており、集合した関係者五人の面持ちはみんな、涼しげである。仕事以外で五人が集まるのは非常に稀なことであった。唯一の女の子が昨晩、無料のメーッセージ・アプリを介して緊急招集を掛けたのである。

 女の子の名前は冬木ふゆきシオリ、十六歳の高校一年生である。長く豊かに波打つ黒髪の中には不自然な赤、黄、青の三色のメッシュが入っている。学校の教師にはかたきを見るような険しい目を向けるが、親しい人に対する眼差しは優しげである。彼女には多くの友人がいるが、裏表の無いサバサバとした性格なので、不思議と人望が厚いのかもしれない。

「ねえ、プール行こっ!」

 シオリが声を弾ませて男どもに提案すると、見るからにチャラそうな若い男が最初に反応を示した。

「おっ、そいつは悪くないねぇ。こいつは月並みな表現を承知で言うんだが、夏といえばプールか海、その対極にあるのが山と相場が決まっている。いや、夏祭りも捨て難いね。リンゴ飴舐めながらまったりと花火を見上げるってのも、風情があっていいねぇ」

 指折り数えてみせた男は春海はるみキョウジ、二十三歳の社会人一年生である。頭髪はくすんだ金色で、眉まで同じ色に染まっている。見た目は優男なのだが、格闘技術センスにおいて右に出る者はいない。口を開けば軽口を叩き、決して激することは無く、言動は飄々として掴み所がない。漠とした不思議な雰囲気を醸し出している明朗居士である。

「あっ、夏祭りも行きたいっ!」

 キョウジの言葉にシオリが諸手を挙げて賛同した。

「自分は当然パスします」

 シオリの提案をにべもなく拒絶したのは秋津あきつカナタ、十八歳の高校三年生である。他人に向ける双眸は非常に冷めている。できるだけ人との関わりを避けて、いつもコンピューターとにらめっこしているか機械を作製している。そちら方面では絶類抜群である。全く他人の評価を意に介さない、独立不羈を地で行くような天才少年であった。

 間違いようのない意思表明を終えると、カナタは愛してやまないホット・レモン・ティーを一口すすった。瞳にその姿を宿して、キョウジは意味有りげな笑みを端正な口元に浮かべた。

「カナちゃん、こいつは年長者の老婆心なんだが、たまには陽の光を浴びないと代謝異常を引き起こすと思うんだがね。おれのように成りたいという向上心は欠片も無いのかね」

「もう自分は十分に成長しています。それに、ただ大きいだけの大人にだけは、絶対になりたくないですね」

 カナタはキョウジに一瞥すら与えなかった。

「あらま、相変わらずおれに対しては遠慮がないね。愛されてる証拠かな」

 カナタは無反応を決め込んで、もう一口ホット・レモン・ティーを口に含んだ。

「おれも、パスかなー」

 控え目にカナタの意見に同意したのは夏目なつめナオト、二十一歳の大学休学一年生である。目が隠れるほどの長い前髪は、見る者の眉をひそませる。頭脳は明晰である。有名国立大学を現役合格するほどだから勉強はできる。知性インテリジェンスも豊かで高い。ただ、経験は心許ない。その結果が休学を選ばせた。不器用で繊細で、ほんの少し鈍い青年であった。

「えー、なんでよー、行こうよー、ねぇー」

 シオリがカウンター越しにナオトの腕を掴んで揺さぶった。ナオトは揺さぶられながらほっぺたをかいた。

「プールは、ちょっと、人が多いだろうなー」

「夏休みなんだから混んでて当然じゃない」

「まあ、そうなんだけれど」

 ナオトはアイス・コーヒーの入ったグラスを傾けた。

「じゃあ海は?」

 粘るシオリにナオトは片言で応じた。

「海、か。海も、かなり、人が多いだろう。止めておこう」

「だ、か、ら、夏休みなんだから混んでるのは当たり前じゃない」

「そう、なんだけれどね」

 ナオトは歯切れが悪かった。

 シオリは店長につぶらな瞳を向けた。「乗り気ではないナオトを説得するのを手伝って」と饒舌に訴えかけていた。

 喫茶店『四季』の店長は四季よつきゲンイチロウ、四十四歳の社会人何年目だろう。大学を卒業して社会に出たと考えれば二十余年となろうか。勤め先から脱落ドロップ・アウトして「喫茶店」兼「探偵事務所」を生業として十年以上が経つ。個性的な問題児たちをまとめる労苦は並大抵ではない。文字通りの苦労人なのである。

「ナオト、どこなら行けるんだ?」

 ゲンイチロウに尋ねられて、ナオトは顎に手をあてた。

「そうだな、キョウジも先刻さっきちらっと言っていたけれど、山、なんてどうだろう?」

 シオリが反応を示す前にナオトは畳み掛けた。

「ハイキングなら日帰りできるし、まあ、コテージを借りて数日のんびりと休養するのも良いと思う。それに、都市部と違って空気が旨いしね」

「あたしはプールか海に行きたいの。水遊びがしたいの」

 シオリがカウンターに手をついて、身を乗り出すようにしてナオトに顔を近づけた。思わずナオトは鼻白んだ。

「ねぇ、行こうよー、プールー」

 シオリは再びナオトを揺さぶった。されるがままに揺さぶられながら、ナオトは頭をフル回転させて穏便に断る理由を探した。そうして思いついた答が、次の発言である。

「カナタがどうしても行きたいって言うのなら、考えなくもないんだが」

「それは卑怯ですよナオトさん。自分を出しに使うなんて」

 カナタの正論には返す言葉がないのはナオト自身よくわかっていた。そして、人間嫌いでインドア派のカナタが決して首を縦に振らないであろうことも想定済であった。策士というべきであろうが、数分後には、溺れてしまったことを身をもって思い知ることになる。

「なあナオト。お前さんがプールに行きたくない理由、当ててやろうか」

 キョウジの言葉を耳にして、ナオトは音を立ててアイス・コーヒーを飲み込んだ。

「これだけ暑いのにだ、水遊びして気持ちよくないなんてことはずありえない。それでもあえてプールや海に行きたくないって言うのはおかしい。あやしい。不自然だ。理由はいたって単純シンプルだろう。ナオト、お前さんひょっとして」

 シオリとゲンイチロウは固唾を呑んで、キョウジの次の言葉を待った。

「泳げないんじゃあないかな?」

 キョウジを注視していたゲンイチロウとシオリの顔が、素早く動いてナオトに向けられた。ナオトは頬杖をついて、そっぽを向いていた。

「泳げ、ないの?」

 遠慮がちにシオリが問いかけると、ナオトは不機嫌そうに一言だけで応じた。

「そうだよ」

 ゲンイチロウが腹を抱えて豪快に笑った。

「ガッハハハ。ナオト、お前金槌だったのか。そりゃあプールになんか行きたくないわけだ」

 ゲンイチロウの笑声を聞き流しながら、ナオトが悪態をついた。

「人間はおかに住んでいるんだ。元々泳げないようにできているんだよ」

 瞳の奥にかすかに笑いを宿したシオリが、ナオトの説得を試みた。

「でもさ、浅いプールもあるし、深いところなら浮輪を使えば大丈夫だよ」

「大の大人がだ、公衆の面前で浮輪を使うなんて、そんな恥ずかしい真似はしたくない」

 ナオトは頑なに拒んだ。

「ウォーター・スライダーって知ってる? 水が流れてる滑り台のようなものなんだけど、あれなら泳げなくても楽しめるよ」

「そもそも泳げないんだから楽しめないんだよ。泳げる人にはわからないんだ」

「むー」

 取りつく島もないナオトを前にして、シオリが頬をふくらませた。それでも欲望に正直なシオリは、あの手この手で口説きにかかった。

 シオリがナオトを説得している間、ゲンイチロウは別方向からの突き崩しを図った。ゲンイチロウはカナタに顔を近づけて囁いた。それに応じてカナタが小声で問いかけ、更にゲンイチロウが囁き返す。カナタが頷くと、ゲンイチロウはにんまりとほくそ笑み、注目を促すかのように手を打った。

「よし、こうしよう。一日いちじつ店を休業とする。そして親睦を深める為、全員でプールに行こう。趣旨が趣旨なので、全員参加すること。これは、店長命令じょういだ」

「なっ」

 ナオトがカナタに目を向けた。

「カナタは行かないよな?」

「すみません、ナオトさん。ボスに買収されました」

 少しも悪いとは思っていない言いようと、瞳がキラキラと輝いていたので、なにで買収されたのかはナオトには察しがついた。

 ことここに至ってナオトは進退極まった。自分でカナタが諾するのであれば考えても良いと約束してしまっていた。その言葉を反故にするほど恥知らずではない。ナオトは肩を落として観念したように呟いた。

「わかったよ。行くよ」

 シオリは目を輝かせた。

本当ホント?」

「ああ」

「ホントにホント?」

 しつこく確認してくるシオリにナオトは大きく頷いてみせた。

「ああ、本当だ。プールには行くよ。みんなには嘘はつきたくないからな」

「やったー」

 シオリはぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。そんなシオリに目をやって、ナオトは顔を左右に振って深く溜息をつき、自棄になったように胃にアイス・コーヒーを流し込んだ。グラスをコースターに置くと、キョウジが手招きしているのに気がついたので、冷気を放出しているエアコンの下に鎮座しているキョウジの隣に腰を下ろした。

「どうした?」

「お前さん、水着持っていないだろう? おれが身繕いコーデしてやろう」

「子供じゃあないんだから、それくらいは自分でできる」

 ナオトが顔を振って断ると、キョウジが鼻で笑った。

「まるで駄々をこねていたのを忘れたような口ぶりだね」

 相変わらずキョウジの指摘は耳が痛かった。普段軽口しか口にしないので忘れがちだが、痛いところを的確についてくる。綽然たる態度は経験の差なのかもしれない。

「キョウジ、お前、年齢偽っていないだろうな?」

 ナオトの問いかけに、キョウジは頭を少し傾けて応じた。

「年齢は、偽ってはいないさ」

 相変わらず思わせぶりな答である。しかし、ナオトは詮索しなかった。

 ナオトは意を決して立ち上がり、大きく伸びをした。そして、ゲンイチロウに声をかけた。

「マスター、今日はこれで上がってもいいかな?」

「ああ、別に構わんが、なにか用事でも思い出したのか?」

「用事ができたんだよ」

 多くを語らないナオトをゲンイチロウは不思議そうに見ていたが、今日はシオリの招集なので仕事ではない。小首をかしげて鷹揚に応じた。

「そうか、まあ、じゃあ、おつかれさん」

「おつかれ」

 店内にいる全員に告げると、ナオトは右手を軽く上げながら店を出て行った。

 ドアベルが鳴り終わると、シオリが側に立つゲンイチロウを見上げた。

「なんだろう、用事って?」

「さあな、わしにはわからん」

 シオリは、カウンター席に座っているカナタに問いかけようとしたが、まだ瞳がキラキラと輝いていたので会話が成立しないと思い、キョウジを見た。キョウジは察しがよい。

「水着を買いに行くってさ。プールには行かないって決めているやつには不要なものだからな、持ち合わせが無いんだろうね」

 シオリの細い眉が跳ねあがった。

「あっ、あたしも水着買いに行かないと」

「持ってないのか?」

 ゲンイチロウがシオリを見下ろしながら尋ねた。

「有るけど、ちょっといろいろとキツくなってきてるの」

「そ、そうか」

 ゲンイチロウは年甲斐もなく、慌ててシオリから視線をそらした。

「店長、あたしも上がっていい?」

「ああ、構わんよ」

 ゲンイチロウの返事を待つ前に、既にシオリはエプロンを外していた。自由気ままな仔猫を見守るような目でゲンイチロウは微笑んだ。

 シオリは慌ただしく奥の部屋に入って鞄を手にすると、「おつかれさまー」と言いながら、疾風のごとく店を出て行った。

「女の子って大変だねぇ」

 キョウジにしては、至極まともで独創性の欠片もない台詞であった。

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