冬木シオリ・エスプレッシーヴォ -喫茶探偵物語余話-
きよし
1
それは、ある夏の昼下がりのことである。
今年の夏も猛暑が予想されるという
ひるがえって喫茶探偵『
女の子の名前は
「ねえ、プール行こっ!」
シオリが声を弾ませて男どもに提案すると、見るからにチャラそうな若い男が最初に反応を示した。
「おっ、そいつは悪くないねぇ。こいつは月並みな表現を承知で言うんだが、夏といえばプールか海、その対極にあるのが山と相場が決まっている。いや、夏祭りも捨て難いね。リンゴ飴舐めながらまったりと花火を見上げるってのも、風情があっていいねぇ」
指折り数えてみせた男は
「あっ、夏祭りも行きたいっ!」
キョウジの言葉にシオリが諸手を挙げて賛同した。
「自分は当然パスします」
シオリの提案をにべもなく拒絶したのは
間違いようのない意思表明を終えると、カナタは愛してやまないホット・レモン・ティーを一口すすった。瞳にその姿を宿して、キョウジは意味有りげな笑みを端正な口元に浮かべた。
「カナちゃん、こいつは年長者の老婆心なんだが、たまには陽の光を浴びないと代謝異常を引き起こすと思うんだがね。おれのように成りたいという向上心は欠片も無いのかね」
「もう自分は十分に成長しています。それに、ただ大きいだけの大人にだけは、絶対になりたくないですね」
カナタはキョウジに一瞥すら与えなかった。
「あらま、相変わらずおれに対しては遠慮がないね。愛されてる証拠かな」
カナタは無反応を決め込んで、もう一口ホット・レモン・ティーを口に含んだ。
「おれも、パスかなー」
控え目にカナタの意見に同意したのは
「えー、なんでよー、行こうよー、ねぇー」
シオリがカウンター越しにナオトの腕を掴んで揺さぶった。ナオトは揺さぶられながらほっぺたをかいた。
「プールは、ちょっと、人が多いだろうなー」
「夏休みなんだから混んでて当然じゃない」
「まあ、そうなんだけれど」
ナオトはアイス・コーヒーの入ったグラスを傾けた。
「じゃあ海は?」
粘るシオリにナオトは片言で応じた。
「海、か。海も、かなり、人が多いだろう。止めておこう」
「だ、か、ら、夏休みなんだから混んでるのは当たり前じゃない」
「そう、なんだけれどね」
ナオトは歯切れが悪かった。
シオリは店長につぶらな瞳を向けた。「乗り気ではないナオトを説得するのを手伝って」と饒舌に訴えかけていた。
喫茶店『四季』の店長は
「ナオト、どこなら行けるんだ?」
ゲンイチロウに尋ねられて、ナオトは顎に手をあてた。
「そうだな、キョウジも
シオリが反応を示す前にナオトは畳み掛けた。
「ハイキングなら日帰りできるし、まあ、コテージを借りて数日のんびりと休養するのも良いと思う。それに、都市部と違って空気が旨いしね」
「あたしはプールか海に行きたいの。水遊びがしたいの」
シオリがカウンターに手をついて、身を乗り出すようにしてナオトに顔を近づけた。思わずナオトは鼻白んだ。
「ねぇ、行こうよー、プールー」
シオリは再びナオトを揺さぶった。されるがままに揺さぶられながら、ナオトは頭をフル回転させて穏便に断る理由を探した。そうして思いついた答が、次の発言である。
「カナタがどうしても行きたいって言うのなら、考えなくもないんだが」
「それは卑怯ですよナオトさん。自分を出しに使うなんて」
カナタの正論には返す言葉がないのはナオト自身よくわかっていた。そして、人間嫌いでインドア派のカナタが決して首を縦に振らないであろうことも想定済であった。策士というべきであろうが、数分後には、溺れてしまったことを身をもって思い知ることになる。
「なあナオト。お前さんがプールに行きたくない理由、当ててやろうか」
キョウジの言葉を耳にして、ナオトは音を立ててアイス・コーヒーを飲み込んだ。
「これだけ暑いのにだ、水遊びして気持ちよくないなんてことは
シオリとゲンイチロウは固唾を呑んで、キョウジの次の言葉を待った。
「泳げないんじゃあないかな?」
キョウジを注視していたゲンイチロウとシオリの顔が、素早く動いてナオトに向けられた。ナオトは頬杖をついて、そっぽを向いていた。
「泳げ、ないの?」
遠慮がちにシオリが問いかけると、ナオトは不機嫌そうに一言だけで応じた。
「そうだよ」
ゲンイチロウが腹を抱えて豪快に笑った。
「ガッハハハ。ナオト、お前金槌だったのか。そりゃあプールになんか行きたくないわけだ」
ゲンイチロウの笑声を聞き流しながら、ナオトが悪態をついた。
「人間は
瞳の奥にかすかに笑いを宿したシオリが、ナオトの説得を試みた。
「でもさ、浅いプールもあるし、深いところなら浮輪を使えば大丈夫だよ」
「大の大人がだ、公衆の面前で浮輪を使うなんて、そんな恥ずかしい真似はしたくない」
ナオトは頑なに拒んだ。
「ウォーター・スライダーって知ってる? 水が流れてる滑り台のようなものなんだけど、あれなら泳げなくても楽しめるよ」
「そもそも泳げないんだから楽しめないんだよ。泳げる人にはわからないんだ」
「むー」
取りつく島もないナオトを前にして、シオリが頬をふくらませた。それでも欲望に正直なシオリは、あの手この手で口説きにかかった。
シオリがナオトを説得している間、ゲンイチロウは別方向からの突き崩しを図った。ゲンイチロウはカナタに顔を近づけて囁いた。それに応じてカナタが小声で問いかけ、更にゲンイチロウが囁き返す。カナタが頷くと、ゲンイチロウはにんまりとほくそ笑み、注目を促すかのように手を打った。
「よし、こうしよう。
「なっ」
ナオトがカナタに目を向けた。
「カナタは行かないよな?」
「すみません、ナオトさん。ボスに買収されました」
少しも悪いとは思っていない言いようと、瞳がキラキラと輝いていたので、なにで買収されたのかはナオトには察しがついた。
ことここに至ってナオトは進退極まった。自分でカナタが諾するのであれば考えても良いと約束してしまっていた。その言葉を反故にするほど恥知らずではない。ナオトは肩を落として観念したように呟いた。
「わかったよ。行くよ」
シオリは目を輝かせた。
「
「ああ」
「ホントにホント?」
しつこく確認してくるシオリにナオトは大きく頷いてみせた。
「ああ、本当だ。プールには行くよ。みんなには嘘はつきたくないからな」
「やったー」
シオリはぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。そんなシオリに目をやって、ナオトは顔を左右に振って深く溜息をつき、自棄になったように胃にアイス・コーヒーを流し込んだ。グラスをコースターに置くと、キョウジが手招きしているのに気がついたので、冷気を放出しているエアコンの下に鎮座しているキョウジの隣に腰を下ろした。
「どうした?」
「お前さん、水着持っていないだろう? おれが
「子供じゃあないんだから、それくらいは自分でできる」
ナオトが顔を振って断ると、キョウジが鼻で笑った。
「まるで駄々をこねていたのを忘れたような口ぶりだね」
相変わらずキョウジの指摘は耳が痛かった。普段軽口しか口にしないので忘れがちだが、痛いところを的確についてくる。綽然たる態度は経験の差なのかもしれない。
「キョウジ、お前、年齢偽っていないだろうな?」
ナオトの問いかけに、キョウジは頭を少し傾けて応じた。
「年齢は、偽ってはいないさ」
相変わらず思わせぶりな答である。しかし、ナオトは詮索しなかった。
ナオトは意を決して立ち上がり、大きく伸びをした。そして、ゲンイチロウに声をかけた。
「マスター、今日はこれで上がってもいいかな?」
「ああ、別に構わんが、なにか用事でも思い出したのか?」
「用事ができたんだよ」
多くを語らないナオトをゲンイチロウは不思議そうに見ていたが、今日はシオリの招集なので仕事ではない。小首をかしげて鷹揚に応じた。
「そうか、まあ、じゃあ、おつかれさん」
「おつかれ」
店内にいる全員に告げると、ナオトは右手を軽く上げながら店を出て行った。
ドアベルが鳴り終わると、シオリが側に立つゲンイチロウを見上げた。
「なんだろう、用事って?」
「さあな、わしにはわからん」
シオリは、カウンター席に座っているカナタに問いかけようとしたが、まだ瞳がキラキラと輝いていたので会話が成立しないと思い、キョウジを見た。キョウジは察しがよい。
「水着を買いに行くってさ。プールには行かないって決めているやつには不要なものだからな、持ち合わせが無いんだろうね」
シオリの細い眉が跳ねあがった。
「あっ、あたしも水着買いに行かないと」
「持ってないのか?」
ゲンイチロウがシオリを見下ろしながら尋ねた。
「有るけど、ちょっといろいろとキツくなってきてるの」
「そ、そうか」
ゲンイチロウは年甲斐もなく、慌ててシオリから視線をそらした。
「店長、あたしも上がっていい?」
「ああ、構わんよ」
ゲンイチロウの返事を待つ前に、既にシオリはエプロンを外していた。自由気ままな仔猫を見守るような目でゲンイチロウは微笑んだ。
シオリは慌ただしく奥の部屋に入って鞄を手にすると、「おつかれさまー」と言いながら、疾風のごとく店を出て行った。
「女の子って大変だねぇ」
キョウジにしては、至極まともで独創性の欠片もない台詞であった。
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