第10話
季節は梅雨入りした。どんよりと低く垂れ込めた雲が朝からしとしとと雨を降らせる。駅から吐き出される人々は気だるげに傘をさして、うつむきながら歩いていく。
そんな中で優太朗はただ一人晴れ晴れとした気持ちだった。昨日は遠足前夜の子どものように寝られなくて4時間しか眠れなかったのに、三日連続徹夜したかのように目が冴えていた。傘を放り投げて歌い踊りだしたい気分だった。
さすがに恥ずかしいから踊らないけど、口ずさむくらいなら許されるだろうと思ってハミングしながら、いつも登校する時に使う道とは違う道に入った。
そして意気揚々と歩き、雨に濡れた紫陽花におはようと挨拶したり、意味もなくゆっくりターンしたり、わざと水溜まりを勢いよく踏んだりした。
そんなことをしていたからだろう。いつもより遅く学校に着いた優太朗は校門の前で奏と鉢合わせた。友達二人と楽しそうに話す彼女を見て、思わず立ち止まった。
恋って不思議だ。彼女は何も変わっていないはずなのに、昨日までよりかわいく見える。顔やスタイルだけじゃなくて、髪の毛の一本一本やまばたきの一つまでかわいい。
『おはよう』
目が合った奏はひっそりと口を動かして無言の挨拶をした。
ん゛がわい゛い゛い゛いいいッッ!!
彼女のわずかに動いた唇と、その後の柔らかな微笑に胸を貫かれ悶絶した。
僕も挨拶を返さなきゃと思ったが、かわいい彼女と、その彼女と秘密の交際をしているというシチュエーションに照れて顔を上げることができなかった。爪先を見つめながら、かすれた声で呟くことしかできなかった。
彼女に伝わったか確認する余裕なんかなくて、そのまま校舎へ足早に向かった。
放課後、優太朗はいつもの場所で奏を待っていた。周囲に人気はなく、傘にぶつかって弾ける雨の音だけが響いていた。
恋は惚れたほうが負けとはよく言ったものだ。これからはずっと優太朗が待つことになるのだろう。
しかし全然嫌じゃなかった。
パシャパシャと足音がして、優太朗はバッと顔を上げた。
「ごめん、待った?」
少し驚いた顔で奏が言った。
「いや、今来たところ……」
「今のなんか恋人っぽいね」
奏がはにかんだ。その通りだと思って優太朗はうつむいた。
でもこのままじゃダメだ。今までは奏がリードしてくれていた。告白したのが彼女なら、会話の切り出しもデートのプランを立てるのも彼女だ。でも男女の交際というのは一方的なものではないはずだ。好き同士なんだから、こちらからもアクションを起こすべきだ。
そう考えた優太朗は、まっすぐ奏の目を見た。
そしてまた視線を逸らしてから言った。
「今日も、かか、かわいいね」
「へっ!? あ、あり……」
奏は目を丸くしながら顔を真っ赤にして、うつむきがちにお礼を言った。後半は口の中で呟くだけになって優太朗には聞こえなかった。二人の間に気まずい沈黙が流れた。
「じゃじゃ、じゃあ帰ろうか」
「そ、そうだね。行こう、行こう」
優太朗が愛想笑いをすると奏も同じように笑った。
歩きだしてからも沈黙は続いた。優太朗は何か話しかけなきゃと傘を少し上げて奏のほうを見る。
今までは会話が続かなくても気にならなかった。仲良くする気がなかったから最低限の会話しかせず、むしろ積極的に壁を作っていた。
でもこれからは違う。奏によく見られたいし、自分といる時間が彼女にとって快適な時間であってほしい。
そう思って何か話しかけようとするのだが、雨と傘が優太朗と彼女の間を隔てていて、いつもより遠く感じる。声を張り上げなきゃいけない気がして、なかなか口が開かない。
どうにかしなきゃと考えていると、いつの間にか呟いていた。
「傘一本にしない?」
ハッと我に返り、顔を上げると、驚きのあまり声を失っている奏と目が合った。
「いや、あの、今のは、別に……」
慌てて言い訳しようとするが、その前に奏が言った。
「いいよ」
強がった言い方だったが、実際にはしずしずと傘を畳み、髪を耳にかけながら大人しく優太朗の傘に入ってきた。
優太朗はこんな提案をしたことを早くも後悔していた。雨に濡れないために密着するので肩が触れあう。すでに夏服に衣替え済みなので二の腕や肘の素肌が触れ、優太朗はさらに固くなった。
でも提案をしたのは自分なので自分で責任を取らないといけない。
そう思い、勇気を振り絞って言った。
「雨降ってるね」
「だね」
「「……」」
この時ほど自分の無能っぷりを実感した時はなかった。
「学校どうだった?」
「普通、かな」
「「……」」
奏が気遣って話題を提供してくれたが、気の利いた返事ができず、すぐに会話が途切れた。
優太朗が相合傘を提案したり会話が下手すぎたおかげで、奏も上手な会話の仕方を忘れたようだった。その後もお互いに何度か会話を切り出したが、すべて二三のやり取りで終わって盛り上がらなかった。
優太朗は奏と別れた後、書店に寄り、会話の仕方が書かれた本を買った。
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