水上の支配者

 同時刻。

 渋谷区某植物園近く。


 渋谷の中心街にポツンと立つ小さな植物園。

 開業から約20年程たつこの場所は、多くの家族連れや老人たちなどの憩いの場となっている。

 そして今日から夏休みということもあり、多くの子どもたちや家族連れで賑わいを見せていた…はずだった…。


 あの爆発音が響くまでは―――

 

 渋谷駅で起こった暴君の襲撃。駅から離れていたとは言え、ここにも緊急避難の放送が流れ多くの家族連れなどが植物園内に避難していた。

 中には別の避難場所に移動する人も居たが、ほとんどはここに留まっている状況だ。


 「信じらんない!!」


 「ひーちゃん待って!外は危ないから!待って!」


 「ついて来ないで!!」


 突然植物園から幼い少女と、その後に必死になって少女を引き留めようと追いかけてきた髪の長い女性が飛び出してきた。


 親子みたいだが、何やら揉めているようだ――


 母親であろう女性が必死に追いかけ、ようやく少女の腕をつかみ引き止める。


 「離してよ!もうお家に帰るの!」


 「ひーちゃんダメ!外は危険なの!パパだって言ってたでしょ!植物園に戻らなきゃ!」


 「パパなんて知らない!私たち置いてどっか行っちゃったじゃん!一緒にいるって言ったじゃん!なんで私たちを置いて行っちゃったの!ねえなんで!!」


 「ひーちゃんよく聞いて。ひーちゃんもパパのお仕事は知ってるでしょ?パパは皆を守るためにここを離れたの。もしひーちゃんがここを離れたって聞いたら、お仕事に集中できなくて沢山の人を助けることが出来なくなっちゃうの。だからお願い。一緒にパパの帰りを待と。ね?」


 母親が優しくさとしても、幼い少女は聞く耳を持とうとしない。

 どうやら家族で植物園に来たらしいが、暴君騒動で父親が仕事の為離れたらしい。

 この非常時に家族を置いて仕事に行くとすれば、父親は警察か消防士かそういうたぐいの仕事なのだろう。

 であればこの場を離れたことにも納得はいくが、幼い少女にとってそれは到底受け入れられなかったようだ。

 

 「守るって言ったじゃん…。」


 「ひーちゃん…。」


 「守るって言ったじゃん!私たちを守るって…パパ…言ったじゃん…。ウソつき…。ウソつき!!パパなんて嫌い!大っ嫌い!!」


 パシンッ!


 幼い少女が心の底から吐き出した言葉。決して本心では無かったと思う。

 だが怒りに任せ、思ってもないことを口にしてしまった。それに気がついたのは、先程まで自分に優しく戻ろうと諭してくれていた母親からの、頬への平手を受けた後だった。


 予想だにしなかった母親からの平手。


 幼い少女は何が起こったのか分からず、ただ呆然と目に涙を浮かべる母親の顔を見つめた。

 

 「ひーちゃん…それは言っちゃダメ。絶対ダメ。パパは…ひーちゃんやそーちゃんたちの為に、必死になって戦ってくれてるの。だから―」


 母親はそれ以上言葉を口にしなかった。

 少し強く言い過ぎてしまったかも知れない。母親はハッと気が付き、自分の瞳から溢れるものを必死に拭う。

 そして母親がもう一度少女と向き合った時、少女の目にも涙が溢れていた。

 少女は俯き、しばらくの沈黙が訪れる。

 だがそれは少女の口から零れ出た言葉が打ち消した。


 「大…嫌い。」

 

 母親は目を見開き、あまりの衝撃に少女を掴む手を緩めてしまった。

 その隙に少女は後ろを振り向き走っていってしまう。

 母親が呆然とする中、少女はひた走り植物園近くを流れる河川かせんの上に掛けられた橋を渡り始めていた。


 「ねえ…何だろあれ?」


 「ゴミが浮いてるだけじゃね?」


 その時、少女と同じく橋を渡り恐らく植物園へと向かっていたであろう男女のカップルが、橋の中腹から川下かわしもの方を眺め何かを見ていた。

 少女は走りながらそのカップルの会話を聞いており、少し気になったのか橋の中腹で立ち止まる。

 そのまま川下の方を見てみれば、確かに川下の方に何かがあった。


 黒いカタマリ?それにしてはやけにデカい。


 川の幅は約10メートルほどあるが、その幅いっぱいになるほどの何かがいる。

 少女は何かは分からず気になってしまい、橋の手すりまで近づいてしまった。

 

 ザバッ!!


 すると先程まで沈黙していた黒く巨大な浮遊物が、突然何かに触発されたように動き始めた。

 尋常ではない速さで少女のいる橋へと向かってくる漆黒の何か。その大きさと速度のせいで水面が盛り上がり、堤防ていぼうを越え周りに川の水をらす。


 まるで黒く染まる津波のよう―


 その漆黒の津波は、全てを飲み込むかのように少女たちの元へ押し寄せる。


 「ねえアレ…ヤバくない?」


 「いや大丈夫じゃね?この橋結構な高さあるし、ただ下を通過するだけだろ。」


 同じく橋の上にいるカップルの女性はあまりのおぞましさに不安を漏らすが、男性の方は呑気に構えていた。

 確かにこの橋は高さがあり、普通の波であればただただ下を通過するだけで、こちらには被害など出るはずが無かった。


 そう…普通の波であれば…。


 バザンッ!!


 グロォロロローーーーッ!!


 「は?」「え?」


 一瞬の出来事。

 こちらに迫っていた漆黒の津波が、突如こちらに向かってロケットのように飛び上がってきたのだ。

 さらには津波の先の部分がバカッとまるで口のように開き、少女たちに迫る。

 橋の上にいる少女とカップルたちはあまりの突然の出来事に動けず、ただ立ち尽くすことしか出来ない。

 

 「パ…パ…。」


 少女の口から漏れた最期の言葉。しかしその言葉を向ける父親はここには居ない。

 ただ虚しく、少女は漆黒の津波に飲まれるしかなかった。

 

 トンッ


 「え?」


 津波に飲まれる刹那。少女は不思議なことに気付いた。

 自分の身体が宙を飛んだ…いや、橋の外へと弾き出された?

 少女は何が起こったのか分からず、自分が元々居た橋の中腹に一瞬目を向ける。


 「ママ…?」


 そこに居たのは先程まで言い争いをし、最後少女が酷い言葉を浴びせてしまった彼女の母親だった。

 母親は優しく微笑み、何か言葉を少女に向けて投げかけたが、それより先に漆黒の津波が橋ごと全てを飲み込んだ。


 橋が崩れ去る音と断末魔だんまつまのような男女の叫び声すら、全てを飲み込む漆黒の津波。

 あまりの衝撃に周辺には水煙みずけむりが舞い、周りの視界を悪くする。


 「う…ぅ〜〜…。」


 橋の外へと弾き出され、植物園とは反対側の道路に倒れ込んだ少女は、地面に倒れた痛みを堪えながらゆっくりと立ち上がる。

 そして視界の悪くなった河川の方に振り向くと、ぎこちない足取りでさっきまで橋が掛かっていた場所へと近づいた。

 

 「マ…マ…?ママ…。ママ!!」


 河川岸かせんぎしに近づき周りをキョロキョロしながら母親を呼び続ける幼い少女。

 しかしその声に応える者はおらず、ただただ虚しく少女の叫び声だけが霧の中へと消えていく。


 「ママ!ママ!どこにいるの!!返事してよ!ママ!!」


 いつしか少女の目には涙が溢れ、叫びすぎてしまい喉が徐々に枯れ始めてしまう。

 それでも少女は叫ぶのを止めなかった。

 いつかこの声に答え、母親が現れると信じ、ただひたすらに…。


 「ごめんなさい!酷いこと言ってごめんなさい!もうワガママ言わないから!ちゃんとお姉ちゃんになるから!だから…出てきてよ…ママ…。」


 自分の口から溢れた酷い言葉。少女はそれをひたすら謝り続けた。

 しかしその声にも、誰も答えてくれなかった。


 いや…ただ1体だけ…ヤツが居た。


 グロロロロ…。


 「……ッ!!」


 少女の耳に届く不気味な声。少女は河川岸から川を見る。

 すると少しづつ霧が晴れ、声の主がその正体を現した。

 まるでよろいのようなボコボコとした漆黒の皮膚を持ち、短い四足の脚、そして特徴的な長く先端にかけて細くなる大きな口。


 「あ…あぁ…。」


 少女の母親を…橋を…何もかも飲み込み破壊した漆黒の津波。

 漆黒の身体を持つソイツは、自らの身体を持ち上げ天を仰ぐ。

 その大きな口をゆっくりと開き、次は天空を飲み込もうかと言っているかのように、天に向かい不気味な咆哮を上げる。


 少女の前に現れたのは、絶望を振りまく、水上の支配者の姿だった――

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