4.いちい君


「やめなさい!」


 店の勝手口ドアが開き、そこから父が現れた。

 エプロン姿の父も怒りを秘めた面差しで、タカ先輩へ咎めるような視線を投げる。そのせいか、先輩が放った拳をぴたりと止めた。


 父はその眼光を放ったまま、エプロンのポケットからおもむろにスマートフォンを取り出した。タップ操作をして、どこかに連絡をしようとしている。


「あ、永谷くん? あのね、ここ最近、そちらのご子息が店内で騒いで営業妨害まがいのことばかりしているんだよね。ご近所のお客さんにも散々目撃されてるけど、そちらの会社の評判とか大丈夫なのかな。他のお客様からもクレームが多いので、このままだと……」


 父の通話内容を知ったタカ先輩がビクッと戦慄き、拳をおろし青ざめた顔になっている。

 そんな父の背後から、もう一人、年配の男性が勝手口ドアから現れる。その男性は、『彼』へと視線を向けている。


「いちい君、落ち着いて。表通りまで響いていたよ。言葉遣い酷すぎ。それ以上は絶対にダメですよ」


 がたいの良い、大きな男性が丁寧な口調で彼を諫める。

 彼も我に返ったようにして、気迫ある表情を緩めた。

 彼の上司? 年配男性の諭しに彼が神妙になってうつむいてしまった。

 そのうちに、父とタカ先輩の父親との話に決着がついた模様。


「ああ、そう。うちの娘に対しても素行がよろしくないから、もう出禁にするからね」


 通話を終えたスマートフォンをポケットに戻した父が、改めてタカ先輩を見つめた。

 だが父がなにか言おうと口を開きかけると、タカ先輩は恐れを成すように背を向け走り去っていく。


 裏路地から躓くように表通りに飛び出し、後輩がおろおろして待っている車へと乗り込んでしまった。

 そんな情けない撤退を眺めて、父がため息を吐いた。


「いちい君、帰りますよ」

「……はい」


 父親ぐらいの年齢の男性に宥められ、彼もしゅんとした様子だった。

 そんな彼へと咲耶は御礼を述べる。


「あの、ありがとうございました」


 背中と肩越しの表情だけ見えていた彼が、咲耶へと振り返る。

 優しい顔つきに戻っている。そんな彼の黒い眼と合う。


「もしかして、広島のご出身ですか」

「え、えっと、あの、その……」


 咲耶と目が合った途端に、彼の顔が耳まで真っ赤に染まった。

 彼の言葉遣いから『とある方言』が聞き取れたので確認してみたのだが、彼は赤面しうつむいたまま、しどろもどろ。うまく返事をしてくれなかった。

 そんな彼を知って、そばにいる年配男性が苦笑いをこぼしている。


「帰りましょう。お嬢さん、また改めて連れてきますね」

「え、そ、そうですか。必ずいらしてくださいね。本日の御礼をさせてください。お待ちしております。ほんとうに、ありがとうございました」


『では』と、言葉が不自由になってしまった彼を、上司のような男性が微笑みながら連れ帰ってしまった。


 ふと咲耶の中で心当たりある男性が浮かんだけれど、その人は『いちい』という名字ではない。別人のようだった。

 それにしても、咲耶のことをあれだけ知っている『広島の人』は、あの人しかいないはず?




✿――



 本日も無事に店じまい。

 入り口引き戸前にかけている白暖簾を降ろし、咲耶と父はカウンター厨房の片付けに勤しむ。


 大事な包丁を研いでいると、明日の仕込みを始めた父がぽつりと呟く。


「悪かったな。嫌な思いをさせて。もっと早く手を打つべきだった。父さんの責任だ」


 沈痛な面持ちと声色の父に、咲耶は首を振る。


「ううん……。料理人の仕事はなにか、知っていてほしいというお父さんの気持ちが通じたから、あんな幼稚なからかいも我慢できていたんだよ」

「でも、迂闊だった。まさかね。鷹来君が、咲耶を連れ去ろうとしていただなんて……。それはもう父親として見逃せなかったんだ。助けてくれた彼と同行していた男性が『裏口でお嬢さんが連れて行かれそうになっている』と教えてくれていなかったら、知らない間に連れ去られていたと思うと、もう……」


 店主として、料理人として、父として。そんな葛藤を仕事中に持たせてしまったのは、思いがけず、自分の店で娘を働かせることになってしまったからなのだろう。咲耶も娘として申し訳なくなってくる。


 静かに黙って包丁を研いでいると、父が少し苛立ちを込めたように話し始める。


「あのバカ息子。もうすぐ結婚するというから、下手に女の子に手出しはしないと思っていたのに……。なにを考えているんだ」

「え!? タカ先輩、結婚するの!?」

「ああ。永谷工務店で事務をしている女の子を妊娠させたらしくて、いわゆる『できちゃった婚』てやつだよ」

「はあ!? なにそれ! 結婚前なのに、あんなに飲み歩いて、私を連れ去って食事につれていくとか言っていたの?」

「そうだよ。食事に連れて行くだけの気もちだったのか、あるいは、ほんとうに咲耶を思い通りにしてやろうと思っていたのかはわからないが。あのバカ息子ならやりかねない。でもな。大事な結婚前。さすがに父親の永谷も問題を起こされたら困ると、今夜はバカ息子をひっつかまえて言い聞かせていると思うよ。それに出禁にしたしな。もうこの店で騒ぐこともないだろう」


 ほんとにあの悪ガキ先輩はなにを考えているんだと、咲耶は改めて腹立たしくなってくる。

 ああ、こんな気もちで大事な包丁を研ぎたくないよと、深呼吸をして落ちつこうとした。


「咲耶を助けてくれた彼、たぶん自衛官だな」


 思わぬことを言いだした父を、咲耶は目を瞠り凝視した。


「一緒に呑んでいた男性たちは、すぐそこにある駐屯地の自衛官だと思う」

「なんで、そんなことわかるの?」


 咲耶の地元町には、陸上自衛隊の駐屯地がある。

 札幌空港がある町で、そこに陸上自衛隊のヘリコプター部隊が隣接しているのだ。その駐屯地近所の居酒屋が、この実家、父の店。ご近所さんや、近辺のお勤め人も集まるが、その中に私服でやってくる自衛官が混ざっているのは祖父の代からあることだった。


「よく来られるお客さんで、お父さんは顔を覚えているってこと?」

「顔も覚えるけど、自衛官は特に雰囲気でわかるよ。身だしなみ、姿勢、礼儀、かな。会社員とは違う厳格な序列が遠くから見て取れる。でも、咲耶を助けてくれた男性は、初顔だったね」

「上司のような男性から『いちい君』と呼ばれていたよ。『いちい』さんに御礼をしたいけれど、また来てくれるかな……。どう探したらいいかな。いちいさんと連絡取りたいって駐屯地に問い合わせても大丈夫……?」

「ああ、それ。名字ではないな」

「え、名前じゃないの? だって『いちい君』って呼ばれていたよ」

「それは『一尉いちい』。一等陸尉いっとうりくいのことだと思う。一緒にいた若い男の子が、彼のことを『いちい一尉』と敬称抜きで呼んでいたから。彼の階級だろ、きっと」


『いちい』は彼の名字じゃない? 自衛官の階級だった?

 では違う名字だということ?

 

 広島出身かもしれない、自衛官――。

 あんなに咲耶の生い立ち、経歴を知っている人。

 丘珠駐屯地は、陸自のヘリコプター部隊。


「あ!」


 すべてが繋がって、霧が晴れていくようだった。


「お父さん、もしかして『いちい君』が誰かわかったかも!」


 きょとんとする父に、咲耶は『どうして判明したか』を説明した。

 父も、咲耶が集めた情報を聞いて確信したように頷いた。


「そうか。彼、だったのか。わかった。父さんも会いたいから、彼に連絡がつくように『ツテ』を使ってコンタクトしてみよう」

「ありがとう。お父さん!」


 彼がまた居酒屋に来る機会もあるだろうが、それが近日とは限らない。

 すぐに御礼をしたい咲耶の想いを叶えるなら、彼を『招待』すれば来ててくれるかもしれない。

 そんな咲耶の気もちに応えるかのように、父が地元の知り合いを通して、ほんとうに『一尉さん』にコンタクトを取ることに成功。

 地元の町内会仲間から、自衛隊官舎の住人と付き合いがある知り合いにアクセス。そこから自衛官妻ネットワークにアクセス、奥様から彼の部隊にいる隊員にアクセス、隊員から一尉さんまで――と到達したらしい。

 こんなところ、地元に長く居る父のネットワーク凄いと咲耶も唸った。


 父が店主として『御礼をしたい』と申し込むと、その知り合いを通じて彼から『ありがとうございます。是非、伺います』との返答をもらうことができた。


 定休日。彼を招くために、父とともに厨房に立つ。

 客が来ない夜。彼のためだけに開けた店に、その人がやってくる。


「こんばんは。お招き、ありがとうございます」


 店の引き戸を開けて入ってきた彼は、陸上自衛官の紫紺の制服を着て現れた。

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