2.俺の大事な彼女

 とても良く通る低い声だった。叫び声ではないのに大きな声、でもとても静かに聞こえた不思議な声。

 思わず咲耶は、背後から聞こえてきたテーブル席へと振り返った。


 なのに、テーブル席はなんら変わらぬ雰囲気のままだった。

 誰が声を張ったのか。あれだけの声を上げてくれたのなら、周囲の客もその男性へと注目しているはずなのに、一カ所に視線を集めている様子もない。それぞれ談笑しつつ食事をしているテーブルばかり。

 男性客の中の誰なのか。咲耶は少しでもその様子を表しているテーブルはないかと凝視したが、わからなかった。

 テーブル席で一体感が生まれているようにも見える。まるで声を上げた男性を隠すかのように。


 それは小上がり席にいるタカ先輩一行も同じようで、『誰だ』とテーブル席の客を睨んで見渡しているが、どこのテーブルかもどの客かもわからないようだった。

 だが小上がり近くのテーブル席に集っているおば様たちが『カビ臭いだって』と、クスクスと笑い出したい声を押し殺している姿が見えた。


「帰るぞ」


 タカ先輩が小上がりの畳から立ち上がる。眉間に深い皺を刻み、頬を引きつらせている。

 誰もタカ先輩一行をじろじろ見たりしていないし、相手にもしていない。それでも店の空気は、小上がりにいるタカ先輩一同を異物と認定して、雰囲気だけで弾き出そうとしている。

 先輩女子たちも、タカ先輩の後輩男子たちも、『カビ臭い』とか若いのに『年寄りが騒いでいる』と認定され居たたまれなくなったようで、おずおずと帰り支度をはじめた。


 レジ精算は店主である父が対応した。

 しかし父はなにも言わず、淡々と『ありがとうございました』と返しただけ。

 父自身もこの地元町で生まれて育ってきた。タカ先輩が子供のころから知っているし、彼の父親『永谷工務店の社長』も先輩後輩として顔見知りだ。それでも、父は今夜の所業に言及することなく彼らを見送る。


 北国の遅い桜が咲き始めたばかり。まだ雪が残る山から吹き付けてくる風が冷たい夜。

 その夜空の下へと先輩たちが消えていった。


 やかましい集団がいなくなり、店内は和やかな空気に戻っていた。

 咲耶は改めて店内を見渡す。どの男性が声を上げてくれたのだろう?

 年配さんじゃない。若い男性の声だった。テーブル席には、近所の年配おじ様たちの集いに、男友だち同士の席もあれば、職場での飲み会と窺える席もある。

 誰も咲耶とは目が合わない。声の主も、あの喧しい先輩一行がいなくなれば、それで良かっただけなのだろう。


 でも。御礼を伝えたかった。



✿――



 それから小一時間経ち、近所のおば様たちがお会計へとやってくる。

 ここでも父がレジへと向かった。

『大将、そろそろなんとかしないと』、『いつまでもお客様扱いではダメよ』、『でもあの家の息子なら慎重になっちゃうわよね』と、おば様たちがこぼしている。父も『不快な思いをさせて申し訳なかった』と頭を下げているのが見えた。

 おば様たちを見送ると、今度は男性数名で呑んでいたテーブル客が会計へとやってくる。職場で集まっているのか、年配男性と若い男性が混ざっている集団だった。

 ここも父が対応してくれる。


「咲耶。裏から炭酸水のケース、補充しておいてくれ」

「はい。大将」


 レジ打ちをしている父に言いつけられ、咲耶は厨房裏の勝手口に向かった。


 ドアを開けて外へ。北国の桜は遅い。そして夜はまだ気温が低い。

 白シャツに黒エプロンをしているだけの咲耶は、外の冷気に震える。

 目の前にある小さな倉庫から、炭酸水の飲料ケースを取ろうと一歩踏み出す。


「なんで、俺の言うとおりにしない」


 薄暗い店の裏路地、店の関係者しか立ち入らないはずなのに、声が聞こえ咲耶はびくつく。男が立っていた。

 暗闇から射す眼光は鋭く、咲耶を睨んでいる。鷹来先輩だった。

 古びたデニムのブルゾンに、紺のワークパンツ。派手な茶髪。いわゆる地元の悪ガキヤンキー風で、彼がずっと横暴な態度で周囲を圧していた昔を思い出させ咲耶は硬直する。そんな先輩がキツネのような意地悪い顔に、薄笑いを浮かべた。

 その男が怯えている咲耶へと素早く歩み寄ると、女の細腕を掴み上げる。


「やめてくださいっ」

「来い。どうせちょっとした手伝いしかしてねえだろ」


 咲耶の腕を、厳つい男の手が荒々しく引っ張り握りしめてくる。気遣いもなにもない力加減で、白シャツ下の柔肌に容赦なく彼の爪が食い込んでくる。『痛い』と怯んだ間に強く引っ張られ、表通りに連れ出そうと先輩が歩き始める。


「ほら、おまえも俺たちの仲間に入れてやるからさ。もう男の名前なんて言わねえから。おまえ、晩飯まだだろ。ここよりもっと美味いもん、おごってやるから」


 彼が強引に咲耶を引っ張るその先には、ウィンカーを点滅させ路肩に駐車しているワゴン車。『飲酒運転では!?』とギョッとしたが、既に運転席には後輩の男性が座っているのが見えた。後部座席には誰もいない。

 まさか――。飲酒をしていない後輩に運転させて、男だけの車で連れ去られる!? 一瞬で血の気が引いた咲耶は、強く握られている先輩の手を振り払おうとする。


「離して! まだ仕事中です!」

「うるせえな。たいしたことねえんだよ、居酒屋なんて! おっちゃんの代で終わりだろうが!」


 今度は腹の底から怒りが湧いてきた。『父の店がたいしたことない? ここより美味しいものを食べに連れて行く?』――デリカシーのない言葉の羅列が許せない。

 だが工務店で建築職人として働いている男の力は強い。咲耶の抵抗も虚しく、表通りへと引っ張り出されそうになる。後輩の男が運転席から降りてきて、後部座席のスライドドアを開けた。

 あそこに乗せられてドアを閉められたら一巻のお終いだ。


 連れ去られる――!


 目を強く瞑った瞬間。

 腕から痛みがなくなり、ふっと軽くなった。引っ張られる感触も消えた……。しかしガバッと咲耶の身体に抱きついた感覚に変わった!


 いやーー! タカ先輩に抱き込まれて、車に押し込まれる!!


「くっそ、なんだおまえ!」


 そんなタカ先輩の声が聞こえる。しかも抱きしめられているのに、離れた場所から聞こえる。え? いま咲耶を抱きしめている人はタカ先輩じゃない??


 頬にひと肌の熱が伝わってくる。そのまま静かに見上げると、長身の男性が咲耶を胸に抱き込んでいた。


「大丈夫だよ。連れ去られる前でよかった……」


 少し短めの黒髪、まっすぐな視線を放つ漆黒の眼。見知らぬ彼と目が合う。

 抱きしめられている胸元から、清潔感ある優しい匂いがする人。


 見知らぬこの人がタカ先輩に連れ去られる咲耶に気がついてくれ、無理矢理間に入って引き離してくれたようだった。その彼が守るように抱いてくれているのだと、やっと理解する。


 そんな男性が盾になってくれている向こうを見遣ると、思い通りにならなかったタカ先輩が顔を真っ赤にしているのが見える。


「その女は、俺の女だ。返せ!」


 勝手に俺の女認定するタカ先輩の執拗さに、咲耶はまた震え上がる。

 もし連れ去られていたら無理矢理……? 女癖が悪くて有名だから、あり得ることだ。

 そんな先輩の身勝手な言い分に、彼が応戦する。


「彼女は、おまえの女なんかじゃない!」


 薄暗い路地裏に彼の声が空高く響いた、ように聞こえた。

 自分の怒声よりスパンと放たれた大声に、タカ先輩はおののき立ち止まった。

 咲耶もハッとする。この声――、あの声!

 怒声じゃない、よく響く落ち着いた声。あの男性の声だと咲耶は気がつく。


 さらに、この男性がよく通る声で言い放った。


「彼女は俺の大事な人だ! 二度と触ろうとするな。おまえなんかに絶対に渡さない!!」


 再度きつく抱きしめられた。

 それには咲耶も行き過ぎた行為に思え困惑! しかも『俺の大事な人』ってなに?? どういうこと!?


 混乱しているうちに、もう彼との隙間はないほどに両腕で囲われ、ついに咲耶の視界は彼の胸に押し込まれなにも見えなくなる。


「はぁあ!? おまえ、なんなんだ!!」

「俺の彼女に近づくな、触るな!」


 いや咲耶も頭の中にパニック発生!


 俺、の、彼、女? この人、だれ……!?

 咲耶も彼に覚えはない。

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