第39話 戻らないと


 芸術祭の一日目が終わり、帰り支度を済ませると、アリナは教室の扉から顔を出した。


(……シオンは、いないよね)


 新しい護衛はシオンみたいにアリナの予定を根掘り葉掘り聞いてきたりすることもなく、教室の前で待っていることもなかった。帰りは昇降口で待ち合わせをして、そこから寮まで護衛をしてもらっている。


「よし」


 と意気込んで廊下に出ると、アリナはそそくさと昇降口に向かった。本当はクロエと一緒に校門まで帰りたかったのだが、彼女は婚約者が待っているからと先に行ってしまったのだ。


(今回は大丈夫)


 恐るおそるとした足取りで、廊下を進む。

 呼吸を落ち着けながら廊下を曲がった瞬間、アリナは思わず足とともに息も止めてしまった。


「アリナさん、どこかに行かれるのですか? いま、迎えに行こうかと思っていたのですが」


 いないと思っていたはずのシオンが目の前に立っていたからだ。

 出そうになった悲鳴を呑み込み、アリナは何とか声を絞りだした。


「どうして、ここに……」

「実は担当の騎士が体調を崩されたので、今日は私が代わりに来たのです」

「うっそ」


 シオンはいつもと同じ穏やかな笑みを浮かべている。

 だがその紫色の瞳は穏やかじゃなかった。危うさの滲んだ、暗く陰るのある瞳。

 本能が逃げろを急かしてくる。

 後退ると、シオンが首を傾げた。


「もしかして、逃げようとしているのですか?」

「あ、その……教室に忘れ物を取りに」

「……そういえば、一週間前もそうでしたね。あの時も私を見て怯えているようでした。私は、何かしてしまったのでしょうか? ……それに、どうして私を護衛から外されたのですか?」


 ああ、時戻り前と同じだ。このままだと、あの時みたいに腕を掴まれてしまうかもしれない。

 いますぐ逃げたいのに、体がうまく動かない。


(……そうだ、ポプラの花)


 ポケットの中にあるそれに手を伸ばそうとした時、ここにいるはずのない声が聞こえてきた。


「アンぺルラ卿。どうされたんですか?」


(ヴィクトル様……!?)


 彼は金色の瞳をシオンに向けている。その顔はすこし険しい。


(どうしてここに? 時戻り前にはいなかったはずなのに)


「アリナさんを迎えに来たんです。私は、護衛ですから」

「護衛は別の人に代わったと、聞いたのですが」

「ええ。ですが、新しい護衛が体調を崩してしまい、今日は私が代わりに」

「……そうですか」


 ヴィクトルがチラリとこちらに視線を向ける。

 もし彼がシオンの言葉に納得してここから去ってしまえば、時戻り前と同じことが起こるだろう。

 無意識にも首を振っていた。シオンとふたりっきりにしないでほしいと訴えるように。


 それが通じたのかわからないが、ヴィクトルは再びシオンに向き直ると口を開いた。


「それでは、今日は僕がアリナさんを寮まで連れて行きます」

「あなたが?」

「僕はこれでも、剣を習っていまして。もちろん、アンぺルラ卿には遠く及びませんが、彼女も親しい・・・僕の方が安心できるでしょう。今日は芸術祭で、いろんな人が学園にいらっしゃいましたから気疲れもしているはずです」

「……そう、ですか」


 少し残念そうに溜息を吐くと、シオンは一歩後ろに下がった。


「わかりました。ですが、私もついて行きます」

「……いいでしょう」


 いくらヴィクトルが剣に覚えがあるからと言っても、騎士の称号を持っているシオンには敵わないだろう。それにここでシオンを無理に遠ざけるのも、反感を買って最悪な事態になってしまうかもしれない。


 それならと、アリナも頷いた。


「アリナさんが良いと言っているので、とりあえず行きましょうか」


 寮まで戻れれば、ひとまずは安心だろうか。

 芸術祭は明日もある。シオンの様子がおかしいいま安心できないけれど、隣にいるヴィクトルの横顔はなんだか頼もしく思えた。




 一階まで階段を下りると、アリナたちは昇降口に向かった。

 静寂に支配されたような沈黙の中、足音だけが廊下にこだまする。


 それにやけに緊張を覚えた時、廊下の向こうが騒がしいことに気づいた。

 まだ残っている生徒がいるみたいだ。数人の女子生徒が集まってなにやら騒いでいる。


「どうしたんだろう」


 アリナの呟きに、ヴィクトルが反応する。


「あそこは保健室や職員室がある方向だね。……保健室といえば、リシェが」

「リシェリアが、どうしたんですか?」

「……同じクラスだし別に敬語じゃなくってもいいけど」

「そ、それはちょっと」


 推しにため口をきくのは恐れ多すぎる。

 ヴィクトルはなぜかため息を吐くと、「あの時は違ったのに……」となにやらブツブツ呟いている。


「――リシェは、体調不良の友人を見舞うために、保健室に行くって言っていたよ。確か、いまから二時間前ぐらい前だったかな」

「じゃあ、いまはもう帰っているのかなぁ」

「さあ、どうだろう」


 ざわめきがさらに大きくなるともに、騒いでいる女子たちの声が聞こえてきた。


「まさか、あの方はオゼリエ家の?」

「でも、黒髪だったんじゃないの?」


 オゼリエ家? 黒髪?

 その単語からわかるに、リシェリアの話でもしているのだろうか。


「……リシェ?」


 信じられないとばかり大きく目を見開いたヴィクトルが、小さく呟きを漏らした。

 その視線を辿り、アリナは一瞬息を止めた。


「リシェリア、だよね」


 夜空に輝く月のように綺麗な銀髪に、銀色の瞳。

 いつもの黒髪おさげの格好をどうしたのか、彼女は変装していない格好で廊下をこちらに向かって歩いてくる。


 その銀色の瞳と視線が交わり、アリナはいいようのしれない不安を覚えた。


 リシェリアはアリナに気づくと近づいてくる。

 アリナは引き攣った笑みを浮かべながら、右手を上げた。


「リシェリア、どうしたの、そんな恰好をして?」


 いつもの口調で声を掛けると、銀髪のリシェリアは不愉快そうに眉を顰めた。


「平民のくせに、なれなれしく話しかけるのをやめてくれないかしら?」

「え、リシェリア?」

「名前を呼ぶのを許したことなんてなくてよ」


 目つきが悪く見える細い瞳。それから高慢な態度。

 彼女のその姿が、ゲーム画面で見た悪役令嬢リシェリアの姿に重なった。


「リシェ、どうしたのさ」

「……あら、ヴィクトル。その気味の悪い瞳・・・・・・で見てくるの、不愉快だわ」

「っ、リシェ?」


 信じられないという顔で、大きく目を見開いたヴィクトルが動きを止める。


 銀髪のリシェリアは、そんなヴィクトルに蔑みの瞳を向けていた。

 アリナはその銀色の瞳の奥に、暗い光を見かけた気がした。

 それも、時戻り前にシオンの瞳の奥で見た、赤色を。


(――っ、もしかして……保健室って……)


 まさか、そんなことあるはずが……。

 だが、予想していなかった展開はいくらでもありうることだ。


 アリナは恐るおそる廊下の先を見つめて、目を見開いた。


(……戻らないと)


 廊下の先には、白衣を着た男性が立っていた。線の細い顔立ちをした桃色の髪に赤い瞳の養護教諭。


 アリナは彼のことを知っていた。

 『時戻りの少女~ささやかな日々をあなたと共に~』の登場人物のひとりだ。


「戻らないと」


 うわごとのように呟き、ポケットをまさぐるとポプラの花を握りしめた。


 赤い瞳と視線が重なり、彼は面白そうに口元をほころばせた。 

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