第3話…匡介と昼の月
奈子さんと初めて会ったのは、温室の作業部屋だった。バイト面接の後、即採用で挨拶周りをしていた。感じが良い人で、珍しく即採用になるだけのことはあるなと思った。
「持田奈子と申します。よろしくお願い致します」
実は見た瞬間、若くて綺麗な人が来たとテンションが上がった。
後々既婚者で子持ちだと聞いて、自分で思った以上にショックを受けた。
でも西川から、夫婦が上手くいってないこと、子どもが成人したら離婚する予定であることを聞いて、密かに喜んでいる自分がいた。
週に1回会えるかどうかだったから、少しずつ本当に少しずつ話をする機会が増えて、奈子さんの優しい話し方や仕草が可愛くてしょうがなくなった。笑い方も、手の振り方も、暑い時の汗の拭い方も、全てが好みだった。
ああ、もうダメだ。俺は奈子さんのことが好きなんだと、自覚するのも時間の問題だった。
話をするだけでも嬉しい。会えるかわからないけど、会えたら本当に嬉しい。会えないと気持ちも冷めるとか、誰が言ったんだ?全くそうじゃない。もう自分を騙すことも出来なくなっていた。
ただ、この想いを成就出来るとは思っていなかった。密かに想って、一緒にいる時に幸せを感じるだけで良い。
子どもが成人したら離婚するとはいえ、既婚者なのには変わりない。自分からいったところで、奈子さんの迷惑にしかならないのはわかっていた。半ば諦めていた時、咄嗟に出てしまった。
「じゃあ俺とも飯行きましょうよ」
奈子さんは驚き気味だったから、確実に失敗したと思って変な汗をかいた。
「…平日の、ランチなら」
笑顔の奈子さんを見て、内心ガッツポーズだったのは誰にも言えない。
車の助手席に座ってもらった時、めちゃくちゃ緊張して、挨拶をする奈子さんの笑顔を見て泣きそうになった。夢じゃなくて本当に隣に座っている。
それにランチは最高に楽しかった。
実のところ、奈子さんに怒られるかもしれないが何を食べたかなんて緊張して覚えてない。ただ、奈子さんと二人でランチに来ているという事実が楽しくて、テンション上げる要因としては十分だった。平常心でいるように自分を抑えるのにも必死だった。
帰りに昼の月が出ていて、奈子さんが久しぶりに見たと言っていた。
俺は夏目漱石の言葉が思い浮かんだ。直接的にでなく、間接的になら伝えて良いだろうか。奈子さんは困るだろうし、まぁ無いな、そもそも気付かないだろう、と信号待ちで止まっている時に考えながら二人で月を少し見ていた。
「…月が、綺麗ですね」
思わず口走ってしまった。やっべ!!ハンドル持ったまま奈子さんの顔を見れず、焦っていたら、どうやら奈子さんは驚いていたようで、全く反応がない。
完全に詰んだと思った時だった。小声で微かに聞き取れるくらいに奈子さんが言った。
「……死んでも、良いわ…?」
「はっ?!」
横目で一瞬確認してみると、奈子さんは手で顔を覆っている。
「…何でもないです。忘れて下さい」
「いや、無理でしょ、てか、へ?!ちょっ…やべ、青だ。奈子さん、ちょっと…」
奈子さんはまだ顔を隠したまま窓の方を向いていた。
こんな会話が出来るとは思わなった。青天の霹靂と言うやつだけれど、運転をしている時で大分動揺してしまった。
田舎道だったので、川が見渡せる駐車場があって、そこに車を停めて自分を落ち着かせた。
「あの、奈子さん、さっきの…」
奈子さんは何故か涙目になっている。
「ごめんなさい、まさか聞こえてしまうとは思わなくて」
「いや、俺が言い始めたことなんで。あの、もう隠せないんで言うんすけど、俺は奈子さんが好きです。ダメだろうって分かってるんですけど、好きなんです」
二回も好きですって言ってしまったと思いながら、真剣に奈子さんに伝えてみた。
奈子さんは、悩みながらハンカチで顔を隠しながら、苦しそうに話始めた。
「…すみません、こんな立場で言ってはいけない…あれなんですけど、誤解だけは嫌なので、ちゃんと言います。林さんは、私の好みドンピシャなんです。本当にごめ…」
俺は嬉しくて、奈子さんが話しているのに顔を隠していた手を退けて、キスをしてしまった。これは夢なんだろうか。夢なら覚めないでほしい。
「奈子さんが結婚していて、子どもを優先させるのも理解してます。子どもが宝だと言ってました。でも、俺は奈子さんを好きなんです。また、一緒に二人で出かける時間を、少しで良いから、くれませんか」
奈子さんは目に涙をためて、返事に困っていた。
「…そんな贅沢許されるんでしょうか。きっと、林さんにご迷惑が、かかります」
俺は奈子さんを離したくない一心で応えた。ここで離したら、二度と掴めない気がした。
「大丈夫です。俺から誘います。また一緒にでかけましょう」
奈子さんはゆっくり頷いて、その拍子に涙がポロッとこぼれた。
「あ、あの、他に良い人がいたら、その人と、付き合ったり、結婚したりして、下さい。でないと、本当に林さんに悪くて。私のせいで…」
俺はまた奈子さんにキスをした。
「わかりました」
適当に返事してしまった。
その日から、奈子さんと俺は時々一緒に出かけた。ただ、連絡は一切しなかった。それが二人の決まりのようなものだった。
不安定な幸せがやってきた。
それでも、本当に幸せだった。
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