伝えたいこと

 如何に玖澄が庇ってくれたとはいえ、初穂は無傷というわけにはいかなかった。

 初穂の手足に切り傷や擦過傷を認めた玖澄は、顔色を帰ると初穂を抱えたまま直ちに屋敷へ帰った。

 大丈夫だ。貴方の方が余程傷を負っているのに、と初穂が言っても、玖澄はけして初穂を下さない。

 深手ではないとはいえ怪我をした初穂と、初穂より余程傷を負っている玖澄を見て、白妙達は驚いていた。

 慌てふためきそうになる小霊達を窘めて、白妙はすぐさま手当の用意をしてくれる。


「玖澄のほうが……! 玖澄のほうが、酷い怪我をしているの……!」

「大丈夫です。この程度ならば治癒に左程かかりません」


 初穂のことより、自分のことを優先して欲しいと幾ら訴えても、今までにない強さで玖澄は首を縦に振らない。

 あなたの手当が先ですと言って聞かない玖澄にもはや涙ぐみながら、白妙達にも助けを求めるけれど。

 白妙も、そう言いだしたら無理です、と言うように少し悲しげに首を左右に振る。

 確かに白磁の肌についていた傷から流れる血は、徐々に止まり始めているように見える。

 だが、以前として傷は残ったまま。それに、いくら力ある大蛇といえども、あの高さから沢に叩きつけられたのなら見た目以上に傷ついているはずだ。

 それなのに、苦痛は欠片も感じさせず、玖澄は初穂の手当をするのだ。

 後は私が、というように手でしめすと、白妙は一つ頷いて下がる。

 一つ一つの程度を確かめながら。膿んでは大変だと言いながら傷を綺麗に洗浄すると、白妙が持ってきた薬を塗って。晒木綿を優しく丁寧に巻いていく。

 まるで壊れ物を扱うように、優しく。宝物に触れるように、大切にそうに。

 傷が残っては大変ですからと、温かで慈しみに満ちた微笑みを浮かべながら。


 不意に、玖澄の顔の眉が寄せられる。

 手に触れた何かに驚いた様子で初穂を見つめている。

 玖澄の手に落ちたのは、初穂の頬を伝い落ちた涙の雫だった。


 いつの間にか、初穂は泣いていた。一つ、また一つと透明な粒が筋を描き伝い、玖澄の手に落ちる。

 初穂はもう涙を止める事が出来ない。

 微笑んで見せたくても、もう無理だ。


「私は」


 気付いた時には、震える唇から掠れた声音が紡がれていた。

 ああ、もう隠していられない。

 この罪の重さに。優しい大蛇を欺き続けることに、耐えられない。

 嘘偽りを隠したまま、この人の前で笑うことなんて出来ない……!

 初穂が揺れる眼差しを向けた先。

 玖澄が、揺らぐことのない真っ直ぐな眼差しを初穂に向けている。

 痛い程のそれを感じながら、初穂は絞り出すようにして続きを告げた。


「私は、貴方を殺す為に贄になったの」


 大蛇に花嫁を捧げると申し出た裏にあった、初穂に課せられた使命。

 あやかしを消し去る短刀を初穂が抱き続けた理由であり、穏やかで温かな日々に何時しか重く感じるようになっていた、初穂がここに来た本当の理由。

 玖澄と過ごす時間にあり続けた、初穂の中の消えない棘。

 温かな陽だまりのような日々に陰を落していた真実を、もはや隠す事などできずに叫ぶ。


「私は……貴方を殺すために、ここに来たの……!」


 血を吐くような叫びをあげながら、初穂は俯いてしまう。

 怖いのだ。

 玖澄がどんな顔をしているのか見るのが、怖くて堪らない。

 見つめる眼差しがどんな色に変化していくのか知るのが怖い……。


「贄を捧げても災いが無くなる保証はないから。大蛇を討て、と言われてきたの……」


 事の始まりは瀬皓の村を襲った災い。

 だが、村の長である父はその解決を、贄を差し出し許しを請うのではなく、あやかしを討つことに求めた。

 初穂はそれに異を唱える事もせずに従った。使命を果たせば、自分が価値あるものになれるのではないか、と浅ましい期待を抱いて。

 父に課せられた使命も、自分が抱いてしまった期待も、全て泣きながら吐き出した。

 使命故に短刀を与えられた。けれども、短刀が玖澄に向けられたことは一度もない。

 初穂の使命は、未だ果たされていない。だから……。


「役目を果たせないから、帰れなくて。ここに居られなくなったら、何処にも居場所がなくなるからって黙っていた」


 帰る事もできず、さりとてここを追い出されて行く場所などなく。

 ただでさえ人より虚弱な身の女。出来る事もなければ何の役にも立たない。

 如何にして生を繋げばよいのかわからず、早晩野垂れ死にする未来しか見えない。

 だから隠し続けたのだ。

 そう、それ以外に理由があってはならない。

 胸が痛む理由がもう一つあるなんて気付く資格すらない。

 切れ切れな嗚咽交じりの言葉を必死に紡ぎ続ける初穂に、玖澄は沈黙したままだ。

 続きを待っているように思えるが、もしかしたら呆れているのかもしれない。

 失望し、言葉を失っているのかもしれない。

 顔をあげて答えを知るのが怖いまま、初穂は震える声で続けた。


「自分が可愛いから、ずっと本当のことを隠して。あなたの優しさに付けこんで」


 玖澄はずっと優しく温かだった。

 裏も表もなく、ただひたすらに丁寧に真摯に初穂と向き合ってくれていた。

 願いというものを抱くこともできず、口にすることもできない初穂を慮ってくれていた。

 それなのに自分は常に許されざる謀を抱えて、玖澄の優しさを、与えられる慈しみを享受していたのだ。


「私は、卑怯なの。卑怯で、自分本位で、汚い……」


 自分が失いたく無いから。

 居場所を、そして玖澄の温もりと眼差しを。

 誠意を以て接してくれている相手に隠し事をし続けるのことに、それらしい理由をつけて先延ばしした。

 玖澄に比べて、初穂はなんて薄汚く狡いのだろう。醜いのだろう。

 初穂は笑いながら恐れていた。

 この美しい大蛇が、自分を見放す時がくるのを。

 沈黙が痛いけれど、それは初穂が受けるべき当然の痛みだ。

 身の内に抱えていた罪を捌かれる時がきた。


「だから、貴方に優しくしてもらう資格なんかない……! 貴方の側にいる資格なんて、ないの……!」


 玖澄が戸惑いながらも手を伸ばしてくれようとしているのを感じて、初穂は駄々をこねる子供のように激しく首を左右に振った。

 それはもう駄目なのだと零しながら、血を吐くような悲痛な声音で叫んだ。

 また玖澄の手の優しさに触れてしまったら、望んでしまうから。

 変わらず穏やかに続いていく日々に、笑みを交わしながら二人で居られることを。

 この美しくて不思議な屋敷にて、玖澄と、白妙や小霊達と共に幸せに暮らしていけることを。

 資格などないと自ら断じても縋ろうとする浅ましさを厭わしく思い、唇を噛みしめ更に初穂は俯いた。

 その時、ふと空気が揺れた気がした。

 玖澄が身じろぎしたのだと気付いた時には、初穂の目に映る光景が変わっていた。

 どこに自分がいるのか、すぐには分からなかった。

 何が起きたのかわからなくて、戸惑いに揺れる視線は着物の合わせを捉えて。


 それが玖澄の着物であることに気付いて、回される温かで頼もしい感触を確かに感じた時。

 初穂は、自分が玖澄に抱き締められていると気付いた。


 思わず目を見開いてしまったけれど、すぐに悲しげに顔を歪めて目を伏せる。

 ああ、玖澄だ。

 感触が、香りが、気配が。玖澄が確かにそこに居てくれていると伝える。

 今まで玖澄に抱きかかえられることはあった。

 抱き締めて良いですか、と問われて頷いた時もあった。

 だが、今はあの時のように何処か壊れ物を抱くような、恐る恐るだった様子はない。

 縋りつくような、初穂をけして離すまいというような、強く悲痛なまでの意思を感じる。

 腕に籠る力が強いと感じれば感じる程、初穂の胸を熱いこころが満たしていく。

 苦しいと感じることすら、嬉しいと思ってしまう。

 自分を確かに捉えてくれる腕を、幸せだと思ってしまう……。


「知っていました」

「え……?」


 不意に耳元に降って来た静かな呟きに、初穂は目を見張る。

 少しだけ腕の力が緩んだのを感じると、初穂は弾かれたように顔をあげた。

 そこには、少しだけ哀しそうな玖澄の微笑みがあった。

 どういうこと、と問いたくても言葉として唇から紡げないでいる初穂を見て、玖澄は再び口を開いた。


「貴方が、私を殺す為にきたことを。私は……知っていました」


 その言葉に、初穂は凍り付いたように動きを止める。

 強張った表情で呆然とした眼差しを向けるしかできなくなってしまう。

 知っていた、と今玖澄は言ったのだ。

 初穂が、玖澄を殺す為にきたことも……命を狙いながら傍にいたことも、全て。

 玖澄は知った上で、初穂をここに置いてくれて、接してくれていた。

 彼の言葉が示している事実をすぐに理解できない初穂は、何か言わなければと思うのに、一つとして意味ある言葉が形にならない。

 玖澄は僅かに苦笑いを浮かべると、続けた。


「これでもそれなりに年を経たあやかしです。初穂さんが『何か』を懐に抱えているのは気付いていました」


 その『何か』とは短刀のことだったのか。それとも腹に抱えた目的のことだったのか。それを問いたいのに、やはり言葉は出てこなくて。

 寄る辺ない子どものように不安にゆれる眼差しを向けるしかできなくなっている初穂を、玖澄はもう一度、今度は優しく抱き寄せる。

 頬に感じる温かな感触と、確かに伝わってくる玖澄の鼓動に目を細める初穂に、玖澄は更に続ける。


「隠していた事が咎だというなら、私も同罪です。……知っていると告げたなら、初穂さんがもう笑ってくれないかもしれない。そう思ったからこそ、言えなかった」


もしも、初穂が抱えていた『使命』を玖澄が知っていると言ったなら。

 命を狙う相手を赦すはずがないと、初穂は怯えただろう。

 玖澄がどれほど言葉を尽くしたとしても、もう微笑むことなどできなかっただろう。

 場合によっては、もうここには居られないと去ってしまったかもしれない。もしかしたら、思いつめてしまったかもしれない。

 命を狙われているのに、と顔を顰められる行いかもしれない。けれど。


「それでも、初穂さんにここに居て欲しいと思ったのです。私の傍で、笑っていて欲しいと思ったのです……」


 初穂に去って欲しくなかった。

 共に過ごす時間を、何時しか失い難く感じていた。

 初穂を、失いたくないと痛い程に思うようになっていた……。

 叶う限り初穂の笑みを傍で見続けていたかった。だから、自分も言えなかったのだと玖澄は言う。

 初穂の鼓動が少しだけ早くなる。

 自分が玖澄と共にある時間を失いたくないと思ったように、玖澄が初穂を失いたくないと思ってくれていた。

 去りたくなくないと思っていたように、去ってほしくないと思ってくれていた。

 その事実が、胸に熱いものとなって満ちていくと同時に、鼓動を徐々に走らせる。

 勘違いしてはならないと唇を噛みしめてうつむくけれど、抱き締める玖澄の腕を感じれば尚更鼓動は早まり、頬がほんのりと熱を帯びる。

 二人は、暫しの間沈黙に揺蕩っていた。

 どちらも何も言わず、けれどどこか不思議な温かさのある静寂だった。

 やがて、それを破ったのは玖澄だった。


「初穂さん」


 名を呼ばれて玖澄の胸に頬を預けていた初穂はゆるりと顔をあげ、玖澄を見上げた。

 見つめる初穂の眼差しを感じた玖澄は儚いまでの微笑みを浮かべると、問いかける。


「これは、ある臆病者の昔話です。聞いて頂けますか……?」


 玖澄の静かな声音の問いが耳に触れて一呼吸おいて、初穂は頷いていた。

 素直に、聞きたいと思ったのだ。

 この優しい大蛇が語ろうとしてくれていることを。

 温かなこころをくれた玖澄が、初穂に知ってほしいと願うはなしを――。

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