氷雪姫の恋

@marukome8

序章 蛇と氷雪の戦い

 

 掲げられた蛇の紋章と共に、魔王の軍勢が玲瓏に攻め入る。


 攻め入る軍勢は、鱗を纏った兵士であった。


 玲瓏の兵は氷雪の魔道を操る。叡の国最北部の雪深い土地で修練を行う彼等は、故郷を取り囲む氷雪を己が加護として用いる。


 玲瓏の軍勢と対峙する者は、氷雪魔道への対抗策を持たねば何も出来ず死ぬ。


 凍てつく空気は体温を奪い血を凍らせる。皮膚からは血の気が失せ、次第に全身が凍り付き死に至る。冷気により火薬も使えぬ戦場の中。投石と弓矢が降り注ぎ、兵共が互いの得物で切り結ぶ原始的な合戦がそこにあった。


 己が所領の喉元まで攻め込まれた玲瓏の兵。結界の魔道を以て己ごと冷気を閉じ込め、蛇の軍勢と対峙する。


 魔王軍は蛇の鱗をその皮膚に纏い、氷雪に対抗していた。


 鱗を纏い己が体温を守り、鱗が傷つけば脱皮し新たに生やす。彼等は魔王を尊び、蛇の加護を己が力として用いていた。


 氷雪を纏いし玲瓏の軍勢と、蛇の力を得た魔王の軍勢が──白銀の雪景色の中衝突する。


 


「──らぁぁぁぁぁあああああ!」


 


 凍り付く大地の上。灼熱のような男が天に向け咆哮を挙げる。


 己が巨躯よりも更に一回り大きな肉斬り包丁を携えた男。巨躯に携えた筋肉の上に赤黒い脂肪を纏い、その上更に蛇の鱗を纏っている。


 鬼気。


 今にも眼窩から飛び出そうなほどに見開かれた眼。弛んだ頬を吊り上げ犬歯を剥き出しに唸りを上げる口元。それはまさしく──人ではなく、鬼であった。


 一たび肉斬り包丁が振るわれれば、暴風が吹き荒れる。暴風は吹き荒れる雪すらも巻き上げ、斬撃の渦を生み出していく。


 


「この鬼を凍り付かせられるとでも思うたか! 雑兵をいくら送りつけようと、食らうのみよ! ──玲瓏の兵、恐るるに足らず! 前進せよ! 魔王の名を、蛇の名を掲げよ!」


 


 男は羽織を脱ぎ半裸となりて、氷雪の中暴れ回っている。


 その周囲には──上体が斬り裂かれた玲瓏の兵の亡骸が雪の中沈みきっている。


 鬼気を纏いし男の暴が、嵐となりて雪原を巻き上げていた。


 


 鬼の勢いに乗じ。鬨の声を上げ、鱗を纏いし魔王の軍勢が前に出ていく。


 鬼気を纏いし巨漢の将の圧力に、玲瓏の兵が押されていく。それを好機と捉えた将は、己が軍勢を更に前へと突き出したのであった。


 しかし。


 前へ進みし軍勢は、──己の肉体が内側から凍り付くのを感じた。


 


「が.....あぁぁあ.....」


 


 皮膚から付き刺すような寒さではない。己が臓腑の底から始まり、そこから神経を巡り血液へ回り──己の内側から冷えていく。


 鱗を纏いて氷雪へ対抗していた魔王の軍勢は。それすらも突き抜ける不可避の魔道を前にして、物言わぬ肉塊へと変貌していく。


 彼等を見据える少女が一人。


 薄衣を纏いし可憐な少女。ただ彼女は、見ていた。凍り付いたような表情で、ただただ。紋章を刻むことも、魔道書も用いることも、詠唱をすることもなく。ただ、見ていた。


 瞳孔が開いたその奥。刻まれた魔道がその眼より放たれる。少女は瞳術の使い手であった。


 瞳から流る魔が、眼下の者共の命を凍り付かせる。


 鬨の声と共に、冷気を突き進みし軍勢は――途端にその足が止まる。


 


 少女の術を前に瞬時に凍り付き、前進が止まった軍勢の中。


 


 躍り出る影がもう一つ。


 


「――さあ蛇共。その薄汚ぇ鱗、引っぺがされる覚悟はいいか!」


 


 凍り付いた屍を踏みつけ、──鉄杖を握り込む男が、蛇の軍勢へ単身切り込む。


 


「全員――命ごと、その骨を磨り潰してやるよ」


 


 狂気。


 蛇の軍勢に取り囲まれ、四方から斬り込まれる鉄杖の男は──踊るように戦っていた。


 己が体幹ごと鉄杖を回転させ、己に振り降ろされる得物全てを叩き落し、代償の一撃を見舞う。


 その鉄杖の一撃は、軍勢が纏う鱗を時に打ち砕き。時に打ち砕く事すらなく、その内部の骨と臓腑を破壊していく。


 足先から飛び、跳ねる。


 跳ねる体幹が回る度。その手に握り込まれた鉄杖の軌跡は、正確無比に蛇の肉体を打ち付け、砕く。


 


 敵兵が壊れ行く姿を一瞥するごと。──鉄杖の男は、その口元に狂気の笑みをより深く刻み付けていく。己が身すらも蝕む諸刃の氷雪の冷たさも。殺戮の血の匂いも。何より――己が両腕から伝わる骨を破砕する感覚すらも、あまりにも心地よかった。


 魔王軍の肉斬り包丁の男とは対照的。精悍な顔つきに、短く刈り上げた髪型のその男は。中肉中背の筋肉質な肉体と、その肩口程度の長さの杖を以て──蛇の軍勢を屠っていく。


 


「──入鹿来禅! よくぞ来た! 貴様と斬り合うが為、ここまで来たのだ!」


 


 配下が次々と死に行く様を──肉斬り包丁もまた、笑みと共に受け入れた。


 さながら昂奮した猛牛の如く、蛇の将は肉斬り包丁を振り降ろしながら鉄杖の将へ突進する。


 


「活きの良い豚が来たの。よいよい、相手をしてやろう」


 


 鉄杖の男もその意気に応じ。くるり体幹を回し。左足を起点に踏み込み、飛び込んでいく。


 暴風の如き肉斬り包丁と空気を裂くような鉄杖の突きが互いに交差し──鋭い金属音が寒空の下響く。


 互いの肉体と得物が交差し、両者が互いに背中を向け合う最中。


 


「....おぉぉぉぉぉぉぉぉおおお‼」


 


 その身に致命の一撃を受けたるは──肉斬り包丁の男であった。


 心臓部の鱗は剥がれ落ちるように砕かれ。そこから捩じり込まれたような穿孔が──心臓ごと身体を貫いていた。


 鉄杖の男もまた。左肩から胸部にかけ斬撃を受け、一瞬だけ血飛沫が舞う。


 互いの得物は、確かにその切っ先を相手に届かせた。


 しかし。――鉄杖の将は、心臓へ放たれた斬撃の軌道を一瞬の間に変える事に成功し、深手を負ったものの致命傷は避けられた。


 膝をつき、得物を落としたのは──蛇の将であった。


 降り注ぐ氷雪の最中。致命の一撃に倒れ伏さんとする蛇の将の身体は白色に染まっていく。――雌雄は決したと、そう鉄杖の将は思った。


 


 されど。


 心臓が潰されども――未だその目に闘志の炎は消えず。


 


「まだ....まだ終わりではないぞ、入鹿来禅!」


 


 男は潰れた胸を己が左手にて抑えると、吠える。


 瞬間。男の頭上に、一つの紋章が浮かび上がる。それは一匹の大蛇の紋章。


 牙を剥いたその紋章は、刻み込まれた空間の上を蠢く。


 ──大蛇の牙が、己が尾を噛む。


 浮かび上がった紋章がそう変化すると共に。男の肉体の周辺空間がひび割れ、砕ける。


 砕けた空間の中。変わらぬ景色がある。寒空の下に膝をつく、巨躯の男。


 されど──その心臓に刻み込まれた穿孔は、その姿を消していた。


 


 蛇の将は、笑う。


 時を戻した己が肉体にて――再度、得物を握り込みながら。


 


「不死。回生。回帰。──魔王様が生み出した蛇の紋章を極めし者は、死の運命すらも覆す.....! まだまだ、俺は終わらぬ!蛇は、死なぬ!」


「成程の。便利な紋章だ。──とはいえ。死をも覆す秘奥だ。これほどの魔道、単独で二度は使えぬだろう? ならばもう一度殺してしまえば終わりだ....!」


「ふ。侮るな。この藍坂牛太郎──二度も不覚は取らぬわァ!」


 


 紋章により覆された死を前にしても、鉄杖の男の笑みは崩れない。


 むしろ──想定外を前にして更に狂気が増していく。


 そうだ。これが、これこそが戦場だ。慮外を前にしてこそ、武士の血は滾り燃える。


 


 一度殺したにもかかわらず。こちらは深手を負い、あちらは仕切り直し。


 不利を背負った形であるが。──それでも負けるつもりはない。


 


 互いが再度得物を構え、決着をつけんと視線を交わした瞬間。


 蛇の将の背後にある何かを──対峙する鉄杖の男だけが見咎めていた。


 


 それは、空を飛ぶ鷹であった。


 雪に溶け込むような、白色の羽毛で覆われたそれは──鳴き声一つ上げず、空を飛び、旋回する。


 氷雪の魔道により、極限の冷気に囲まれた環境下。間違いなく野生の生物は避けるであろう戦場を、その鷹は飛んでいた。


 再度。互いに動き出した瞬間。白い鷹は蛇の将の背後へと降り落ちる。


 敵将を討ち取らんと駆けだした蛇の将の背後より飛び込んだその鷹は。──将の両目に、その爪を突き立てた。


 


「ぐおあかあああああああああああああぁぁぁぁぁ!」


 


 完全に意識の外。上空からの来襲に、蛇の将は混迷に叩き込まれる。


 爪は、あからさまな意思を持ってその両目抉っていた。どれだけ暴れ狂おうとも、その爪を放さじと。より深く、より鋭く。執念が滲み出た一撃。ぎちぎちと眼窩の奥底から、肉が抉れる音が響き、激痛が運び込まれる。


 将は──混迷の最中。その正体を思い知る。


 


「貴様....寵童風情が、調子に乗りおってぇぇぇぇぇぇぇええええ‼」


 


 敵の両目を潰された好機を前に、鉄杖の男は前進する。


 そして──踏み込んだ足を地面に捩じり込み。腰回転と共に突きこむ一撃。


 捩じりと共に放たれたそれは。鱗に覆われた顔面に止まる。


 過不足なし。突きこまれた一撃はぴたり、とこめかみに接地する。


 瞬間。炸薬が弾けるように頭蓋が砕け、抉られた両目から更なる血涙が吹き荒れる。


 


「がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 


 絶命の一撃に、末魔の叫び。──今度こそ、蛇の将はその身を雪原に落とし、その命を散らした。


 その口元からは血泡が吹き荒れ、割れた頭蓋から脳漿が漏れ出る。


 それら全て──氷雪の風に巻かれ、凍り付き。雪に埋もれ消えていった。


 その様を見届けた瞬間。──白い羽毛を纏った鷹もまた、雪に倒れ込んだ。


 倒れ込むと共に。淡い光が鷹を包み込みその姿を変えた。


 現れたのは、腰までかかる長い白髪を持った一人の少年であった。


 恐らく後天的に髪色が変わったのだろう。髪には所々斑点のように黒色が混じっている。少年は藍色の衣一枚を着込み、下履きを着ていなかった。


 一瞬少女かと見紛うほどに美しい顔立ちをしたその身体には──殴打の痕であろうか。所々赤や紫が混じっている。


 少年は力尽きたように地面へ倒れ込み、気を失っていた。


 


「.....」


 


 鉄杖の男は、無言のままその姿を見つめ。倒れ込んだ少年を拾い、担ぐ。


 


「やるな」


 


 あらゆる生命を絶命に追いやる冷気をものともせず、鷹となりこの戦場に降り立った少年に。男は確かな賞賛の言葉をかけた。先程まで身に纏わせていた狂気は、この瞬間だけ霧散していた。


 男は天に向け喉奥を絞り込む。


 


「──敵将、藍坂牛太郎討ち取ったり! もう敵将はいない! このまま残党を狩り尽くせェ‼」


 


 ──叡の国最北部、玲瓏。


 氷雪を尊び、冷気により所領を守護せしこの地は。遂に魔王が滅びるその日まで生き延びた。


 凍り付く大地と氷雪を操る兵共を、ついぞ魔王は滅ぼす事叶わず。彼等は──新しい時代に、生きる権利を得た。


 これは、ただその後の話。

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