動機

十三岡繁

動機

「博士は眼鏡はかけないんですか?絶対似合うと思うんだけどなー」

首を少し横にかしげて話す美波ちゃんは僕の研究助手だ。銀縁眼鏡がきらりと光る。


 理系女子と言っても髪がぼさぼさで、化粧っ気が全くないという典型的なあれでは無い。できるビジネスウーマンが白衣を着ている感じだ。


「僕には必要ないですね」


 美波ちゃんはなーんだという表情を浮かべ、くるっと振り返っててラボの方へと行ってしまった。



 『一体いつから僕はこの研究に人生をささげる事にしたんだろう』

 

 福岡は桜の季節であっても既に日が長い。就業規定時間の17:30になっても外はまだ明るかった。窓から見える五分咲の桜を見ながら、僕は昔を思い出していた。


 自分の目の異常に気が付いたのは中学一年生の秋だった。入学してしばらくの間は席が前の方だったこともあって、特に黒板の字が見辛いと言う事も無かった。文化祭の最後に全校生徒で歌を歌うのだが、そのとき前に掲げられた歌詞が読めなかった。字が小さすぎだろうと思ったが、まわりの友人には問題なく読めていた。


 それから程なくして、教室の席替えで後ろの方の席になると、僕は諦めて眼鏡をかける事にした。悪夢はそれから始まったのだ。


 それなりに受験勉強をしないと入れない学校だったので、クラスの生徒の三分の一近くは入学時から眼鏡をしていた。だからとりわけ僕が眼鏡をかけたからといって、目立つことは無い…はずだった。


 それまでかけたことのない眼鏡を装着する気恥ずかしさを、感受性豊かな年頃のクラスメイト達は敏感に感じ取ったのだろう。まもなく僕のあだ名は『メガネ』になっていた。あの何の工夫も無く、漫画では地味キャラにつけられる呼称だ。


 最悪なのは僕の行った中学校は大学に付属する中高一貫校だった事だ。このメガネというあだ名は大学生になってもつき纏った。高校の頃にコンタクトにもチャレンジしてみたのだが、その違和感にどうにも馴染めず結局またすぐに眼鏡に戻ってしまった。


 どれだけそのあだ名が嫌だったんだろうか。中高と激しく抵抗し、大学の研究室ではこの眼鏡という存在をどうにか人類の元から払拭できないか、そんな事をテーマに研究に取り組んでいた。そうしてそのまま今に至ってしまった。


 どれほどのモチ―ベーションだったのか?大学院卒業後も寝食を忘れて研究に打ち込んだ。そのかいあってか老眼が始まる頃には、微細な神経電流に反応して収縮する、膜状の筋肉を水晶体周囲に移植する事で、目のピント機能を自由に操作できる技術を確立した。意識せずにピントを自由に変化させるのには多少の訓練が必要であるが、この技術で近視だけでなく遠視も老眼も完全に治療する事が可能となった。


 眼鏡に関係する産業界からは悲鳴が上がった。このままでは市場自体が消え去ってしまう。そこで彼らは方向性を変えてきた。チョコレートが食べたくてバレンタインデーにチョコを買う人は少ない。眼鏡をかける事がファッション的にカッコいいというキャンペーンを始めたのだ。


 キャンペーンは成功して眼鏡は視力を矯正するものではなくなり、定番のファッションアイテムになってしまった。しまいにはイケメンで全く目の悪くないヤツまでもが伊達眼鏡をかける始末だ。全くもって許せない事態だ。


 どうせ眼鏡をかけるのであれば、お金を払って手術をする必要もないと言うような風潮も広がってしまった。しかしこの膜状の筋肉の技術は心臓の人工弁を始めとして様々な応用がなされた。今では多くの人の命を救っている。現在でも多くの応用技術が研究されていて、ここでは更なる製造コストの削減に取り組んでいる。


「博士!お茶が入りましたよ」美波ちゃんが銀縁の眼鏡越しにウィンクをして向こうで呼んでいる。


 僕の座右の銘は『人間万事塞翁が馬』だ。しかし今後意地でも眼鏡をかけることはないだろう。いや、世の中に絶対はないか…お茶を入れてくれた美波ちゃんの方を見て、そんな邪念が頭をよぎった。


<了>


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