白衣の辺境伯爵令嬢
藍月希帆
第1話 シェルム=ダナフォート
ダナフォート辺境伯爵家。
その名を知らない者はいない、アイルバイゼン王国建国当初からの貴族、通称『七貴族』の一家である。
北の大地とアオギリ山脈を有し、遊牧民ハイネの侵攻を抑えるために王国軍に次ぐ規模の軍隊を置くことが許されており、王国内では最大規模の領民を持つ。
それ故に、謀反を恐れた時の国王は七貴族の他六家が侯爵、公爵の爵位を与えられているにも関わらず、伯爵の爵位を与えた。
そして、辺境伯爵家ではそれ以降、妻子を王都に住まわせることで謀反を起こさない意思表明をすることが決まった。
(医者になりたい)
ダナフォート家の娘であるシェルムがそう思うようになったのは、突然のことではなかった。
辺境伯爵家は、有事の際にはいつでも戦えなくてはならない。だからこそ、辺境伯爵領では女でも剣や弓を持つし、子どもの頃から訓練を受ける。
体を動かすことは得意だし、剣も弓も腕前は時期辺境伯爵となる兄よりも優秀だった。
謀反を起こさない意思表明のためという家の決まりで、辺境伯爵領よりも王都での暮らしが長いシェルムだが、武術は亡き母にこれでもかというほど習得することを強要された。その他にも令嬢としての振る舞い、学問だって周りに恥じることが無いようにと詰め込まれてきた。
今思えば、亡き母は元々辺境伯領出身の貴族でもない、父の幼馴染という娘で、結婚をするのには相当の苦労をしたのだという。シェルムから見た母は、貴族の夫人だったように思う。それは、母が父の隣に立つために努力した姿そのものだったのだろう。
しかし、母が夫人となり、父の側を離れて王都で貴族の夫人達と社交をし、腹の探り合いをするのは母の精神に相当の負荷をかけていた。
ましてや、ダナフォート家は辺境伯爵領。その強大な力を喉から手が出るほど欲しがっている人達は少なくない。これまでにも何度も家を潰そうという悪意に晒された来たらしい。
負荷はやがて精神を壊し、母という人格を変えていった。
『少しの言動が敵をつくる。自分の行動は辺境伯爵家の行動であるということ。家のために何ができるのかを考えなさい』
これは常々、母に言われ続けてきたことだ。
父が側にいれば、まだ母も心を病むことはなかったのかもしれない。しかし、実際に会うことができるのは社交の時と、父が休暇をとった少しの時だけだ。
母は次第に人を恐れるようになり、娘であるシェルムすらも近づけなくなった。医者すらも何も対処できずに、衰弱して亡くなった。
ある意味ではそれが、一つの転機だったかもしれない。母の亡骸を前にして、幼い心に何もできなかったという記憶はずっと残り続けている。
辺境伯爵家という立場上、武芸は切っても切ることができないものだが、その分、傷ついた人を助けることに力を使いたい。
『家のためにできること』
それが、シェルムが考え出した答えだった。
母が亡くなって三年。
シェルムは十七歳。王立学校の最終学年を迎えていた。
「シェルムさん。これ、持っていってちょうだい」
学校に出かけようと王都の屋敷を出ようとしたとき、ミラ夫人がかごを持って外に出てきた。
ミラ夫人は、シェルムの母ヨルが亡くなってから父が迎えた人。シェルムにとっては二人目の母親という立場の人である。
前夫人と違い、ミラ夫人は貴族出身の人で、辺境伯爵家の決まりのため、今はシェルムと一緒に王都の屋敷に住んでいる。
前妻の子と後妻が一緒に暮らすことに、周囲の戸惑いや不安はあったらしいが、当人達は今や誰もが認める仲の良さである。というのも、母ヨルが亡くなり、傷心していたシェルムの心に誰よりも寄り添っていたのが側にいたミラだった。
互いにお母様と呼ぶこともなければ、シェルムを呼び捨てにすることもない。ある意味では、家族でありながら友人のようでもある。
「休憩するときにでも食べてちょうだい? 今日はいつもより美味しくできたのよ。あなたの大好きなマフィンも入っているわ」
「ありがとうございます!」
「あら……ちょっと顔色が悪くない? 昨日はちゃんと眠れたの?」
ミラさんは、人をよく観察している。そしてシェルムは、この人に嘘をつけない。
「昨日、ちょっと夢見が悪かったんです」
「あら……。もしかして、あの夢?」
「えぇ。でも、大丈夫ですよ! このとおり、元気ですから」
シェルムはぴょんぴょんと跳ねてみせる。
シェルムは、過去に記憶を失っている。
たった三日。母ヨルが亡くなって、辺境伯爵領に帰省していた三年前、十四歳の夏のたった三日だけ、シェルムは姿を消し、発見されたときには全身何かの血を浴びて、記憶を失った状態だった。
自分で戦っての返り血なのかなんなのか。シェルムが危険な場所にいたというのは誰にもわかることだった。
幸い、かすり傷や打撲はあれど、シェルムは大きな怪我をしている様子ではなかった。だが、心に負った傷は大きかったのかその事件以来、夢見が悪いことが多い。
「遅くまで勉強してたんじゃない? あなたが頑張ることは応援するけど無理はしちゃ駄目よ? 苦しくなったらすぐに医務室に行って休ませてもらうこと。わかった?」
「はい、ミラさん」
その事件の後、ミラさんは記憶が無くなったことで混乱したシェルムをずっと支えてくれた。
『母と呼ばなくていい』
そう言ったミラ夫人だが、心の中ではもうとっくにシェルムの二人目の母に違いはない。
馬車が走り出して、シェルムは学校へと向かう。学校生活の終わりまであと半年。一応成績優秀者のため、すでに王立病院での研修医として修行中の身の上だが、週に何度かは学校での授業の時間がある。
「お嬢様、帰りのお迎えはいかがなさいますか」
学校に着くと御者のセルが尋ねる。
「帰りは薬房に寄りたいから自分で帰るわ。ありがとう、セル」
「わかりました。それじゃあ、わしはここで」
からからと馬車が遠ざかっていく。
シェルムはそれを見送って学校に入っていった。
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