第20話 橋が似合う人
カプセルホテルに泊まった翌朝、身支度を終えてすぐに宿を出発した。目指すは鹿児島港。そこから、フェリーで錦江湾を渡り桜島へ行くのだ。
初めて泊まったカプセルホテルだったが何のことはない、文字通りのうなぎの寝床を借りることができる、というだけだった。昨晩、斉賀は大浴場に入ったが、持留はシャワーだけで済ませていた。
車を走らせながら、まだ頭が目覚めていなかった。
「眠い」
「お腹空いた」
持留も同じ状態のようで、二人して文句を言いながら欠伸を噛み殺した。
朝ご飯はまだ食べていない。フェリーの中でうどんを食べることができるそうで、それを朝食にするのだ。
昨日水族館からこちらに向かってきた道を折り返して戻り、船着き場に着いた。海に浮かんで波に揺れるフェリーを見上げながら、海岸沿いに進み、誘導員に従って船へと車を乗り入れた。車から降りて、船上に立つと揺れをかすかに感じて、海の上だと改めて実感する。
「早くうどん食べにいこう。あっという間に桜島着いちゃうから」
持留の背中について、幅の狭い鉄骨の階段を登り、客席に入る。海も見たいがまずは腹ごしらえだ。
船内には出汁のいい匂いが漂っていて、空腹を刺激される。赤い暖簾がかかっている入口からうどん屋を覗き、割烹着のおばあちゃんにかけうどんを注文した。すぐに出来上がったそれを代金と交換で受け取り、外の景色が見える座席に座った。
合掌して食べ始めると、出港のアナウンスがかかった。モーター音が響き、うどんの湯気の向こうに海原が流れていく。昨日、サービスエリアで食べたものとは味付けが違った。空っぽの胃に染み入るように美味しい。
「高速のうどんも美味しかったけど、船のうどんも美味しい」
「非日常の場所でいつもの食べ物食べると美味いのかもな」
しみじみ話しながら、景色とうどんを味わった。
食べ終えて、空になった皿を返しに再度暖簾をくぐった。おばあちゃんに渡すと、親しげに話しかけられた。優しそうに目尻が下がる。
「お兄ちゃんたちよかにせじゃがあ」
「ふふ、ありがとうございます。うどん美味しかったです」
何を言っているのか聞き取れないまま、彼に倣って頭を下げた。答えた持留の言葉に、語尾が上がって伸びるような訛りがある。
うどん屋のすぐそばの扉から甲板へ向かう通路に出た。潮風を受けて、先に進む持留のポロシャツがはためいていた。
上階のオープンデッキに向かいながら質問する。
「さっき、おばあちゃんなんて言ってたんだ」
「よかにせって。格好いいねってこと」
彼が振り向いて、いたずらっぽい顔をした。イントネーションは、いつも話す標準語。
「なるほど。よかにせ」
船の一番上まで登り切って、オープンデッキに辿り着いた。遮るものがない屋外だけれど、風が強く吹いて日の暑さを吹き飛ばしてくれる。エアコンが要らぬ程に涼しい。デッキの先端で白い手すりを掴んで立つと、近づいてくる桜島が真正面に見える。
「すげえ」
「風強い」
風にバタつく髪の毛と洋服を抑えながら、二人で笑顔になる。
着港のアナウンスがかかるまで、オープンデッキで景色を眺めていた。近づくほどに桜島は堂々と岩肌を見せた。
◆
フェリーを降りてから、海沿いの道を走り続けた。火山を望む展望所に途中寄りつつ、
斉賀は桜島と己水を繋ぐ橋梁、馬駆大橋を通ってみたかった。持留にそう話したところ、せっかくならばと橋の先にある道の駅まで足を伸ばすことを提案してくれた。
「この道の駅、足湯があって桜島を見ながら入れるんだよ。海沿い走っていけるからなかなか綺麗だし」
どこか得意気に紹介してくれる彼は、小さな頃、そこへよく遊びに行っていたらしい。懐かしそうに目を細めて、久しぶりに行けると言う声が何よりも嬉しそうで、斉賀までそこに行くのが楽しみになった。
道路の左右から伸びた木の枝がせり出している、緑豊かな道をひた走ると、馬駆大橋が見えてくる。渡る前に橋の手前にある駐車スペースに車を停めた。白地に青色の文字で橋の名が書かれた看板が立っている。
車を降りて、空の青と木々の緑をバックに白く輝くアーチ橋を眺める。事前に調べた橋の長さは四〇〇メートル近い。構造上、橋の途中を支える橋脚はない。海の上にこんなに大きなものが浮かぶみたいに架かっているのだと考えると、わくわくしてくる。
「歩いて渡ってみてもいいか」
「うん」
海抜が高く道路の下方に海があり、海面にはたくさんの漁船が浮かんでいた。橋に差し掛かり空を仰ぐと、アーチ部分を見上げることができる。橋の左右に一つずつついているアーチは、お互いに寄り添うように中央へ傾いており、それを結ぶように幾本もの繋ぎがあった。白色も相まってなんだか巨大な生き物の骨格の下にいるような錯覚を覚える。
持留と二人で橋を歩く。アーチを支える吊り材の足元を眺める。時折、橋の影に入って持留の横顔が翳った。風が吹くと少しはましになったが、やはり日差しが暑い。アーチ橋はそのまま高架橋に接続していた。端まで行き着いて折り返し戻ると、アーチ越しに桜島が見えていた。
「暑い中、こんなこと付き合わせてごめんな」
「楽しいよ。ここで降りるなんて、僕一人なら絶対しないから。漁港がこんなに風情あるなんて知らなかった」
持留の視線の先に漁船の群れがある。白いアーチと彼、その後ろの海を見ると、こんなことに嫌な顔をせずに付き合ってくれる友だちがいることに感謝の念が湧いてくる。
「ありがとう」
「えー、何々そんな。運転してくれてこっちこそありがとう」
しかし、と言って持留が太陽の方向を見た。
「今更だけど、こんな暑い時に足湯入っても気持ちよくないよなあ。道の駅、行かなくてもいいか」
「え、いや。行こう」
「足湯くらいしかないけど行く? なんか僕の自己満足みたいなところに行くの申し訳なくなってきて」
「そんなん言うなら、今歩いてるの俺のわがまま以外のなんでもないだろ。裕の思い出の場所なら、それだけで見たい、俺は」
彼は頷く。どこかうかない表情だった。あんなに楽しみにしていたのに、何故急に。不可解で眉間にしわを寄せてしまう。持留に遠慮されるのは嫌だった。
「俺は……、裕が行きたいところに行ってほしいと思ってるから」
心のどこかで、また性懲りもなくと自分自身に思いながら、僅かな苛立ちをもって続きを言葉にする。
「実家でも、昔行きつけだったところでも、車飛ばすから我慢せずに行きたいところを教えてほしい。家、行かなくていいのか」
橋の上、二人で立ち止まった。ちょうど持留の顔にアーチの陰がかかる。
彼はきれいに笑ってみせた。瞳ばかりが光る。
「いいんだ。もう父も母も住んでないから」
笑顔に気圧されて、斉賀はまともに言葉を継げなかった。そうか、とただ相槌を打って二人で車に戻った。持留は怒っているようにも見えたし、悲しんでいるようにも思えた。
道の駅へ車を走らせる。持留は窓の外の景色に感想を述べたり、音楽をかけたり、何でもないかのように振る舞った。斉賀も合わせようとしたが、うまくできているか自信はなかった。持留はいつだって遠慮がちで、したいことを我慢しているように見えた。今回はどうなのか、本当は実家に行きたいと思っているのではないのか、それを抑えているのではないかと考えを巡らせた。
海沿いの大自然を眺めながら、斉賀と持留はそれぞれ思い悩む。
道の駅に着くと、確かに長い足湯があった。しかし、日除けのない足湯は直射日光に燦々と照らされており、観光客はたくさんいるわりに、誰も浸かっていない。斉賀はチャレンジしようとしたが、持留に熱中症になるからと止められた。
道の駅に併設されたレストランで海鮮丼を食べた。ここからも桜島が見えて、夜空の月のように常に火山がついてきているようだった。
「え、美味い。鹿児島なんでも美味いな」
一口食べて、感動を漏らすと持留はまるで自分のことを褒められたかのように、照れて笑った。
「よかったー。ご飯美味しいよね」
「うん。良いところだな」
「褒めてくれてありがとう」
食べ終えてから物産店に入り、名物だという鶏飯を両親への土産に選ぶ。
「鶏飯、給食で出たでしょ? 」
「え、いや出たことない」
「そうなの? 鹿児島限定なのか」
「多分……。なんか他におすすめの食べ物とかあるか」
「うーん、だっきしょの塩ゆでが美味しいんだけど……。今の時期売ってるかな」
「だっきしょ? 」
「あ、ごめん。落花生のこと」
「……落花生ってなんだ」
「え、落花生は標準語なんだけど。えっとピーナッツと同じ豆なんだけど、殻つきでひょうたんみたいなやつ。あ、あった」
掘りたてとマジックで直書きされた段ボールに、持留の言う通りの豆が詰め込まれた袋が積まれている。ひとつ手に取る。
「これどうやって食べるんだ」
「んーと、洗って殻ごと塩と茹でるだけ」
「本当に全く自炊しないんだけど俺でもできるか」
「できるよ! 絶対大丈夫だよ。あ、鍋はあるよね? 」
「使ったことないけど、ばあちゃんが使ってたのがそのままある」
「そんならおばあちゃんのお鍋で煮たらいいよ。僕、自分用に一袋買う」
「じゃあ俺も買う」
「ほくほくで柔らかくて、すっごく美味しいんだよ」
会計をしてから、車に戻った。持留は落花生を大事そうに膝に抱えて、助手席に乗り込んだ。
「それ、持ったままでいいのか? 後ろの荷物に入れる? 」
「え、あ、そうか。入れたい。ちょっと待ってね」
後部座席に乗せたリュックに詰め込み、身軽になって助手席に戻ってくる。
「落花生好きなんだな。鹿児島県民はみんな好きなのか」
「どうかなー。おばあちゃんが畑で落花生作ってたから、ずっとおやつで食べてたけど。おばあちゃんいなかったら食べてたかなあ」
持留の祖母が既に鬼籍に入っていることは以前教えてもらい、斉賀も知っていた。
「へー、畑やってるっておばあちゃんすごい人だったんだな」
「鹿児島の人、というか大隅半島の方しか僕はよく知らないけど。土地広いからか畑持ってる人多い気がする。落花生、育てやすいんだって」
饒舌な持留は可愛い。
「裕の実家ってどこらへんなんだ」
持留が故郷の名を口にする。地図を見ると、ここから海沿いを走ってわりと近い。斉賀は、アーチ橋でもした質問を繰り返そうとして、留まった。流石にしつこいし、無礼だった。だから、
「じゃあ、次は。フェリー乗って鹿児島市に戻る、で本当にいいんだよな」
とだけ聞いた。
「うん、大丈夫」
頷く彼には、特別表情は浮かんでおらず、微笑みが失せてしまった。迷いつつ、斉賀は来た道を戻る方向にハンドルを切った。遠ざかる道の駅を持留が振り返る。
◆
馬駆大橋を渡って戻って、フェリー乗り場に到着する。距離は変わらないのに帰路の方が早く着くように感じるのはなぜだろうか。
フェリーの乗車賃を支払い、行きと同じ手順で船内に乗り込む。日差しを浴びたからか、睡眠不足なのか体が疲れていて、今度の船旅は車から降りずに休息をとった。
「運転、ありがとうね。コーヒーでも買ってこようか」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
気だるさから車内に沈黙が降りる。二人ともぼんやりしている故の静けさで、気にならなかった。気が向いた時に、ぽつぽつと話をした。
最後に、観光名所になっている大名庭園を訪れ、その後福岡に帰るという予定になっていた。
「落花生食べるの楽しみだな。ばあちゃんの鍋大量にあるからどれ使おう」
「おばあちゃんの鍋で作ったら、なんかすごい美味しくなりそう」
「確かに。作る時呼ぶから、俺の家来て一緒に食べないか。裕がいてくれた方が安心だし」
「お招きありがとう。一人でもちゃんと作れると思うけど……。永一郎の家ってどんな感じなの」
「普通の一軒家。わりと新しくて、いかにもおばあちゃん家って感じではない」
「そうなのか。おばあちゃん、たくさん遺してくれてありがたいね」
「裕の実家はどんなだ」
「うちはほんとに古くて、五右衛門風呂だった」
衝撃の響きに目が冴える。
「え、五右衛門風呂!? まじか。名前しか聞いたことない。薪でお湯沸かしてたのか」
「そうそう。あ、でもちょっと改築して、その後はソーラーパネルで給湯して、薪で追い焚きするみたいな感じだった」
「え、すげえ。入ってみたい。大学出たら、戻って実家住んだりしないのか? 」
「あ……えっと」
前のめりに聞くと、彼は口を噤んだ。そして、目をそらして窓の外に視線を向ける。決して見晴らしはよくない、ごちゃごちゃした船の内側が見える。
返事を待つ間、彼の後ろ髪をただ眺めていた。どうしたのだろうか、心配だった。ややしばらくして、持留はこちらを振り向いた。
「僕、福岡で就職するし。うち、取り壊しになっちゃうんだ」
何でもないことのように言う。そう出来るように堪えている。斉賀には分かった。
「え、いつ」
「多分今週末とかかな」
「……なんで言わないんだ」
車内に、沈黙が降りる。船が動く音がやけに響く。着港のアナウンスがかかる。周りの車に人が戻り始める。
「ごめん、言わなきゃよかった。せっかく楽しかったのに暗くなるな」
「いや……。今、鹿児島に戻ってこれてるのは何かの縁だろ。向こうに戻ろう」
自分でも驚くような暗い声が出た。
「いい。本当にいい」
持留が何度も頭を振った。
「でも」
「僕、早く次のとこ行きたい」
彼の気持ちが揺れている。拗ねたような顔をして、口をへの字に曲げている。持留は穏やかで、笑っていることが多い人だった。初めて見る彼の姿に、どうするか斉賀は悩む。これ以上言ったら、もっと意固地になってしまう。
「分かったよ」
引く姿勢を見せても、持留はいじけた顔のままだった。出入り口が開き、車が順番に降りていく。係員が車輪止めを外してくれる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます