第14話 キュビズムと習う
幸一郎は、璃々子の存在が分かってから妻の青那と籍を入れた。所謂デキ婚だった。
当時、彼は大学二年生で斉賀は高校一年生。新型コロナウイルスが流行しだした頃だった。不機嫌そうな顔で、女性を妊娠させてしまった、と家族に打ち明けてきた。
次兄はとにかく異性にモテた。小学生の頃は弟経由でラブレターを渡そうと、高学年のお姉さんから次兄宛の可愛らしい手紙を何度か受け取った。意味はよく分からないまま、毎度そのお使いを果たしていた。斉賀からすると性格が悪そうに見えるタレ目が、女性には色っぽく映るらしい。
次兄は実際、性格も本当に悪かった。物心ついた頃から彼に顎で使われ、言うことを聞かないと寝技をかけられていた斉賀が保証する。
次兄を象徴する最悪な思い出が一つあった。
小学六年生の夏休み、中学受験のために通っていた塾から帰宅した斉賀は、玄関に誰の靴もないのを見て、家にいるのは自分だけだと思った。手を洗って、冷蔵庫から出した麦茶をコップに注ぎ、広いキッチンで一人、飲む。その時にふと異変に気づいた。誰もいなかったはずなのに、冷房がついている。ただの消し忘れかな、と首を傾げた時、上の階から物が落ちるような音が聞こえた。二階には兄たちの子ども部屋があった。どろぼう、強盗、殺人犯といった言葉が浮かび、シャツの裾を強く握って固まった。斉賀は今よりも怖がりだった。
幼い自分には警察を呼ぶという決心はつかない。父は単身赴任で遠くにいるし、母は仕事中、高校三年生の長兄は学校に夏補習を受けに行っている。次兄は何をしているのか知らないが外出している。
ただ物が落ちただけかもしれない、とにかく確認しにいかないと。そう考え、箒を武器に選んで手に持ち、階段を音を立てずに上がった。二階の廊下に踏み入ると、何かがいることがすぐに分かった。次兄の部屋から家具が軋む音がする。ある程度の分別がついた今、本当になんであの扉を開けたんだろうと頭を抱えるが、小学生の斉賀には何も察することができず、不安な気持ちを抑えきれずに、音の正体を扉を開けて確かめた。
そこにはピカソの絵のような光景が広がっていた。ちょうどその数日前、テレビでその画家の特集を見たのだ。アヴィニョンの娘たち。斉賀はなんでこの絵の人たちは裸なのかと拙い疑問を持ち、なんだか不安になる絵だと思った。
ベッドの上に幸一郎と女の人が二人、裸になって絡み合っていた。四つの乳房が兄の体に押し付けられ歪んでいるのが空恐ろしかった。扉を開けた斉賀を、表情を無くした三人が見つめている。入ってはいけなかった、と思ったが咄嗟に動けなかった。
「見るな」
次兄はベッド脇にあった目覚まし時計を斉賀に向かって投げつけた。時計の足が頭に当たり、鋭い痛みが走った。痛む場所を手で押さえて床にうずくまった。兄はそんな斉賀そっちのけで、女二人に帰るように促していた。生ぬるいものが手に広がり、視界が赤く染まる。血が流れている事に気づき、こんなにたくさん流れて自分は死んでしまうんじゃないかと恐ろしくなった。
女性らが帰った後、兄はようやく斉賀のもとに来て、廊下に血が流れていることに気づく。慌てた兄の声を聞いたあとからの記憶は途切れ途切れだが、緊急搬送されて四針縫った、と全て終わった後、母に言われた。
玄関に靴がなかったのは、万一誰か家族が帰ってきても、こっそり帰れるようにという次兄の浅知恵だった。この事件の後、三年は兄弟関係がぎくしゃくした。今も仲は良くないが。
怪我をした時に何があったのか、と聞かれても兄が女性二人と裸で遊んでいた、なんて恥ずかしくてとても大人たちに言えなかった。急に目覚まし時計を投げつけられた、とだけ話していたが、長兄には事実をこっそり言った。
六歳年上の長兄は、斉賀の頭を、傷跡を避けて優しく撫でた。
「嫌な目にあったな。今度から家で一人で困ったことがあったらお兄ちゃんに電話してこい」
「うん……幸兄はなんで女の人二人も家に呼んだんだろう」
本人にはとてもではないが聞けなかった。知識として、カップルは性行為をするということは知っていたが、なぜ二人と、と理解に苦しんだ。
「そういうのは結婚したいくらい大切な人とじゃないとダメって、健兄言ってたじゃん。あいつ、何やってんのか意味分からない」
「幸は女好きで女たらしだからなあ。一人だけじゃ我慢できなかったんじゃない」
「何それ」
「俺はちょびっとだけ幸の気持ちが理解できる。まあそれでも実際すんのは本当に馬鹿だけど……。永はまだ分かんなくて当然だよ」
ということはいつか分かるのかと思っていたが、大学生になった今も分からない。兄のような性欲はなかった。性行為や女性の裸について見聞きすると、内容によってはあの事件が思い出されて、性欲どころでないのだ。
その事件の後も懲りずに女性を家に連れ込んでいたようだが、二度と次兄の部屋の扉を一人で開けないと誓っていたから相手の顔を確認することはなかった。
だから、青那が両親に挨拶に来た時、次兄に関わる女の人をちゃんと見たのは久しぶりだと気づいた。幸一郎の三つ年上、アパレルショップの店員として働いているということを青那本人の口から聞いた。初めて会った時、まだお腹は大きくなかった。
青那と次兄、父と母で話し合って、一悶着あったようだが、結局、コロナウイルス感染症の第二波が終わりかけている頃、璃々子は無事に生まれてきた。ついでに、次兄も卒業するまでちゃんと大学に通えた。
青那はあまり夫の実家に来ない。本当に忙しいのか足が向かないのか斉賀には分からなかった。
次兄が一人で孫の顔を見せに来るのが常だった。
◆◆◆
クリスマスパーティのためのチキンとケーキの買い出しを母に頼まれた。璃々子が一緒に行きたいと言うが、斉賀の車にはチャイルドシートがない。次兄の車であれば連れていけるのだが、彼は面倒くさがって出たがらなかったので、結局斉賀一人で外に出た。昨年も買ったから要領は分かっている。チキンが来るのを店内で待ちながら、持留は何をしているだろうかと考えていた。山口は河田とデートをすると言っていた。たまたま会った野々垣は女子会をすると話していた。
持留とはクリスマスの話をしなかった。気になったけれど聞けなかった。
バケツのような形をしたチキンの箱を受け取り、帰路につく。ケーキは先に受け取っていた。砂糖でできたサンタさんが乗っているホールケーキ。崩れないようにゆっくりの速度で運転した。
帰り着くと、父が到着していた。璃々子を膝に乗せてデレデレしている姿は、我が父ながら好々爺然としていた。次兄は寝転んでスマートフォンをいじっている。
「おお、永。元気そうだなあ」
「元気だよ。今年も風邪ひとつ引いてない。父さんも元気そうだな」
こたつの上にチキンを置くと、璃々子が天板にかじりつくみたいにして見つめた。そろそろ夕飯時だ。
「いいによい。えーくん、これなーに」
璃々子は斉賀のことを永くん、と呼ぶ。前回会った時のことを思い出してきたらしく、やっと呼んでくれた。
「これはチキンだよ。クリスマスのご馳走」
「ごちそーってなに? 」
質問を返されて、咄嗟に答えられず黙った。
「今、璃々子、なになに期なんだよ。めっちゃ質問してくるからお喋りする時気をつけろ」
次兄が面白そうに言った。気をつけろと言われても、と思いつつ璃々子に返事を返した。
「ご馳走は特別のご飯ってことだ」
「そうなの」
「りりちゃん、お腹空いた? 」
「うん! ごちそー食べゆ」
舌足らずな喋り方が可愛らしい。ケーキを冷蔵庫に入れにいくついでにキッチンを覗くと、母の作るグラタンも完成しているようだった。
「もう食べようか。皿とか運ぶけど、どれ持ってったらいい? 」
「ああ、じゃあね。平皿と深皿それぞれ三つ運んでくれる? あ、あとコップとジュース持ってって」
「分かった」
「永は今日泊まってく? 美味しい赤ワイン買ってきたからよかったら飲めば」
「まじか。泊まる。飲んでみたい」
食器棚から皿を取り出して運んだ。璃々子が自分の皿がないとぐずぐず言い出すので、慌ててキッチンを探して、プラスチック製の皿とカトラリーを持っていく。
「りりちゃん、りんごジュースでいいか」
「いいー! 」
「永、俺もりんごジュースがいい」
「お前は自分で注げ」
兄は泊まらず、食事が終わったら家に帰るとのことだった。明日は家族水入らずで、テーマパークに行く予定が入っていると話していた。
「お父さん、赤ワインでいいよね? 」
母が高そうなボトルを持ってきて、ワイングラス三つと一緒に置く。
「おお、ついに開けるのか。楽しみだな」
両親ともに酒豪で、二人で晩酌する姿をよく見ていた。兄二人はそこまでではないようだが、斉賀は親の影響で酒が好きになった。
こたつの天板にすべての皿が並び、食事を始めた。ダイニングテーブルもあるのだが、子ども用の椅子は用意がなく、璃々子と一緒に食事をする時は、いつもこたつで食べた。璃々子のために、次兄はチキンの中から柔らかい部位を探し、ナプキンに包んでその手に持たせた。
「璃々子、骨あるからな。気をつけて食べるんだぞ」
「なんで骨あるのー」
「なんでって……、元はニワトリだからだよ」
「ニワトリってなに」
「うーん、食べるための鶏さん」
「そっかー」
一口かじっただけでほっぺたまで油がついてしまっていた。
「あーあー」
次兄がタオルで璃々子の口を拭く。その仕草を見ていると、こいつまじで父親なんだなと今更のように思った。
「なになに期大変すぎる」
次兄はため息を吐いて言った。
「あんたたち三人もずーっと、なんでとか、どういう意味とか言ってて大変だった。幸は祝日って何、何であるのって聞いてきて」
「覚えてねー」
「永はフローリングの板はなんでこういう組み方なの、とかな。父さん一生懸命調べた」
和やかな時間が過ぎる。ワインも美味しい。
しばらくして食事に飽きたようで、璃々子は座布団から立ち上がった。あちこち触る前に、と次兄が油で光る手をおしぼりで拭った。
「お腹いっぱいになった? 」
父が聞くと、璃々子はその膝に手をついて、にこにこ頷く。ごきげんだ。
「お腹いっぱいでよかったねえ」
「りりちゃんは何の食べ物が一番好きなの? 」
「んーと、ウインナー」
「そうなの。用意しとけばよかったねえ」
「ばあばは、何が好き? 」
「ばあばはみたらし団子が好き」
「みたらし団子ってなに」
母が困ったようにみたらし団子の説明をするのが面白かった。その後、璃々子は皆に質問をし続けた。それが楽しいらしかった。
「好きな動物なーに」
斉賀と母は犬と答えた。次兄は猫。父はうさぎ。璃々子は一人ひとりに対して律儀に
「なんで? 」
と理由まで問うた。
「りりちゃんコミュニケーション力すごいな、将来有望だな」
斉賀は心の底から感心して褒め称えた。大学生の自分よりすごい。次兄は大げさだと言いつつ、少し嬉しそうだった。
「うーんなんでって言われるとねぇ。可愛いからかな」
大人の答えに納得しているのかしてないのか、璃々子はふーんとかへえとか答えて、次の質問に移っていく。
好きな食べ物、もつ鍋。ビールに合うから。好きなジュース、ラムネ。ビンで飲むと美味しいし、甘さが爽やかだから。好きなお菓子、煎餅。塩っぱくて香ばしいから。好きな色、黒色。かっこいいし、どんな色にも合うから。好きな天気、曇。出かける時のデメリットが小さいから。
璃々子の質問に答えると、プロフィールが出来上がっていく。そういえば両親の好きなものって詳しく知らないなと気づく。
食事を終えて、ケーキを出した。璃々子の取り分にサンタさんを乗せた。デザートはあまり興味がないのか、砂糖のサンタをかじろうとして歯が立たず首を傾げて、また質問を始めた。
「えーくん、好きなお花なーに」
「金木犀」
花と言われて、持留に教えてもらった木が浮かんだ。甘い匂いを思い出す。
「なーに、それ」
「秋に咲く花。すごくいい匂いがするんだ」
「永の口から花の名前出るとおもろいな、なんか」
次兄が言った。確かに花の話などしたことはないが、それは三兄弟とも同じだ。お前も面白くなるだろ、と考えつつ黙っていた。幸一郎には何かと反抗したくなる。
「なんで好きなの」
「なんで……。思い出の花だから? 」
自分でもこの答えで合っているのか分からないまま、半信半疑で答えた。
「思い出、って何かあるの? 」
母が興味深そうに聞いてくる。
「いや、大学の友だちに金木犀の花見せてもらって、それで」
「あら、永から友だちの話聞くの珍しい。よかった。大学楽しそうだね」
確かに友だちの話をしたのはいつ以来か、思い出そうとしても記憶がない。夏に長崎旅行に行く報告はしたが、ろくに詳細は伝えなかった。安心したような母を見て、心配をかけてるのを知った。
「同じ学科の子? どんな子なの? 」
「いや、文学部。優しくて、俺の話をよく聞いてくれる」
斉賀はそう言いながらとびきり優しそうな、幸せそうな顔をしたが、本人は気付かない。家族の誰も、末っ子のそんな顔を見たことはなく、目を見張った。璃々子はそんなことお構いなしに、祖父の袖を引いた。
「ねえねえ、じいじの好きなお花は」
「あ、えっとね、じいじは……ニラの花」
「あら」
母が含み笑いをした。
「にら? 」
「ニラ、って野菜の? 花咲くのか」
親子でハモって、幸一郎と璃々子が聞いた。
「白くて可愛い花が咲くの」
「そう、昔。お父さんがお母さんと付き合い始めた頃に、道端に咲いてた白い花を見てお母さんに似合いそうって言ったら、それがニラの花でさ」
「懐かしい。私はニラって知ってたから、色々意味を勘ぐっちゃった。ニラの花って教えたらお父さん、びっくりしちゃって」
「へー、思い出の花なんだな。そんなことあったの知らなかった」
「恋人が教えてくれた花ってずっと記憶に残るんだよ」
父と母が顔を見合わせて微笑む。
「にらってなーに」
「ニラはちょうど冷蔵庫にある。見せたげる」 「見たい」
母と璃々子は一緒にキッチンへ歩いていった。その隙に次兄がスマートフォンを確認する。
「そろそろ帰らないとなあ」
「ああ、もうこんな時間か。りりちゃんにプレゼントあるんだ」
父がそう言って立ち上がり、プレゼントを取りにリビングを出ていった。すぐに戻ってきて、床に璃々子の背丈ほどある、クリスマスカラーにラッピングされた大きな箱を床に置いた。
「まじ? 悪いな、いっつも」
「いーや、来てくれるだけで嬉しいから」
璃々子がニラを持ってキッチンから戻ってきた。そして、箱を見てぴたりと固まる。
「これなーに」
「これね、りりちゃんへのクリスマスプレゼント」
「えー! りりこのなの」
ペタペタ走ってきてプレゼントの前に座り込んだ。ニラを投げ捨てそうな予感がしたので、斉賀はそっとそれを取り上げた。
「璃々子、お礼は」
「ありがとう! 」
「いいのいいの。開けてみて」
自分と同じ大きさの箱に対して、どこから手を付ければいいのか右往左往している璃々子を、次兄は手伝う。リボンを解いて、包装紙を丁寧に剥いで、後は蓋を開けるだけという段になって璃々子に譲った。璃々子がきらきらの目で蓋を取り、中身を覗いた。
歓声があがる。次兄が中から取り出したのは、大きな猫のぬいぐるみだった。
「おお、かわいいじゃん。璃々子、猫ちゃんだぞ」
猫で包むみたいにして璃々子を抱きしめる。夢みたいに可愛い光景だった。
璃々子はひとしきり喜んだ後、猫を抱え込んでうとうとしだす。
「はしゃいで疲れたんだな……。じゃあそろそろおいとまするわ。色々ありがとな」
次兄がそう言いながら、猫ごと娘を抱えて立ち上がった。
「また遊びにおいで。あ、そうだ。お米持って帰ってよ。こないだ近所の人にもらったの。あと青那ちゃんにもお土産があって」
「おー、ありがとう。永、車まで持ってきてくれ」
璃々子を抱えているから仕方ない、父母に運ばせるわけにもいかない、と素直に従う。米とチョコレートの箱を母から預かり、次兄の車まで運んだ。後部座席に積み込む。向かいでは兄が璃々子をチャイルドシートに乗せていた。本格的に眠り込んでいるようで猫を取り上げるのに苦労していた。
「なー永」
「何」
「さっきの金木犀教えてくれた友だちってさ、女? 」
「いや、男」
「なーんだ」
次兄は露骨につまらなそうな顔をした。取り上げた猫を小脇に抱え、チャイルドシートを固定するベルトをかちりとはめた。璃々子は穏やかな寝息をたてている。
「やっと永にも春が来たと思ったんだけどなあ」
「なんでもかんでもそっちに繋げるなよ」
「可愛い弟の恋愛相談とか乗りたいじゃん? だから気になるわけ」
「間違ってもお前には相談しない」
「残念だ」
ふふん、と小馬鹿にするように笑った兄は、猫を助手席に乗せてわざわざシートベルトをつけた。頭の自重でくてん、と肩を落として見えるのがなんだか可愛くて、持留に見せたくなる。
「猫、写真撮っていいか」
「は? 別にいいけど」
スマートフォンを取り出して、カメラを向ける。辺りは真っ暗だったが、兄がつけてくれた車のルームランプのお陰で問題なく写真を撮れた。
「なんかやっぱお前変わったな? 前と感性が違う」
「知らん。写真はありがとう」
兄はまだ話したそうだったが、時間を気にしているようで、両親と別れの挨拶を交わすとすぐに車に乗り込んだ。玄関先で車が去るのを見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます