第22話 純文学とは何か

 カクヨムの近況ノートで「「(純)文学」とは何」と誘われたので考える。

 純文学とは何かを考える時には、エンタテインメントとは何かを考えるといいような気がした。エンタテインメントの祖と言えば『大菩薩峠』だそうである。

 いま、ダンボール箱から僕の手元に『理由なき殺人の物語――『大菩薩峠』をめぐって』(高橋敏夫、廣済堂ライブラリー 004)を持ってきたので、引用したい。

 76頁に「エンタテインメントは「理由のある小説」」という節があり《エンタテインメントとは、読者をひとつの言葉や状況に無闇にたちどまらせないよう、巧みに仕組まれた小説なのである。》《この点において、いわゆる純文学――難解な言葉と、複雑なるこころと感情をもった人物と、さまざまな解釈の可能な状況と、みいだすのに苦労するストーリーと、用意周到な作品研究をつみかさねてなおうかびあがらせることのむずかしいテーマ等を所有する純文学とは、まったくあいいれない小説といってよい。》

 しかも、80頁の「要約をうけつけない物語として」という節では、《大衆文学の祖とみなされる『大菩薩峠』は、じつはその冒頭から大衆文学を裏切っていたのである。すぐれた大衆文学はみな大衆文学的なものを裏切る(こうした創造的な裏切りを特権的になしうる点が純文学とのちがい)――という意味では、『大菩薩峠』はたしかに大衆文学の祖といってよい。》とまで書かれている。

 僕はこれらを読むと、もう言い尽くされているのではないかという感じがしてくる。

 前者だけだと「いや、エンタテインメントにだって複雑なテーマを扱ったものがある」等の反論をする人がいそうである。

 しかし、後者があるので、「いや、一見同じように見えるがそれは違っていて、エンタテインメントの場合は分かりやすいその型を見せておいた上で、意識的に破ることができるのである」と見ることができる。

 さて、そうだとしたら、純文学なんて読んで面白いのだろうか。

 考えてみれば、哲学書、或いは哲学を扱った本を読んでいて、面白いと感じることがある。しかし、哲学書はエンタテインメントを目指して書かれてはいない。

 純文学も、エンタテインメントを目指して書かれてはいないが、人によっては面白いと感じるのである。

 また、僕はテレビの二時間ドラマを観ていても、「文学だなあ」と思うことがある。「弁護士高見沢響子」(主演で弁護士役:市原悦子、助手役:あめくみちこ)等でだ。ドラマ等の他の表現形式を観て、こういうことを言うのは、嫌う人もいるらしいが僕はそう思ってしまうことがある。

 こういう作品は、おそらく元々が純文学的発想で企図されていて、エンタテインメント風に仕上げられているのだと思う。

 純文学をエンタテインメント風にすることはできるが、逆のエンタテインメントを純文学にすることはできない気がする。


 ところで、きょうのお昼は日清 カップヌードル カレーでした。

   (「第22話 純文学とは何か」おわり)

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