梅雨

第10話

 ひまわり畑から私たちは長い時間をかけて、やっと家まで帰ってこれた。時刻は九時を過ぎている。


「じゃあ、またな」


「うん、ありがとう。またね」


「またね」そう口では言っているのに私の足は動かなかった。今日一日ずっと一緒にいたのに、まだ帰りたくないと思った。


そんな私と気持ちを察したのか、蒼空は私の方に歩み寄ってきた。すると、蒼空の手が私の頭に伸び、触れるとぎゅっと蒼空の体に抱き寄せられた。


「そんな顔されたら帰りたくなくなる」


「帰れなくなればいいのに」


私は冗談でもなく、本当にそう思った。蒼空は私をいつもガラスのように優しく触れる。最近まで恥ずかしがっていたそれも今ではもっとして欲しいなんて思うようになっていた。蒼空は大切そうに私を抱きしめる。


私も蒼空の背中に腕をまわして、答えるように力を込めた。しばらくお互いになにも言わないでいると蒼空が私の肩に顔を埋めて「ふー」と息を吐いた。


「これ以上はほんと帰れなくなるから」


そう必死に耐えるように蒼空は私を抱きしめる腕を緩めた。私が不満そうに顔を見つめると蒼空は困ったように笑った。


「またすぐに会えるだろ」


「...うん」


名残惜しく思いながら私も蒼空から手を離す。そんな私に蒼空はため息を吐いた。


「家まで送る」


 そう言って蒼空は手を握ってくれた。お互いに指を絡めながら蒼空に家まで送ってもらった。家から私は蒼空が見えなくなるまで見送る。途中、蒼空は振り返るとピースして笑った。


 そんな蒼空を見て笑いながら私は手を振る。


 私は今もまだ暖かい手を握りながら階段を上がっていく。今日は流石に疲れた。それにお腹も減った。家に何かあったかなと、冷蔵庫の中を思い出しながらドアに辿り着いた。


 あれ、電気がついてる。私はドアの前で足を止めた。電気がついているって、ことはお母さんが帰ってきているということだ。


 この時間はもう仕事のはずなのに。また、お客さんを連れてきたのだろうか。私は恐る恐るそっとドアを開け、中を覗いた。


 まず、玄関にそれらしい靴は見当たらない。私は静かにドアを閉め、家に入った。


 そして、私は目を見開いた。


 机の前に座っていたのはお母さんではない、お母さんだった。どういうわけか明るく染っていたクルクルの髪はストレートに髪色も黒色に変わってまるで別人だった。


 それに机の上にはお皿に盛り付けられた料理にラップがしてあった。お母さんは寝ているのか机の上でうつ伏せになっている。


 私は一度、家を出ようと腕を動かすと肘がドアに当たってしまい「ドンッ」と音がなった。


 その音でうつ伏せだったお母さんはばっと顔を上げ、私のことを見つめていた。


「美月、遅かったわね。おかえり」


 お母さんはいつもとは違う優しい声でそう言いながら、こちらに歩いてきた。


「ほら、上がりなさい」


 そう言って、お母さんが私に伸ばした。殴られると思った私は咄嗟に肩をビクッとさせて、目をつぶった。


 はっと、した私は目を開け、お母さんに視線を戻すとお母さんは傷ついたような顔をして自分の手を見つめた。


「ごめんなさい。私......」


 自分の手を握りながら泣き出したお母さんはその場にしゃがみ込んだ。


 今、お母さんは殴る気なんてなかったんだ、と理解した。


「お、お母さん」


 どうしたらいいのかわからなくなった私はとりあえず、お母さんと向き合う形で椅子に座った。


 気まずい空気に私は視線をチラつかせていると、


「私、あの人と離婚してから仕事が上手くいかなくて、それで美月にあたってた。でもわかってたの、美月が一番辛いんだって、わかってたはずなのに...」


 話し出したお母さんは自分の拳を握り、後悔するように顔を歪ませた。


「本当にごめんなさい」


 お母さんは机に頭が着く、くらい深々と頭を下げた。


「私、許してもらおうとなんて思ってないの。でもあなたがなにかあったときに安心して帰って来れる場所をくらいは作っておきたいの」


 お母さんは頭を下げたまま、そう言った。私が口を噤むとしばらく静かに時間がすぎた。


「私、知ってたよ。お母さんが仕事で大変なの。お母さんがいつも私のために頑張っていてくれていたのも。だからなにも謝ることなんてないよ」


 私はゆっくり言葉を選びながら真剣にそう言う。そして真っ直ぐにお母さんを見つめると顔をあげたお母さんの瞳からは再び涙が溢れていた。


「まだ......私をお母さんって呼んでくれるのね」


 泣きながら話していたお母さんは時々、言葉を止めながらそう言った。


「だって、お母さんはお母さんだから」


 私がにっこり笑うとお母さんも涙を拭い、微笑んだ。今までのことが消えるわけじゃない、だけど少しずつ変えていくことは出来る。


「ご飯作ったの。食べてくれる?」


「うん」


 お母さんはそう言って、机の上にあった料理をレンジで温め始めた。お母さん、ご飯作って、私が帰ってくるの待っててくれていたんだ。


 目の前に出されたのは昔、私が大好きだと言っていたハンバーグにコンスープにサラダの組み合わせだった。


「いただきます」


 私はそう言うと前にあった箸を手に持った。ハンバーグを小さく箸で切り、口に運ぶ。


「美味しい」


 そう言った私の目からは涙が溢れ出ていた。


「美味しい」


 そう何度も言いながら私は口にハンバーグをたくさん詰め込んだ。懐かしいお母さんの味。ご飯は暖かくて、優しい味がした。


 昔、お母さんと食べたあの味と一緒だった。


 泣きながら食べている私にお母さんも涙が出そうになったがお母さんはそれを抑えて笑った。


「おかわりあるからね」


「うん」と頷きながら私は夢中になってご飯をかきこんでいた。


 ご飯も食べ終わり落ち着くとお母さんが口を開いた。


「蒼空くんにお礼言わなくちゃな」


「えっ、蒼空がどうしたの?」


 突然お母さんから出た蒼空の名前に反応し、そう尋ねた。


「私ね、言われちゃったのよ。美月が向き合おうとしてるのに逃げるんですかって」


「お母さん、いつのまに蒼空と」


 私は初耳で机から身を乗り出す勢いでお母さんに言っていた。


「あー、そうね」


 お母さんは最初から話すわと言って、どう説明しようか頭の中で考えていた。


「最初は一週間くらい前だったかな。私がお客さんと家にいる時に蒼空くんが押しかけてきて、その日はすぐに追い返したんだけど」


 えっ、それってあの七夕祭りの日?そういえば樹くんに返し忘れた物があると言って、出て行った蒼空のことを思い出す。


「次の日、仕事に行ったら店長が店の前にずっと子供がいるって、私そのときに蒼空くんだって気がついたのよ」


 お母さんはその時のことを思い出しながら私に話した。


「話がしたいって言われてたんだけど、無視したの。そしたら蒼空くん一週間ずっとお店に来たのよ」


 お店の時間なんて夜も遅いのに、一週間も。


「流石にお店にも迷惑になると思って、話だけささっと聞こうとしたらね」


「蒼空くん、普段のあなたのこと話し出して、最近あなたが学校でどうなのか、何で笑ったのか。あと、」


「あと?」


「俺、あいつに聞いたんですよ。もし明日死ぬなら何したいって。そしたらあいつお母さんとご飯が食べたいって言ったんです。でもそれは俺には叶えてやれないからって」


 だからお母さん、ご飯作ってくれていたんだ。その会話はあの日、公園で会って蒼空に聞かれときの。


「そしたら今度は怒られちゃって、母親のあんたが逃げてどうするんだよって」


 お母さんは話し終わると「ふー」と息を吐いた。


「ごめん、お母さん。私、蒼空に会ってくる」


 そう言って立ち上がるとお母さんは一瞬、今から?という顔をしたがすぐに微笑んだ。


「行ってらっしゃい」


「うん、行ってきます」


 そう言って、私は携帯を片手に家を飛び出した。そして思った。今度は「ただいま」と言って、この家に帰ってこようと。


 ❋


「はぁ、はぁ」


 走って来たのはいいものの、こんな夜に迷惑なんじゃと今になって思った。


 さすがの蒼空も今日は疲れていたし、もう寝ているかもしれない。私がインターフォンを押すか押さないかでずっと蒼空の家の前を往復していた。


 そろそろ不審者に間違われてしまいそうだ。勇気をだしてインターフォンに指を伸ばす。


「お前こんなところで何やってるんだよ」


「ワァー!!」


 突然、話しかけられ止まりそうになる心臓を抑えながら振り返るとそこに居たのは蒼空だった。


「えっ、なんで蒼空。外に」


「コンビニの帰り。なんか無性に甘いもんが食べたくなって」


 そう言って蒼空は手に持っていたビニール袋を持ち上げた。


 私が蒼空に話したいことがあると伝えると、私たちは公園に場所を変えた。


「そっか」


 私がさっきまでの出来事を蒼空に説明するとなぜだか蒼空は嬉しそうにそう言った。


「なんで蒼空は私にここまでしてくれるの」


「なんでって」


 ここまでしてくれる蒼空になぜだろうと思った私はそのまま蒼空に聞いた。私の質問に「うーん」と悩んでいた蒼空は少しすると私の目を見つめた。


「お前には笑ってて欲しいから」


「えっ」


 蒼空の回答はいつも私の想像とは違うことを言ってくる。


「お前、まだ死にたいって思うか?」


「ううん。もう思わないよ」


 思うはずがない。こんなにも毎日が幸せなのに、死にたいなんてもったいなすぎる。


「お前、あのときとはすごい違いだな」


「蒼空が変えてくれたんだよ」


 あのときの私は毎日、時間割りのような生活になんの意味も見いだせなかった。屋上だけが私の居場所だった。でも今では蒼空の隣が私の居場所だった。蒼空のおかげで毎日が楽しいと生きたいと思えた。


 そんな私の好きな人は目が合うと優しく笑った。

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