第8話 社長と秘書が今度は夕食を作る

社長と秘書が今度は夕食を作る 1

 アルが筋トレをしているとメリッサがキッチンから戻ってきた。

「分かってはいましたが、休暇中でも筋トレは欠かさないんですね」

「筋トレは人生の一部だから」

 筋肉は自信に繋がる。それはアルの人生哲学だ。ただ、筋肉の付けすぎは良くない。何事もほどほどであることが肝要だ。

「まだ早いですけど、夕食どうします? 残りの食材を片付けます?」

「デリバリーの手配もできるんだろう? なら食材を調達したいな。ゆっくり、作るんだ」

「何を作るんです?」

「ここじゃ凝ったものは作れそうもないからね。ポトフでどうかな」 

「簡単でいいですね。好きですよ、ポトフ」

「ついでに残りの食材も鍋に入れて片付けよう」

「賛成」

 こんな会話をしているとまるで新婚夫婦のようだとアルは思ってしまう。お互いのことを思いやって一緒に食事を作るなんて素敵ではないか。

 鈍いわけじゃないんだ。自信がないんだよ。

 アルはそうメリッサに言ってしまいたくなる。メリッサが自分のことを大好きだというのなら、確証が欲しい。ロマンス小説のヒロインのようにわかりやすくデレてくれればいいのだが、相変わらずの氷の秘書ぶりだ。

 社長は意識しているみたいだけど、分からなくて戸惑っている、と5番目の選択肢を出してきたときだってそうだ。からかっているようにも思えた。

 セクハラにならずに、どうにか確証を得たい。そう思う。そのためにはまだ時間が必要だ。こうやって一緒に作業して、メリッサの心を少しずつ開いていくのだ。

 同時に押し倒したい衝動にも駆られる。しかし押し倒してしまっては全てが水の泡だ。ガマンだ。シャワー中に自家発電してガマンだ。情けないことにアルは他の方法が思いつかない。

 メリッサはキッチンの冷蔵庫の中身を確認し、必要になりそうなもののメモをとっていた。そしてまとめてタブレットで発注すると、アルに言った。

「何か洗濯が必要なものがあったら、明日の朝、取りに来て貰いますから。下の階のホテルのルームサービスが来てくれることになってます」

「段取り通りだ?」

「ボス――アルに不自由を掛けるわけにはいきませんから」

 いやいや、不自由すぎるよ。密室で、目の前に好みの美女がいて抱けないなんて。

「いやガマン、ガマンだ」

「ガマンは身体に良くないですよ。他に困ったことがあったら言ってください」

 メリッサは他意がないのだろう。爽やかな笑顔で言った。

 先ほど浮かんできた妄想が舞い戻ってくる。あらーとか言いつつ、下半身を優しくしてくれるメリッサのイメージが、自分の下半身を刺激する。

「い、いや。いいんだ。こっちのことだ」 

「本当ですか。遠慮なく言ってくださいね」

 アルはコクコクと頷いた。人類の進化史の本を読むと言ったが、たぶんそんなものは読んでも頭に入りそうにない気がする。

 食材が届けられるまで30分ほどかかった。食材等の荷物は、社長室の扉の脇にデリバリー用の小さな扉があり、そこを通して内部に入れて貰える。全体にロックがかかっていても人間が通れない大きさということで、ここはオートロックされるように設計されていなかった。この小さな扉がなければ、この計画の立案はなかった。アルは自分が意固地になってこの扉までロックするように設計しなくて良かったと改めて思った。

 食材は近くのスーパーマーケットから届けられたものだ。庶民的なものが揃っている。別にアルはグルメではないので十分だと思う。

「じゃあ、ジャガイモでも剥くか」

「怪我をなさらないように頼みます」

「ボーイスカウトで剥きすぎて怒られたことがある」

「本当ですか? 信じられませんねえ」

「言うなあ。よし、見てろよ」

「3コでいいですから」

「うん。今度は剥きすぎない」

 メリッサは微笑み、アルはジャガイモを3コだけまな板の上に乗せる。そしてペティナイフで剥き始めるが、切れ味は今ひとつだ。それでも頑張って綺麗に剥き終わる。

「すごいすごい!」

 メリッサが手放しで褒めてくれると悪い気がしない。

「シャープナーが欲しいな。切れ味が今ひとつだ」

「じゃあ、次の時に一緒に持ってきて貰いましょう」

「そうしたらメインの包丁も切れるようになるな。重要だ」

「すっかり料理ができる人になったつもりですね」

「つもりじゃない。できるんだ」

 ここはただ食べさせろというだけの男ではないとPRしておきたい。一緒に家庭を築くならば、料理する男性にはメリットがあると思わせたい。なにせアルはもう花嫁衣装の向こう側の、自分の赤ん坊を抱いてくれている彼女を夢想してしまっているのだ。

 コンソメスープを作るなんてことはしない。顆粒のコンソメで代用する。それで十分。大切なのはメリッサと一緒に料理をすること。それがアルのバカンスだ。

「手伝ってくれる?」

「双方が作りたいときは2人で作ることをルールにしましたからね」

 メリッサはメリッサでニンジンの皮を器用に包丁で剥き、乱雑に切って鍋に投入する。鍋は中くらいの大きさなので、ジャガイモでだいぶ埋まっている。ニンジン1本、タマネギ1個、セロリ1本。そしてベーコンとソーセージ。鍋に入れ、ひたひたになるまでそーっとコップで水を入れ、ガスコンロに火を点ける。

「おー こぼれなかった」

「吹きこぼし厳禁ですね」

 メリッサがアルを見上げ、微笑み、その距離の近さにアルはドギマギする。

 至近距離に焦ったのか、メリッサは1歩退いた。

「す、すみません」

「謝ることなんか、何もない」

「ゆうわく、したんじゃ、ないですよ」

 メリッサはしどろもどろだ。

「分かってる。君が誘惑する必要はないからな」

 アルは正直に言う。誘惑なんかしなくても、メリッサの魅力は自然にあふれ出ている。そう、言いたかった。そう言いたかったのか。僕は。ならば言えばいい。

「ゆ、誘惑なんかする必要がないってのは――」

「ってのは?」

 メリッサが言葉を繰り返す。彼女が自分の言葉を待っている気がして、アルは息をのんだ。

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