花筏

 家の近所に、桜で有名な川辺があった。


 と言っても、せいぜいその近辺に住んでいる地元民の間で有名な程度で、まあ全国規模で有名な名所、例えば上野とかと比べたら市とか区の名前と桜で調べてやっと出てくる程度だったけれども。地元民で勝手に桜山とか桜通りとか呼んでる感じの川だった。


 しかしまあ、地元で有名になるだけはあって川沿いに植わっている木はみんな桜。川の方が上が広いから、川にせり出すように木々が伸びてトンネルのようになっていた。ひらひらと散る花びらは花筏となって、精霊とかの通る道みたいにも見える。


 そんなもんだから毎年ちょっとした出店とかが出ていて、ぼんぼりが渡されて、浮かれた空気にそわそわする皆の春の楽しみの一つになっていたのだ。


 だから毎年、この時期必ず一度は連れ合いと子どもを連れてぶらぶらと春を楽しむのが家族の決まりになっていた。子に強請られてりんご飴なんか買ってやったり、全員でああだこうだ言いながら写真を撮ったりと、言いやしなかったけれどそれは間違いなく私の幸せの象徴のひとつだったのだ。



 桜というのは、多分在り方からして日本人が魅了され、おかしくなるような美しさがあるのだと思う。もうドンピシャなのだ。一気にぶわりと花開き、そしてあっという間に散ってゆく。その一瞬の美しさと、一抹のさびしさ。どこか切なくなるような儚い美。


 割と殺伐としていて潔く死ね!みたいな、切腹の方法に流行りや様々な作法なんかあるわりに村八分とかじめっとした精神性が見える我らが母国。こういう風に生きて死ねたらいいのに、なんてうっかり思ってそうだとか思う。侘び寂びとか、わかるけれど、わかるけれど、真に健全な精神かと言われると悩むよなぁなんて。


 でもきっとみんな苦しかったのだ。衰えや孤独、終わりに美しさでも感じられないと本格的に生きるのも死ぬのも辛すぎる。そう思う。



桜が散った。



 今私は一人で、この祭りに来てはそんなことを考えてりんご飴を齧っている。幸せも儚いなァ、と。そう思うようになるまでどれだけの桜の花が咲いて散ったのだろう。画質の荒く色の彩度も低い写真を持って、今年も来たよ、と呟く。


 儚い、儚いねェ。

 嗚呼、浮世のなんと無常なることよ。


 そうして、花筏となっていってしまったひとを想いながら、私が散るのはいつなのだろうか、とか思うのだ。どうせなら美しく散って会いに行きたいなァと、まあ凡そ叶わぬ願いを抱きながら。

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