第92話 でも……だからこそ
自分の選んだ選択に間違いがあったとディンは考えていなかった。
言葉や見た目だけで人間の本質を見抜くのは簡単じゃない。
貴族の世界で人に揉まれてきたディンは痛いほど身に染みていた。
貴族の世界とは言ってみれば騙し合う世界だ。見た目を取り繕い、言葉を取り繕い、表情を取り繕い、相手と接する。もちろん口から出る言葉を素直に信じられる者も少なからずいるが、多数派ではない。
基本、利害の一致以外で心通わせるなんて甘い関係はなく、貴族たちとは乾いた心で対応するのが適切だ。くだらない情にとらわれれば、あっという間に足元をすくわれる。
だが、祖父であるエルマーはそんな構造を理解していなかったのか、あまりにも愚直すぎた。
貴族は偽りの笑顔で自分の利を獲得するために腹の底の探り合いをする。誠実であることは時に仇となり、祖父エルマーは、良いように利用されてばかりいた。
――勇者であるエルマー様にお願いがあります
――勇者であるあなたにしか頼めないのです
損得抜きに面倒事ばかり引き受ける祖父にディンはずっともどかしい気持ちがあった。
自分の得しか考えない人間に対してまで誠実に対応する必要があるのか。
本来、そんな必要はないはずだ。
勇者という言葉を使って便利屋のように祖父を扱う人間を見てきたせいで、ディンは勇者の孫という言葉を使って自分を説得してくる人間が嫌いだ。自然と反発してしまう。
そして、そんな人間たちへの真贋を見抜けない祖父が愚かに思えた。
そのせいか、人に対して疑ってかかる癖がディンにはある。もっともそれが悪いこととは考えていない。そのおかげで人の真贋を見抜く力は上がり、祖父のように騙されることもなくなった。
人を見極める点にかけては祖父よりも絶対に優れている自負がディンにはあった。だから、アイリスに対してやったことも悪いことだと考えてはいない。あれは必要な過程だったと今でも思っている。
だが、シーザとのやり取りで気づいてしまった。
祖父エルマーの周りにはいつも人がたくさんいて、祖父に背中を預けられるという人間は大勢いた。
ディンの周りにも同じように人がたくさんいるが、ディンに背中を預けられる人間はきっとほとんどいない。
味方だと判明したアイリス・フリップ。
彼女が今後、ディンに背中を預ける保証はない。
その事実に気づくと唇を噛みしめていた。
「俺って視野が狭いな……」
廊下で少しの間立ったまま動けなかった。が、今すぐしなくてはならないことに気づき、ディンは足を進める。
訪ねたのは同じ建物内にある病室の一室。扉の先には一昨日から顔を合わせていないユナの友人がいる。しばらく扉の前で立ちすくんでいたが、意を決して扉を開けた。
アイリスはベッドの上におらず寝巻きのまま床で腕立て伏せをしていた。
「ユナちゃん! ノックをするのがマナーっすよ」
「いや、寝てると思ってたし……」
ヨルムンガンドのガスを受けて麻痺状態となり、溺れて死にかけたにも関わらずすでにぴんぴんしていた。
アイリスは腕立て伏せを止めて、汗を布で軽く拭い、ベッドの傍にある椅子に座る。
「ジョエルさんの回復魔術はやばいっす。精神にまでいい影響を及ぶみたいっすね」
「それは気のせいだと思うし、一応安静にした方がいいよ。私、後で報告するから」
「そんなぁ」
悲しげな表情をして、たちまち笑顔になり、お互い笑いあう。
が、ディンはすぐに真顔に変わる。
「アイリス。一昨日はごめんなさい」
そう言って、その場で頭を下げた。
「私は……うまく立ち回ってるつもりなんだけど……たまにそれで人の気持ちを踏みにじることがある。私、アイリスに背中を預けられなかった」
アイリスは一点を見たまま黙っていた。
しばらくの間、沈黙が続き、アイリスはゆっくり口を開く。
「ユナちゃんにはユナちゃんなりの考えがあったんすよね? なら、別にいいっすよ」
「そ、そんなあっさり……」
「昔、私が人を信じるのが怖いって相談したこと覚えてます?」
「……あったっけ?」
そんな話は記憶にない。だから、それはディンではなくユナに対して言ったことだと察する。
「あったんすよ。貴族って社交場で本音を表に出さないことが多いでしょ? 子供のころは嘘つきばかりに見えて人間不信に陥ったんすよ」
貴族の世界では信じるより疑うに重きを置くことが普通だ。最もそれは貴族だけの話ではないかもしれない。自分の得のために相手に損を押し付けようとする人間はどこにでもいる。
「でも、その時、ユナちゃんは言ってくれたんす。人を信じる信じないなんて重要じゃない。重要なのは自分がどうあるべきか。そういう自分の信念に従うべきだって言ってくれたんです」
ディンはユナの言葉に素直に驚いた。
「だから私は……どんな時でも誠実な人間でありたいって思ったんです。ユナちゃんみたいに!」
「……私みたいに?」
思わずディンは自分に指をさす。
「はい! 私はユナちゃんみたいになりたいっす!」
アイリスの眼の先にいるのはディンではなくユナだ。アイリスの瞳の眩しさに思わず目を逸らしそうになる。
アイリスの瞳はヨルムンガンドと立ち向かった時と同じでまっすぐぶれがないことに気づいた。思えば出会った時から、アイリスはずっと変わっていない。ユナの言葉を聞いて、アイリスは自分なりに己の信念に従って生きてきたのだろう。
「ユナちゃんに信じてもらえなかったことは残念ですが……なんとなく何か考えがあったことはわかります。それを今聞く気はありません」
「……」
「それに人を信じる難しさは私も知ってます……でも……だからこそ」
アイリスは照れくさそうな表情でほんの少し言いよどみ、笑顔を見せて続ける。
「背中を預け合えるような信頼できる関係になれたら……どんなに素晴らしいことかって私は思います」
あらゆる人に対して誠実であること。それはディンがずっと昔に捨てたものだった。持ち続けることで得より損が大きいと判断して捨てたものだった。
自分を大きく見せるため見栄を張ったり、人の陰口を叩いたりする人はどこにでもいて、世の中は嘘や欺瞞ばかりに見えることがある。
そんな砂漠の中を彷徨っていると、自分もそれが当たり前のように思えて自然と染まっていく。心も自然と乾く。
でも、アイリスは己の信念を貫き、ディンが捨てたものを持ち続けていた。
祖父エルマーのように、ユナのように。
そして、この時気づいた。祖父エルマーは言いように使われていた愚かな人間ではなかった。損を被って騙されていたわけじゃない。
心が豊かだから損得勘定など考えず、人に与えることができたのだ。ユナもアイリスも同じで、ディンにない大きな心を持っている。
心が狭くて、人に分け与える気持ちが薄い自分にはそのことが気づけなかった。
ユナの言葉がアイリスに影響を与えて、そのアイリスの言葉で曇っていた心が晴れていく。
守ってるつもりだった妹に救われたような気がした。そのせいか、なんだか無性に涙が出てきそうになって、ディンはそれをごまかすように目を逸らす。
自然と静寂に包まれる。
「なんか言ってよ、ユナちゃん」
そう促され、視線をそらしたままディンはゆっくり口を開く。
「アイリスは勇気がある……私もアイリスみたいに勇気ある人に……なりたい」
「なれますよ! 勇者の孫とか関係なく、ユナちゃんならなれます! そして、私も背中を預けてもらえるよう、もっと強くなります!」
満面の笑顔につられて、ディンも笑う。
「ありがとう……アイリス」
ほんの少しだけ目から涙が零れ落ちる。
乾いた心が濡れた気がした。
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