22:死んだらどこに探しに行けばいい?


◇◆◇



「おきなさい」

「っ!」


 次に目を覚ました時は、また柔らかい母のお腹の中だった。


「さぁ、おきなさい」

「う?」


 そこに居たのは、次の新しい母だった。そう、本能的に分かった。

 次の母は前の母とは違い、兄弟を産んでおらず、母の腹にくるまれていたのは俺一人だった。


「あなた、ここまで追ってくるなんて。大した子ね」

「……むくむく」


 母の声を聞きながら、必死に乳を飲んだ。なんだか凄く腹が減っていたからだ。


「私はホーラント。あなたを生んであげたわ」

「むくむく」

「あなたの名前は、まだないわ。いつか誰かにつけてもらいなさい」

「むくむく」


 よく覚えていないが、何かの最後の最後。俺はとても腹が減っていたような気がするのだ。だから、俺はたくさん母の乳を飲んだ。

 飲みながら母の話を聞いた。


「私はあなたを産んだけど、育てたりしない。神は、生まれた時からそれぞれ明確な使命を持っているから何も教える事はないの。貴方もそうよ」

「むくむく」


 神にはそれぞれ明確な使命がある。そうかもしれない。俺には目的があった。何かはあまり覚えていないけれど、確かにあった。大切な使命が。


「お腹が満たされたら、好きな姿で好きに生きなさい」

「っふぅ」

「ただ、一つだけ教えてあげる。あなたが〝この人〟と思う人間以外に、人の言葉で話しかけない方がいい」

「……どうして?」


 やっと腹が満たされ、口を開いた。

 なんだか、以前よりもひどく不思議な感覚だ。色々と、たくさん頭の中に言葉が浮かぶ。こんなの初めてだ。おかげで、何か喋ろうとすると頭の中にある言葉がたくさんあり過ぎて、むしろ言葉が詰まる。


「あなたが思っているほど、この世界の人間は優しくないから」

「にんげんは、やさしくない?わるいやつ?」

「ふふ、さぁね」


 母はただ静かに笑うだけで、何も言わなかった。

 よく分からない。分からないけれど、本能が告げる。

 母の言う事は頷くように、と。


「わかった」

「良い子ね」

「っ!」


 良い子。

 そう言われて体を舐められた瞬間、体中の毛が逆立ったような気持ちになった。そして、次の本能が俺に告げる。


 さぁ会いに行け、と。

 誰にかは分からない。でも、突き動かされる本能には従うしかない。


「いかないと」


 既に十分過ぎるほどに腹も膨れた。おかげで、元気も出てきた。母に感謝をしなければ。乳をくれた事にではない。それよりも、もっと大切な事。


「ほーらんと、うんでくれて、ありがとう」

「どういたしまして。私も、久々に母親の真似事が出来て楽しかったわ」


 こうして、俺は母の……ホーラントの温かい腹から飛び出した。

 地を駆けながら、自分の体がどんどん熱くなるのを感じた。体が変化している感じがする。これもまた本能だ。でも、大丈夫。今の姿とさほど変わるワケではない。だから、簡単だ。ともかく、今の姿のままではダメ。だって、このままだと気付いてもらえない。


--------おいで、くつした!


 〝あの人〟に気付いてもらえるように、〝あの人〟の望む姿になった。それが、もう一度〝俺〟の――。


「……くつした?」

「わふっ!」


 〝くつした〟の、始まりだった。


◇◆◇


 くつしたはもう一度くつしたになったけれど、前よりもうんと難しい事だらけだった。


「くつした?なぁ、俺は人間だけど、くつしたは神獣だろう?俺達で子供は作れないんだ。子供を作るなら同じ種族じゃないと」

「……ぅーー、くつしたはわからない。わからない」


 分からない分からない。

 くつしたはイアンが大好きだ。そして、イアンもくつしたが大好きだ。それなのに、交尾はしてはいけないという。番にはなれないという。理由は、くつしたが神獣で、イアンが人間だかららしい。

 わからない、わからない。


 くつしたはちっとも分からない。

 でも、分からない分からないと思っていたら、唐突に〝分かる日〟が来てしまった。



「くつした、いけ」

「イアン、イアンっ!」


 血の匂いが立ち込める中、イアンは苦しそうな声で言った。くつしたを見ているのに、その目はぼんやりとしていて俺の事なんてちっとも見えていなかった。

 くつしたの牙が、くつしたの爪が。イアンを血だらけにした。その状況に、くつしたは、もっと昔に〝くつした〟だった頃の事を思い出した。


--------くつ、した。


 今と同じように血の匂いでいっぱいになって。苦しそうに俺を呼んで。今、この状況はまるっきりあの時と同じだ。

 あの日を境に、くつしたはくつしたの人間と会えなくなった。そして、やっと理解した。くつしたの人間は、あの日、死んだのだと。


「くつした。……また、ぁおう」

「ぅぅぅぅっ!」


 〝また〟っていつ?

 そう問いかけても、もうイアンは何も答えてくれなかった。ただ、目を閉じて「おいで、くつした」という言葉を何度も繰り返している。でも、ソレもすぐに言わなくなった。残るのは、いつ消えてもおかしくないくらい薄い、イアンのヒューヒューという呼吸音だけ。


「あ、あ……ああ!」


 このままでは、イアンが死んでしまう。

 それは、それだけは絶対にダメだ。


「っぁ、ぅーーーっ!」


 だって、死んだら会えない。会いに行こうにも、どこに会いに行けばいいのか分からない。もう、あんな思いをするのは嫌だ。母に産んでもらって、やっとまた会えたのに。


「いあん、いあん」


 俺は血を流すイアンの体を必死に舐めた。

 本能が告げる。舐めろ、舐め続けろ、と。舌に、ジワリとした嫌な味が広がる。少し、気持ち悪い。でも、舐めた。ずっとずっと舐め続けた。それしか、俺には出来なかったから。


「んっ、ぅ……ぅ」

「イアン」


 次第に、皮膚が破け、肉が露わになっていた傷口が少しずつ塞がり始めた。苦し気に眉間に皺を寄せてはいるが、イアンはちゃんと息をしている。

 ただ、傷痕までは消えず、酷く肉の盛り上がった肩と腹の傷痕に俺は思い知った。


「……くつしたのせいだ。くつしたが、狼だから」


 人間と狼は別の生き物なんだ、と。何度もイアンが俺に言い聞かせていた言葉の意味が、この時になってやっと分かった。種族が異なるのに互いに近寄り過ぎると、こんな事になってしまうのか。


 望み通り、イアンと共に生きる為には。


「――くつしたが、俺が、イアンと同じにならないと」


 もう、二度とこの爪がイアンの腹を引き裂かぬように。二度とこの牙が肩を食いちぎらぬように。二度と、獣の本能に自我を消させぬように。


「イアン、待ってて」


 くつしたは、ホーラントのお陰で人間の言葉を喋れるようになったけれど、人間の事はまだよく分からない。でも、分からないのであれば、学ぶしかない。

 大丈夫だ。お手本ならここに居る。


「イアン」


 俺は眠るイアンの姿に鼻筋を寄せると、ジッとイアンの姿を見つめた。

 犬から狼になるのは簡単だった。でも、人間は全然違うから難しい。姿を変えるには、明確なイメージが要る。


「イアン、イアン……イアン。同じ人間だったら、イアンはくつしたと番になってくれる?ずっと一緒に居てくれる?」


 あの日から、俺はイアンを観察した。いや、観察と言っても今までと同じだ。ずーっとずっと、大好きなイアンを見ていただけ。お喋りも忘れて、俺はイアンの事をずっとずっと見ていた。


「イアン、だいすき」

「っぅ、ぅん」


 俺を抱きしめて眠るようになったイアンの耳元で、出来るだけ人間の姿をイメージしながら囁く。先ほどまで「くつしたと離れたくない」とボロボロと泣いていた。


「っぅん」

「イアン、もうすぐだ」


 イアンの掌と俺の掌を重ね、指を絡めながら思う。


「もうすぐ、ずっと一緒に居られる」


 大丈夫。だって楽しいと、大好き、に従えば、俺の願いは叶う。そう、俺はずっと昔から教わってきたのだから。

 誰に教わってきたかって。それは――。



◇◆◇


「くつした?」

「っ!」


 この人に、イアンに、教えてもらった!

 潤んだ瞳と真っ赤な顔で名前を呼んできた相手に、俺は息を呑んだ。



 ちゅっ、ちゅっと口をくっつけてくるイアンに、興奮と気持ち良さで体中が焼けるような熱さに支配される。今は殆ど毛なんて無い筈なのに、毛が逆立っているような感覚だ。


「っはぁ、っはぁ。ンっぅ」


 そのうち、我慢できなくなって俺の方からイアンの口にたくさん吸い付いた。


「いあん、いあん……イアン!」

「っく、つしたっ。っぁ、っひぅ」


 いつもは見上げてばかりだったイアンが、今は俺の腕の下に居る。俺の下で、ジッとこちらを見上げてくる真っ黒な瞳に、俺は何故か耐えられなくなり目を瞑った。


「んっ!」


 なんだ、コレ。なんだコレなんだコレ!!

 腹の奥に、森中を全速力で駆け回っているような凄まじい感覚が駆け抜けていく。


「っはぁ、っはぁ、っはぁ」


 何度も何度もイアンの目は見てきた筈なのに。人間の体になった途端に変だ。頭がおかしくなってしまったように、何も考えられない。

 クラクラする程の熱い感情の波に、俺がギュッと目を瞑ったまま耐え忍ぼうとしている時だ。


「おいで、くつした」

「っ!」


 俺の体の下から、微かな声が聞こえてきた。


「中に、おいで」


 その言葉に、頭の中で全てが弾けた。

 そして、一つの言葉で脳内が埋め尽くされる。


 イアン、かわいい。なんて、かわいいんだ。


「いあん」


 そう、イアンがいつも俺に言ってくれていた言葉を、やっと心の底から理解した。可愛いってこんなに強い感情だったのか。こんなに強くて優しくて温かい感情を、この人はいつも俺に向けてくれていたなんて。


「くつした、せっかく人間になれたんだ。これからも、ずっと一緒に遊ぼうか」

「うん、うん……うん!」


 背中に回されたイアンの腕に従い、俺はそのまま大好きな匂いの中に飛び込んだ。




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