お昼の放送
真理ちゃんが阿修羅みたいに豹変してから2週間ほど経つが、いまだに口をきいてもらえない。挨拶をしても無視されるし、業務中にすれ違って「お疲れ様です」と声をかけても無視。
俺が真理ちゃんや梨乃ちゃんと仲がいいのは社内で有名な話だったので、露骨に態度を変えた真理ちゃんの様子に上司たちも気付きはじめた。そこから負の副産物が生まれる。
上司は直雇用の社員である場合もあり、派遣社員の場合もあるが、食事は一般的な派遣社員と同様に食堂で摂ることが多い。というより、他に食べ物を持ち込める場所がないだけだが。そうなると弁当を買って来ようが屋上で食べることが叶わず、休憩時間のカブった上司たちとは必然的に同じ食堂で昼食になる。
そこでは特に雑談も禁じられていないので、時々身内のゴシップネタが酒の肴よろしく休憩時間を盛り上げることもある。
残念なことに、俺は非常に耳がいい。ホストの空間把握能力と耳の良さは必要性から研ぎ澄まされる傾向にある。
優秀なホストは接客時にただ一人の客だけでなく、他のテーブルでどんな話をしているのか、表情一つ変えずに聴いている。伝説レベルのホストだと部屋全体の会話を同時に把握しているなんていう話もある。さすがにそれは眉唾だろうが。
その部屋にいる客のテーブルに行った時、どんな話をしていたのか言い当てる必要はない。俺たちは何もエスパーの真似事をしたいわけではない。
だが、何が好きで、何が嫌いなのか。趣味や異性の好み、そういった情報は極めて重要だ。これらの情報をあらかじめ盗み聞きで把握していれば、こちらは前もって答えを教えられたテストをやっているのと同じ状態になる。だからホストはこの半分ほど超能力めいたスキルをこぞって手に入れたがるのだ。
だが、この武器には弱点もある。優れた聴力は武器にすれば強力だが、拾わなくていい情報も拾ってしまう傾向にある。頭のおかしい奴がSNSのタイムラインにいると精神を掻き乱されるのと同じ仕組みだ。
つまりは、先ほど触れた上司たちのゴシップネタは俺に筒抜けとなる。
「あのさ、最近思ったんだけど……」
男性の上司が、声を小さくして言う。周囲も雑談しているので一見声は埋もれているが、小さい声でも相手に伝えようという意図が強いため、俺のセンサーはその声を傍受してしまう。
「織田さん……男性の方と、女性の方ね。彼らって、ケンカしたの?」
「そういや最近は一緒に食べていないな」
話しかけられた方の上司が無遠慮な視線を向けてくる。気付かないフリをしてあげているが、怪訝な視線が体の上を這っていくのが分かる。率直に言って、不快だった。
俺の思いなどつゆ知らずに上司たちはゴシップネタの雑談を続けていく。
「なんかさ、男性の方の織田さんが話しかけても、女性の方の織田さんが無視しているんだよね。こう、割と露骨に」
「ああ、それ、わたしも気付いた」
同席した女性の上司が言う。派遣に対しては比較的無関心な人たちだと思っていたが、気付かれてはいたらしい。
「前に仲良くしていただけにさ、ああいうのを見るとなんか心配になってね」
「ああ、たしかにな」
「これって男性の方が悪いケースがほとんどなんだけど、女性の方から事情聴取して、場合によっては織田君の方を注意する?」
こういう時、大体はいたいけな女性の方が肩を持たれる傾向がある。目玉は動かさずに、周囲の反応を窺う。無関係なオッサンたちは割と露骨に聞き耳を立てている。そりゃそうだ。こんなに声が響くところでそんな話をしていれば、このゴシップ話はお昼の放送に近しいものになる。
食堂が徐々に静かになっていく。微妙な空気を察知したか、女性の上司が二人を牽制した。
「やめときなよ。男女の仲に深入りすると面倒くさいし、最近はセクハラモラハラパワハラってうるさいんだから。そんなのに巻き込まれたくないし」
お前らが自分で騒いだんだろう? という喉元まで出てきた反論を飲み込む。下らないことで仕事を失いたくない。
声が漏れそうになったのでペットボトルのお茶を飲む。露骨な視線。我慢しながら、スマホをいじって聞こえていない風を装う。一体俺は何をやっているんだ。
俺の怒りなど全く知らず、男性の上司が不用意に話を続ける。
「そうだな。彼、イケメンだから他の女の子に手でも出したのかな」
「あ?」
――しまった。キレちまった。
思わず怒りの声が漏れてしまい、食堂の視線が一気に集まる。
マズい。これでは彼らの聞いていたのがモロバレではないか。いや、悪いのはそんな話を周囲に聞こえる形でやった彼らなのだが。
それでも下らない軋轢を生んで、次回の派遣契約が更新されないといったアホな事態は避けないといけない。本音が「ただ気に入らない」という理由だったとしても、「仕事には向き不向きがありますから」と言えば、いくらでも正当な契約満了は成立する。派遣は立場が弱いのだ。
勘弁してくれ。ホストだった男が女で揉めて派遣切りなんてシャレになっていない。ごまかさないと。なんとかごまかさないと。(この間約5秒)
「ったくよー。三連単落としたじゃねえぞ、コラ!」
ドスの効いた声で言ってから上司たちを見ると、一人一人が死にそうな顔をしていた。
「あ、すいません。お金を貸した奴が『倍にして返す』って言ったのに、その後『競馬ですった』と送って来まして……。思わず、キレちゃいました」
頭を掻きながら、照れくさそうな顔を装う。本当を言えば、はらわたが煮えくり返っているが。
なかなか苦しい言い訳だが、上司たちもそういうことにしておきたかったのか、その内一人が「怖いからやめて下さい」とからかうように俺をたしなめると、周囲からは「ふふ」と笑いが漏れる。
だがどうする。なかなかしんどい状態にいるぞ。
真理ちゃんと梨乃ちゃんは本日違う時間帯の休憩のせいでここにはいない。ある意味助かった。だが、このようなことが今後も続くとなるとメンタル的にも厳しいものがある。
だんだん答えも出さずに俺を無視し続ける真理ちゃんに腹が立ってきた。心優しいシングルマザーという設定は所詮俺の中で出来上がっただけの幻想に過ぎないのか。その可能性がにわかに高くなってきたが、認めたくなかった。
休憩時間終了の5分前を知らせる予鈴が鳴る。各自は午後の業務に向けて移動を始めた。
ひとまず休憩時間は無事に終わり、何事もなかったかのようにその一日は終えた。それは良かったかもしれないが、それから何日経っても状況は変わらず、俺が何度声をかけても真理ちゃんは俺を無視し続けた。
粘り強くやってきたが、さすがの俺も「いい加減にしろよ」という気持ちになってきた。負の感情をぶつけたりしないのは、梨乃ちゃんに動いてもらっているからというのもある。
せっかく梨乃ちゃんが細心の注意を払いつつ情報を得ようと努力しているのに、それを俺がブチ壊したら痛いオッサンもいいところだろう。
――この動かない状況をどうすればいいんだ。
俺は明らかに焦っていた。焦っていたけど、出来ることは何もなかった。
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