ホスト引退の「その後」
ホストで生計を立てていた俺は、ある日に散々な目に遭って夜の仕事から足を洗った。容姿こそ20代で通用しそうなレベルを保ってきたが、今年はとうとう大台の40歳を迎える。
体力もそうだし、このまま酒を飲み続ければ肝臓も壊しそうだった。だから大変な目に遭ったとはいえ、無様な姿でキャリアに終止符を打ったのはむしろ幸運だったのかもしれない。
だが、大変だったのはその後だった。
ホスト稼業はそれ自体が専門職だ。そのテリトリーを出ると、全く違う常識を持った世界で生きていかねばならない。
当初は会社員になった。営業で、健康食品を訪問販売していった。特に女性の顧客を扱うのは得意だった。あっという間にたぶらかして、人妻たちと寝た。熾烈な競争を生き抜くためには、ごく自然な選択肢――少なくとも俺はそう思っていた。
売上は瞬く間に上がり、主に自分よりも若い男に飢えた熟女たちはこぞって俺から商品を買っていった。新人としては過去にないほどの勢いで売上を達成した俺は、会社創立以来の新記録を打ち立てる新ヒーローになろうとしていた。
ところが、そう上手くいかないのが人生だ。
それぞれの女と俺が寝たのは、ただの一回きりだ。色恋商法とはいえ、あまりのめり込んでもらっても困る。俺は商品を買ってもらえればいいだけで、店まで来て高いシャンパンを空けてほしいわけじゃない。あくまでお近づきになるためだけに一発ヤらせてあげていただけの話だ。
だが、どの世界にもそういった不文律を理解しない愚か者がいる。ホスト時代にもそういった人はいたし、そういう奴らが原因で手痛い目に遭い、ホスト稼業から足を洗った奴らもいた。俺も同じ轍を踏んだわけだが、要は脇が甘かったのだ。
刺されないまでにしても、契約を取った後に塩対応となった人妻の一人が、会社に俺との関係を暴露しやがった。お陰で会社からは調査が入り、俺が寝た顧客たちは概ね全て把握されてしまった。
不祥事が発覚した後は弁解の余地もなくクビになった。キレまくった人事の部長に書面とともに糾弾されたが、要は俺が枕営業をしたことによって、会社の看板には泥が塗られたという話だった。
当時は「だから何なんだ」と思っていたが、一般的な会社にとってはそういったイメージダウンが致命的になるそうだ。ずっと違う価値観の世界で生きてきた俺は、その感覚のズレに気が付くことが出来なかった。
それまでは「新社会人」としては割といい給料をもらっていたのに、あっという間に俺は無収入へと転落した。その上に損害賠償を求める訴訟までされて、水商売で溜め込んだ貯金をごっそりと持って行かれた。最悪の結末だった。
再就職をするべく職安へと通ったが、水商売歴が長く、前職を問題のある形で辞めた男を雇いたい会社などそう簡単には見つからなかった。
職安の相談員が同情を込めた目で俺を見るのがつらかった。ホストを辞める前にはそんな視線を向けられるとは夢にも思っていなかった。だが、それは明らかに現実だった。
ずっと仕事が決まらないと、自分自身の存在を否定された気分になる。
最悪な気分で、多摩川の川沿いを歩いていた。夕日に照らされたのどかな風景は、逆に俺の心を逆撫でするようだった。
人生全てに疲れ切って、一人川沿いの草むらに腰を下ろした。
――これからどうやって生きていこう?
そんなことを思っていると、珍しくスマホが鳴った。
知らない番号。出ると、昔つるんだことのある狩野からの電話だった。同じ苗字の芸人から取った永光の源氏名で働いていた色男は、俺と同じくホストを引退していた。酒の飲み過ぎで肝臓を壊したらしい。
いくらか世間話をすると、狩野は新しい事業を起こそうとしていると言う。それも、まさかの慈善事業だ。
――ああ、ヤバい奴に目をつけられたな。
最初はそう思った。なにせ俺たちは夜の住人だ。介護職や人権活動をしていたのではなく、女をおだてては酒を飲ませて、搾取と言われても仕方がないほど金を使わせる。どちらかと言えば、人に怨まれることの方が多かった。
目の飛び出るような金額になったツケを払うために、女たちは体を売りはじめる。それでも俺たちは知ったことじゃない。それが俺たちの住む世界の文化だからだ。少しも珍しいことじゃない。
最近になってホストから客を守る法整備がなされていきている。だが、お上の奴らは俺たちが全く違う文化と価値観の上で生活していることを理解していない。言ってみれば俺たちの住む世界は日本であって日本ではないのだ。なんなら地球ですらない。
一体あなたは文化も考えも違う国の人の生き方を変えようと思うだろうか? そんなことはナンセンスだ。
話は逸れたが、そんな価値観や文化で生きてきた俺たちに人を助ける仕事が出来るのかと訊かれると、そもそもそれ自体が怪しい。俺たちにとっては店へ来た客に夢のような時間を過ごさせることだって十分慈善活動だったからだ。
だから俺はバカにしたような気持ちで狩野の話を聞いていた。
だが、狩野の話には存外熱がこもっていた。なんでも肝臓を壊した際に助けてくれた人がいたそうで、その人がかつての客の母親だったそうだ。その客は狩野の所へツケで通い続け、風俗で金を作っている内にメンタルを壊して精神科へと通い、ある日に自殺で亡くなったそうだった。
当時の狩野はその娘が作った金を裏カジノでせっせと溶かし、店からも給料の前借りをするなど後の無い状態だった。肝臓を壊したのは、そういった心理的な重圧もあったのかもしれない。
いずれにしても無一文になった狩野は手術代も無く、入院する金も無い。同僚たちは金遣いの荒かった狩野を敬遠し、事実上見捨てられていた。そんな時に現れたのが自殺した客の母親だった。
普通に考えたら狩野は殺されても文句を言えない立場だったんだろうが、その母親は無一文で病気になり、死ぬまで待つしかない狩野を金銭的に助けた。彼女は狩野の手術代や入院費を支払い、文字通り命の恩人となった。
当然困惑する狩野は「どうして俺を助けるのか」と訊いたそうだ。そうしたら「娘がこうまでして愛した男をみすみす死なせたら、あの子が死んだ意味が無い」と返したそうだった。
この時、狩野の価値観が180度変わった。
快楽を得るためには対価がいる。それはどこでも通じる共通の価値観だ。
だが、目の前にいる女性のように、何の見返りも求めずに他者を助けることが出来る人だっている。それだって同様に事実なのだ。それをまざまざと見せつけられた狩野は、それまでに築き上げた価値観がガラガラと崩れていったのを感じたという。
情けない話だが、彼の浪花節を聴いている内に、俺の心も動かされつつあった。
狩野は女性に何か恩義を返せることは無いかと訊いた。女性は「娘のような人がこれ以上出てくるのを止めてほしい」と言っていた。そして、「それが出来るのはあなたのように夜の世界にいた人だけだ」とも。
彼女は素封家だった。自由になる金はあったが、それを投資しようとしていた娘は逝ってしまった。
「お願い。これ以上、娘のような目に遭う人を増やさないでちょうだい」
その一言で狩野は一念発起して会社を興した。事業を立ち上げるに当たり、金はその母親が出した。ノウハウもクソも無い、完全なる行き当たりばったり。だが、志だけはあった。その会社に協力者として呼ばれたのが俺だった。
率直に言って怪しいとは思った。なんていうか、宗教の勧誘というか、マルチビジネスの勧誘というか、素直に信じていいのだろうかと思わせる危うさを感じた。それと同時に、先ほど聴かされた浪花節がいくらか琴線に触れているのも確かだった。半信半疑……いや、信は実質三割ぐらいか。
だが、どちらにしても金はなく、それを稼ぐ手段も無い。このまま何もしないで朽ち果てていくか。それとも奴の口車に乗って破滅を迎えるか。どうせ騙されたところで持っていかれる金も無い。俺は半ばヤケで奴のスカウトを受け入れた。
「さて、これからどうなるんだろうな?」
夕日に染まった川に訊く。輝く水は何も答えず、ただせせらぎの音が聞こえるだけだ。親子連れがスーツ姿のまま川べりに座っている俺を見て、無言で距離を取って歩いて行く。
勢いで承諾したはいいが、明日から俺は慈善事業を目的として会社で働いていくことになる。言葉だけ聞くと、タチの悪い冗談のように聞こえる。だが、これは現実だ。
脳裏を様々な思いが過ぎる。
考えたことも無かったが、思えば俺も社会の役に立つというか、人から感謝されるようなことをした記憶がないし、しようとしたこともない。それは全く別世界の価値観だと思っていた。
だからというわけではないが、狩野の話を聞いてから、俺の心には今までにないさざ波が立っていた。それは妙な波紋を広げていき、ソナーのように俺の中で同心円状の衝動を広げていく。
狩野の浪花節が響いたのは、やはりあのことが心の奥底にあったからなのか。……理由なんてどうでもいい。仕事をしないと生きていくことは出来ない。まずは俺自身が社会復帰しなければ。
不安の大量に入り混じった決意を胸に、俺は夕日に照らされた多摩川を後にした。
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