第5章/緑の熱風 第6話/届けられた短刀

   一


 アサドを挑発するために発した言葉に、意外な答えが返ってき、ラビンは混乱した。

 この男、いったい何を考えているのだ? 

 北方方面軍でも随一の切れ者と知られ、幾多の遠征を成功させた名参謀である彼にしても、アサドの真意を測りかねた。

 アサドはラビンの目をじっと見つめながら、静かに語りかけた。


「総司令官のカジム将軍はアル・シャルクの先代の王の時代からの将軍。戦歴も長く矛の納め時も心得ていよう。物の道理は充分わきまえている人物だ。和議が成立する可能性はある」

 ラビンの目が驚愕に大きく見開かれた。

「どうした? 俺の考えはおかしいか」

「……きさま、なぜ将軍の……将軍の名を知っている? 自軍の兵ですら、主だった者以外は知らされていない機密を!」

 ラビンの意外な問いかけに、今度はウルクル兵達さえもアサドの顔を凝視した。


 ラビンの疑問も当然だった。

 戦闘においては、どんな小さな情報であっても、敵に秘しておくに越したことはない。それが歴戦の将軍であればあるほど、その名から過去の戦いを研究され、その将軍の持つ戦術上の癖を読みとられてしまう危険性が高いからである。

 その名を聞いて、相手が萎縮するような名将でもない限り、敵にその名を知られずにいたほうが有利なのだ。

 名を知られることで、敵の間諜に故郷に残した家族を狙われる可能性すらあり得る。


 当然アル・シャルク北方方面軍総司令の将軍の名・カジムは秘され、側近の者以外その名を知る者はいないはずである。

 この戦場において、カジム将軍はイクラース将軍と呼ばれ、彼の真の名を知るのはラビン副司令以下、わずかに十名。

 それは敵の傭兵隊長ごときが知るはずもない秘事であった。

「別に不思議はあるまい? 我が軍にも優秀な斥候はいる。今自分が戦っている者の名ぐらいは知っていて当然だろう」

「しかし……私が将軍の副官であることまでなぜ? 私は今度のウルクル戦の途中から将軍の下についたと言うに」



   二


「貴公の名を知っていたのは偶然だよ。カジム将軍の……スラフファート・ジルムードの名は有名だ。俺が知っていても不思議はないだろう?」

 彼の疑いをはらすかのように、アサドは口元に笑みを浮かべて言う。

 だが、ラビン准将の表情は、さらに凍りついた。

「きさま、なぜ、カジム将軍のいみを……岩の亀スラフファート・ジルムードを知っている?」

 諱名とはアル・シャルクのみに見られる風習であった。親に付けられる名の他にもう一つ、その人物の本質を示すものとして神官や赤児の親が尊敬する人物より授けられる。公には秘され、親兄弟以外はほとんど知ることのない名でもある。


 通り名(あざな)は、誰でも知っている。

だが、カジム将軍のごく近い親族でもない限り、その諱名を知る者はほんの一握りのはずだ。

 若き傭兵隊長の双眸を凝視しながら、ラビン准将は再び同じ問いを発した。

「おまえは……いったい何者だ?」

 重い沈黙がその場を支配した。いまや赤獅団の者以外の、すべての視線は疑惑を含み、アサドに注がれている。

「ウルクル傭兵部隊の隊長アサド……それだけでは不満かな?」

 ラビンは首を振った。当然だ。


「私も詳しい話が聞きたいな、アサド」

 ファラシャトが青い瞳を据えて、腰の剣の柄に手を掛ける。

「きさま……やはりただの異邦人アジャームではなかったな」

 殺気が走った。

 ファラシャトのかたわらで、ヴィリヤー軍師も思わず自分の短剣の柄を握りしめていた。

 この男を……アサドを、自分達は信用しすぎたのかもしれない。

 ファラシャトとヴィリヤーは同時に、同じ疑惑を抱いた。


 その出生を問わないのは、傭兵達の暗黙の掟である。

 確かに、ほとんど戦意喪失していたウルクルの軍を立て直し、戦意を高揚させ、圧倒的な戦力で迫るアル・シャルクの軍と互角以上の戦いができたのも、この男の戦略の確かさと、戦術の強さ、統率力の賜物である。それは誰もが認めていた。

 だが同時に、この男は危険だ。

 有能であるが故にその牙が内に向けられたとき、ウルクルは瞬時に壊滅するであろう。それほど、今や彼に対するウルクルの依存度は高くなっている。

 だが、もしも彼が最初からウルクルを壊滅させるか、あるいは乗っ取りを企んでいたとしたら?

 彼がアル・シャルクの放った間者である必要はない。例えば隣国のジェッダやイブンが放った間者であったならば?



   三


 いやむしろ、この若さで戦術に優れ、戦略に優れ、奇策をもって敵を翻弄し、内政にさえその才を見せるこの男が、ただの一傭兵であることの方がおかしい。

 ウルクル懐柔の密命を受けた間者。その可能性の方が大きいのだ。

 敵だとすればこの男、危険すぎる!

「和議成立と見せかけて、アル・シャルク軍を内部に招き入れる。その可能性もあるぞ、アサド!」

 ファラシャトの目が険しくなる。


「なるほど、俺を疑っているわけか。よかろう、俺が何者なのか明日になればわかる。これを……」

 言いながらアサドが懐に片手を入れた。

 周りの人間が一斉に緊張する。

 だがその緊張など感じぬようにアサドは三日月型の短剣を取り出すと、ラビンに手渡した。

 それは中原でジャンビヤと呼ばれている短剣であった。


 そのジャンビヤは小振りだが、黒犀の角で出来た鞘には金や宝石で手の込んだ美しい象眼が施してある。柄に嵌め込まれたラピス・ラズリの青がまぶしい。金銅か黄鉄鉱を含んでいるのだろうか、月の明かりに照らされて細かい粒がキラキラと輝いている。ラピス・ラズリの中にさらに大粒の深緑色の宝石が嵌められている。戦闘用というよりは、女性の装身用あるいは儀礼用のようだ。それは見るからに高価そうで、傭兵風情が持てる品では無かった。

「これをカジム将軍に渡して伝えてくれくれ。そして傭兵隊長アサドが、明日の夜、城の南側の砂漠で会いたいと」

 そう言うとアサドはラビンの縄を切った。


 呆然とするラビンに、その碧眼を向けてアサドは続ける。

「申し訳ないが、他の兵は解放するわけにはいかん」

 アサドの独断専行に不満げなファラシャトに向き直って、アサドは静かに語りかけた。

「ファラシャト、おまえも明日一緒に来てくれ。そのほうがいいだろう」

 アサドの眼帯が外され、その義眼までもが本来の青い色であることに気づいたファラシャトは、そこにアサドのなにがしかの決意を読み取って、叩きつけるように返答した。

「もちろんだ。言われなくとも行く。来るなと言われても行く!」



   四


「これがその短剣でございます」

 ラビンの持ち帰ったジャンビヤを見て、イクラース将軍……いや、カジム将軍の白い眉が吊り上がった。

 驚愕と疑念が将軍の老いた身体を包み、まるで自らの記憶の底を揺り起こそうとするようにその眼は短剣から離れない。

 だがそれも一瞬、今度はみるみる顔に怒りが満ちた。


「かような物をわしに寄こすとは、度が過ぎた冗談じゃ!」

 吐き捨てる言葉に、侮蔑がこもる。

「将軍、それは?」

「ん? ああ、こんな偽物。これはな……」

 説明するのも煩わしそうに、ぞんざいにジャンビヤを投げ捨てようとした将軍の手が、止まった。

 ジャンビヤの柄の一点を憑かれたように見つめているカジム将軍の額に、フツフツと脂汗が浮かぶ。


「将軍? いかがなされました」

 不意に将軍は傍らの壺に手を突っ込むと、ジャンビヤの柄に嵌め込まれた深緑色の宝石の上に、水滴を垂らした。

 水滴は石の上でプックリと盛り上がる。

「水…が…盛り上がった? ならばこれ本物の宝玉か――イヤまさか、だがこれほどの大きさの宝玉はめったに…いやしかし…」

 意味不明の言葉がその口から漏れる。あまりの真剣さに、声をかけるのもはばかられる。


 将軍は何度も水滴を垂らしては、その盛り上がりを確認しているようだ。

 東方に産する、この青い宝玉は、水をはじく性質を持つ。

 その上に水滴を垂らせば───

 本物ならば見事な半円を形作る。

 偽物なら水は少しずつ吸い込まれ、平らな丘を形作る。

 やがて、ジャンビヤをしっかりと握ったカジム将軍の老いた手が、小刻みに震えだした。

「う、うおおお……」

 石の上の水滴が地面へとこぼれ、乾いた砂に黒いしみを作る。



■第5章/緑の熱風 第6話/届けられた短刀/終■

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