第5章/緑の熱風 第3話/蜘蛛の糸の天啓
一
身じろぎもできずに、総てを見ていたファラシャトの奥歯が、恐怖に細かくカチカチと鳴っている。
彼女は戦慄していた。
妖魔に、ではない。
いくら相手が妖魔とはいえ、躊躇なく女の腕を喰いちぎってしまったアサドの冷酷さに…。
戦慄の次に、激しい嘔吐感がファラシャトを襲った。
吐く物など何もない空っぽの胃から、しかし強烈な嘔吐感が繰り返し何度も襲ってくる。
冷たい汗が全身から噴き出し、酸っぱい胃液がこみ上げてくる。
口と鼻に強烈な刺激を残して、ファラシャトは胃液を吐いた。
目の前がチカチカと点滅し、赤と緑だけの世界に見える。
あまりにすさまじい体験に晒された脳が、正常な画像を結ぶことを拒否しているのだ。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
心配そうなミアトの声も、どこか遠い。そのままファラシャトは気を失いかけた。
あわててヴィリヤーがその身体を支える。
「どうした? ファラシャトは怪我でもしたのか」
「い…いや、少々刺激が強すぎただけですよ。それよりもアサド殿、大丈夫ですか?怪我は?」
そう尋ねるヴィリヤーの顔も蒼白だ。
いや、その場に居る者総てが視線の定まらぬ蒼い顔をしている。
そう、赤獅団の傭兵達以外は。
彼ら農民兵達は改めて自分たちの隊長を畏怖していた。
「ん……ああ、たいしたことはない」
アサドは口元の血を拭った。
無理な体勢で急激に剣を振るったため、背中の筋肉が少し痛むようだ。軽く腕を回している。
二
黒い粉塵となって崩壊し始めていた妖魔は、もはやその原形をとどめてはいなかった。
だが、リーサンデが作った巣は月光に照らされ静かに輝いている。
「主は死んでも、巣は残るか…」
アサドはじっと妖魔の吐いた糸を見つめていた。
ミアトの火焔にも、焼き切れることのなかった、強靭な蜘蛛の糸。
先ほどミアトが一時的に吹き飛ばした霧が、再び厚くたれ込めだした。
蜘蛛の糸に霧の水滴が付き、満月の銀の光を受けてさらに輝く。
「こうやって見ると、なかなか美しいものだな」
「何を呑気な……」
ようやく吐き気の治まったファラシャトが、かすれ声で言う。
たった今自分たちの命を奪おうとしていたモノではないか…。
だが、幾重にも重なる糸が水滴を纏い、その水滴が月の光に煌めく様は確かに美しかった。
「…昔…母に聞いたことがある。蜘蛛は機織り自慢の娘が、闇の主の呪いで姿を変えられたものだそうだ」
「ああ、私も子供の頃、母に聞いたことがある。母の故郷では、娘があまりに美しい布を織ったので〝
「そんな伝説が生まれるのも、分かるような気がするな、ファラシャト殿」
容赦なくリーサンデを屠った時には考えられない、のんびりした口調でアサドが呟く。
「あんがいこの蜘蛛の妖魔が、その呪いをかけられた娘自身かもしれんぞ」
「姉ちゃんもあんまり生意気な口ばっかりきいてると、妖魔にされちゃうぜぇ」
にんまり笑いながら言ったミアト言葉に、ファラシャトが露骨にむっとした。蒼かった顔が真っ赤に染まっている。
そのあからさまな表情の変化に、アサドとミアトは苦笑している。
三
「帰るぞ! もうすぐ夜が明ける。城の者達が心配する」
腹立ち紛れに、強引に別の話題に持っていこうとするファラシャトだったが、アサド達はその場を動こうとしない。
赤獅団の誰もが、言葉少なに立ち、眼を細めている。
「そんなに慌てなくたって大丈夫だよ、こんなキレイなモノめったに見られないぜ」
「陽が昇ればこの蜘蛛の巣も消える。今だけの美ならば今を大切にしよう」
そう、今は素直に、妖魔と自然が図らずも作り出したこの美を楽しめばよい。
武骨な傭兵部隊の面々に美を愛でる気持ちがあることがファラシャトにとっては滑稽だったが、一理ある。
蜘蛛の糸
霧
そして……
それを見つめるアサド。
不承不承、きびすを返したファラシャトは、それでもアサドの横に肩を並べた。
意識は自然に蜘蛛の巣よりもアサドに向く。
『へぇ、こいつ子供のように微笑むんだ……』
いつもは冷静で無表情なアサドの顔に、まるで少年のような微笑みが浮かんでいる。
いつしか、蜘蛛の巣ではなくアサドを見つめていたファラシャトは、アサドの眼がふいに大きく見開かれ、口元が引き締められたのに気付いた。
「アサド?」
敵襲を予感し、とっさに剣の柄に手をかけたファラシャトの問いかけにも、アサドは返事をせず蜘蛛の糸を凝視したまま、ピクリとも動かない。
新手の妖魔か? …だが、アサドに殺気はない。
「……そう…か」
露に濡れたアサドの頬が、微かに赤みを帯びてきている。感情をめったに外に出さないこの男にしては、珍しい反応だった。
「……そうか」
もう一度、繰り返した。
「……その手があったか!」
ファラシャトのほうへ振り返ったアサドの顔には、大きな笑みが浮かんでいた。
四
アル・シャルク軍による
その間アル・シャルク軍は正面から数度ウルクル軍と激突し、小部隊による戦闘はほぼ毎日のように行われた。
どの戦闘でも勝敗の決着が着くことはなく、意外にも、水を失ってあっけなく陥落すると思われたウルクルは、持ちこたえ続けた。
だが、ウルクルのしぶとさと反比例するように、しだいにアル・シャルク軍の士気は低下していった。
「こんな状態がいつまで続くんだ?」
兵たちの間に厭戦的な気分が広がりだす。
櫛の歯が欠けるように、毎朝の点呼に答える兵の数が少しづつ減ってゆく部隊が増えていた。
戦闘により命を落とした者と同数、いや、それ以上の脱走兵が出始めていたのだ。
総司令官イクラース将軍の勇名をもってしても、その流れは止めようがなく、さらに悪いことにユフラテ大河から得た水が、兵たちの間に疫病を広げつつあった。
イクラース将軍を始めとする司令部の幕僚達は、それら総てを承知していた。
しかし懲罰や見張りが強化されるという締めつけは行われず、やがてアル・シャルク軍の兵たちの間に密かな噂が呟かれだした。
「総司令部ではウルクルを完全に叩き潰す作戦が立てられているらしい。それさえ成功すれば故郷に帰れる」…と。
「そろそろかな」
「そろそろでしょう」
イクラース将軍の言葉に、副将のラビンは相づちを打った。
「カレーズの水を断ってから、はや一月か…」
「この十日ほどウルクル軍の動きが鈍っております。おそらくウルクルの城内には、ほとんど水は残っておりますまい」
中原の多くの城塞国家では、農業用の水は近くの大河から運河によって引き、大麦やナツメヤシを栽培している。牧畜用の水も同じようにして得ていた。
飲料水は潅漑農業用の水をそのまま濾過して使用したり、国によっては別に井戸を掘ったりもする。
ウルクルは交易の中継地として、砂漠の中に人工的に作られた城塞都市であった。近郊に運河を引くに足る大河は、無い。ユフラテ大河はウルクルよりも低地にあり、潅漑のために運河を掘ろうとすれば、膨大な労力と財力を要する。
城内の一万人弱の邑民の飲料水は、
「もともとこの地の地下水は塩を多く含んでいて、井戸水は飲み水に適さぬため、ほとんど掘られておりません」
「多少の塩水なら、羊に飲ませて乳に変えるという手もあるが……ウルクルの民全てを潤すことはできまい。まだ安心はできんが、幸いなことに雨も全く降らんし、降る気配もない。時期が良かったのぅ、天の配剤じゃ」
「これも太陽神のご加護、でしょうな」
その言葉を口にしてラビンは「しまった」という顔をした。
一般の兵達はともかく武官として高位にある者は、アル・シャルクの今日の繁栄が何に由来するものであるのか、充分に承知していたからだ。
「まもなく、本国より応援の兵が来る。…一名……」
「一名、ですか」
■第5章/緑の熱風 第3話/蜘蛛の糸の天啓/終■
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