第3章/白き神官 第5話/黒き胡蝶の秘密
一
アサドとワディ大神官が、再会を祝していた同じ時───
ウルクルの王宮の奥深く、密かな水音が聞こえてくる。
そこは湯殿。
ごく一部の人間しか使用を許されない、特別な場であった。
この地では、庶民は湯になど浸からない。
川で水浴びか、せいぜいが沸かした湯に布を浸し、体を拭くぐらいだ。
乾燥した地域ゆえ、それで充分であった。
暖かい湯の中にいるにもかかわらず、彼女の身体は未だに、小刻みに震えていた。
ファラシャトは、思い返していた……地響きをたてて迫り繰る圧倒的なアル・シャルクの軍勢を。
戦場の恐怖を。
血しぶき
怒号
悲鳴
矢音
車輪の
砂塵
弾け飛ぶ手足………
ファラシャトとて、今回が初陣という訳ではなかった。
近衛隊長として、ウルクル周辺に出没する盗賊団を、討伐した事は何度かある。
だが、あれほどの数の敵との正規戦は、今日が初めてであった。
あの戦いを生き延び、今自分がこうしていられるのが、奇跡のようにも思える。
アル・シャルク軍の戦力は圧倒的で、いかにウルクル軍が井の中の蛙か、思い知らされた。
もし、あの男がいなかったら……。
彼女は肩にも、矢傷を負った。
戦場では興奮していたので、痛みを感じなかったが、今はズキズキと痛む。
幸い、負った傷自体は大したことはなかったが、塩を含んだ湯が傷口にしみる。
傷の治りを良くする薬効成分が、溶かし込んであるのだ。
それが傷の治りを早くするが、痛みはやはり不快だ。
他にも踵の靴ずれや、弓を弾きすぎてできた中指の傷も、ジリジリと痛む。
だが、一刻も早く傷を直し、次の戦いに備えなければならない。
今は痛みに耐えるしかない。
二
………これからだ、まだ始まったばかりではないか。
震えている訳にはいかない!
ファラシャトは息を止めると、頭から湯に潜った。
彼女の長い髪が湯船に、藻のように広がり、
やがて湯の表面に薄く黒い色がジワジワと流れ出す。
その白い肌が、真っ赤になるほどの時間、ファラシャト湯の中で全身を横たえて。
やがて
赤味がかった金の髪へ。
そう、彼女は、その髪を、染めていたのだ。
西方のバルバロ人の血を引くのであろう、淡い青の瞳に白い肌。
鏡の中には、亡き母にそっくりな自分自身がいる。
ウルクル先代太守の妻であった母は、夫の急逝から五年後、再婚した。
ウルクルの代々の太守の血筋は、女系が継承する。
優れた男児が生まれたときのみ、分家を立てることはあるが、本家は母から娘へ、領地も財産も継承されるのだ。
砂漠の都市国家では、しばしば見られる風習である。
優れた男児が、続けて生まれることは少ない。
二代目はともかくとして、三代目となると、平凡な資質しかない息子が多い。
要するに、バカ息子だ。
それゆえ、部族の中で最も優秀な人間を
外部から優れた血を入れ、家業を守るのは、商家でも一般的であった。
婚姻によって、部族の外への繋がりも広がるのだから、一石二鳥。
砂漠の民の知恵である。
ファラシャトがまだ、五歳の頃である。
実の父の記憶はない。絵画で見る父は、やはりバルバロ人で、赤い髪と薄茶色の瞳で描かれていた。
ゆえに、ファラシャトと現在の義父である太守には、血の繋がりはない。
やがては、彼女が選んだ男性が、次世代のウルクル太守となる。
その時まで、ウルクルが滅んでいなければ、という
三
唇をかんで鏡を見つめていたファラシャトは───
人の気配に振り返った。
いつのまに入ってきたのか、彼女の背後に大守がいた。
シミのある骨ばった手が、ファラシャトのむき出しの肩を掴む。
「かわいそうに…こんな傷を…」
大守はファラシャトの頬の傷に唇をよせた。
唇をよせながら、太守はつぶやいた。
「あの男は、雄々しい」
その言葉は、ファラシャトに聞かせているのか、自分自身に言っているのか、判然としなかった。
「男のこの儂ですら、あの男の発する精気が、心を惑わす」
太守の目に怯えと羨望と、同時に恋に浮かれる乙女のような笑みが浮かんでいるのに、ファラシャトは気づいた。
「並外れた肉体と技量、戦場においても大胆不敵な動き……そして智謀。おまけに胆力も並外れている。部下たちは一騎当千、ただの傭兵部隊とは思えぬ剽悍さ。あんな小僧ですら、我がウルクル軍の精鋭部隊も、糧はせぬだろう。しかも太陽神殿の大神官と、
「………………」
ファラシャトは沈黙していた。
そのような解いに答えられるはずもなかった。
答えれば、かの女の心の内に湧き上がりつつある、ある感情を
太守の唇はそのまま、ファラシャトの頬から下へと移り、舌が首筋をなめる。
………それはどう見ても父が娘に与える親愛の口付けではなかった。
「おまえはどうじゃ、ファラシャト?」
ファラシャトの両手がきつく握り締められ、身体が固くこわばる。
「おまえが婿に迎えるには、ちょうどよい年格好じゃ。もし儂が陣中で果てたら、その時はあの男を婿とし、ウルクルの次期太守の座は───」
四
不意に浴室に鈍い破裂音が響き、太守がよろけて後ずさった。
「お戯れはここまでに願います」
赤くなった左頬を手で押さえた太守は、機嫌をとるような笑みを浮かべている。
だがファラシャトはそんな義父を鋭く睨みつけると、足早に浴室から出ていった。
そこには強い拒絶があった。私を追ってくるな、と。
寝台の上で、ファラシャトが身じろぎもせずに横たわっていた。
堅く握りしめていた両手をゆっくり開くと、爪が食い込んでにじんだ血を顔に、髪に、むきだしの肌にこすりつける。
不意に、目に涙がにじむ。
身体を起こすと浴室に飛び込み、素焼きの壷に蓄えられていた水を、身体にぶつけるように浴びだした。
白い肌が水の冷たさに、いっそう白くなってゆく。
涙は水と混じり、もう見えない。
思い出したくない何かを、彼女は必死に封印しているようであった。
同時に、
太守だ。
太守の差し金で、アサドと傭兵部隊の功績を、不当に低く評価したのだ。
なぜ?
理由は、嫉妬だ。
それだけ?
わかってる、理由は私だ。
やがてファラシャトは小さな壷から黒い染め粉を取り出すと、のろのろと髪に擦り付け始めた。
生乾きの髪を、
東方の乾燥した水はけの良い丘陵に育つ、低木の葉から抽出した、特殊な染料。
初秋の頃に刈り取った葉を乾燥させて、粉末にしたものを水などで溶いて使う。
ハーブとして茶にして飲めば胃腸を整え、皮膚に塗れば一時的に皮膚を染める刺青ともなる。
頭髪を
香りもよく、王侯貴族に愛された植物である。
だが、ファラシャトは淡々と、髪に塗り、梳かし、乾かし、を繰り返す。
浴室の鏡に映る彼女の淡い青の瞳は、なにも映してはいなかった。
■第3章/白き神官 第5話/黒き胡蝶の秘密/終■
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