第1章/青き咆哮 第4話/化け物を狩る男
一
「へへえ、顔が赤いよ。やっぱ、お姉ちゃんもオレらの大将に惚れちゃった? まあわかるけどさあ。大将、男前だもんね」
「お黙りっ、このガキ! 誰があんな男なんか!」
半分の不安と半分の期待を胸に、ファラシャトはアサドを見守った。
アサドは静かにジャーヒルに近付く。
だが、勝ち誇る彼はアサドの存在に気づかないようだ。
ジャーヒルの巨体に比べると、アサドの姿はひどく華奢に見える。
傭兵達の間からひそかなざわめきが漏れだした。
「あの若造、何をするつもりだ?まさか…」
「冗談だろう? 血迷ったのか?」
戸惑いと不安が広がっていく。
「おい、ダンダーン! うちの大将がおまえと遊んでやるってよ!」
謁見の間の高い天井に、ミアトの子供っぽい甲高い声が響いた。ジャーヒルにもはっきりと聞こえる声だ。
「ほえ? ダンダーン? おではそ、そ、そ、そんな名前じゃあねえど。おでは……」
「ダンダーンってのは海に棲む怪魚の名前だよ。でっかい象も一呑みにすんだってさ」
楽し気にミアトが続ける。
「そ、それはかっこいいなあ。おでにぴったりだわさ」
「ウン、脳味噌が豆粒くらいしかないとこなんか、そっくりだ!」
「ほえ? の、の、脳味噌? ……お、おでを
からかわれていることに気づき、ジャーヒルの禿頭が真っ赤になった。
みるみる血管が何本も、頭部に浮き上がる。
まるで頭にミミズが何匹も張り付いたようだ。
ドスドスと地響きを立て、ミアトに向かって突進して来る。
「待て、相手は俺だ」
ミアトの胸ぐらを掴もうとしたジャーヒルの肩を、静かにアサドが掴んだ。
「は、は、は、離せ! オデはこのガキを……」
その瞬間、ジャビールの巨体が宙を舞った。
日干し煉瓦を敷き詰めた床に、ジャーヒルが背中から叩き付けられた。
衝撃で煉瓦がピキピキと音を立てて割れ、煉瓦の隙間の砂がほこりとなって宙を舞う。
二
広間を埋めた傭兵達には、一瞬何が起こったのか分らなかった
いや──投げられたジャーヒル本人さえも、仰向けのままポカンとアサドの顔を見つめている。
「まだ、やるか?」
表情ひとつ変えずに、アサドが
やっと自分の状態を理解したジャーヒルは、弾かれたように立ち上がると、赤黒くなった禿頭を振り立て、猛然とアサドに突進した。
「くきえええああああああ!」
何やら悪態をついているのだが、ほとんど半狂乱の絶叫で、意味ある言葉にはなっていない。
アサドに掴み掛かろうとした瞬間、こんどはその巨体がガクンと沈み、そのまま地面に転がった。
「ふんぬがあああああ!」
絶叫と共に立ち上がろうとしたジャーヒルは、しかし再びよろけて地面にはいつくばリ。
二度三度、同じように立ち上がろうとしては、転倒した。
「あ…あで? み、み、み、右足が……?」
ジャーヒルはようやく、自分の右足に視線を落とした。
右足の膝から先に力が入らないのだ。まるで鉛の足枷を付けられたかのように。
この目の前の優男が何をしたんだ? ジャーヒルは自分の右足に手を伸ばした。
指先にねっとりと絡みつく感触、これは……。
「ひぎ?」
ジャーヒルの右足は膝関節から逆に、前方へと曲がってしまっていた。
砕かれた骨が、膝の裏の皮膚を突き破って、飛び出している。
「ななぬがなななななああああああ!」
驚愕とも怒りともつかぬ動物的な絶叫が、その口から発せられた。
「いったい何を……アサドは何をしたの?」
呆然と呟くファラシャトに、ミアトが耳打ちした。
「見えなかったの? 大将、左足であいつの右膝に蹴りを入れたんだ。簡単さ。つっかかって来る相手の膝が伸びきった瞬間に、踵を膝頭にぶち込めばああなるよ」
信じられない……。
走ってくる相手の一瞬の動きを見切って、そんな技を仕掛けるとは。
速さ・技量・筋力、いずれが欠けても成功しない、まさに絶技である。
「まだ、やるか?」
アサドが無表情に訊いた。
静かな口調に変化はない。
彼のまわりの空気はしんと静まっている。
しかしその抑揚のない声と表情に潜む圧倒的な意志の力を、その場の誰もが感じていた。
三
(あれ…だ……)
ファラシャトは背筋に走る悪寒を、必死で押さえながら、アサドを凝視した。
昼間、自分を恐怖させたあの、圧倒的な殺気──
それが今、突如として出現したのだ。
その殺気が自分に向けられたわけでもないのに、周囲の傭兵達は思わず後ずさりしている。
殺気の直撃を受け、その目に驚きと怯えの表情を貼り付かせたジャーヒルは、蒼白となった顔面を激しく上下させた。
そのまま床に突っ伏して、顔を上げようともしない。
先程の惨劇にも愉悦の笑みを絶やさなかった大守さえも、玉座の上で凍り付いている。
「勝負あったね」
ミアトが当然と言わんばかりに呟いた。
「では俺が傭兵部隊の隊長を務めるが、異存はないか?」
アサドの声に、誰も反論しようとはしない。
当然であろう。
ここで彼に挑戦しようという酔狂な人間が、いるわけがない。
「それでは隊を俺の……ん?」
今まで地面に突っ伏して震えていたはずのジャーヒルの手が、いつの間にかアサドの足首をガッチリと掴んでいた。
「げへへ…げはあ……」
ジャーヒルは口元からよだれを垂らしながら、ニタリと笑っている。
だが、それが友好的なものでも、己の命乞いをするためのものでもないことは、明白だった。
「何のまねだ?」
アサドが醒めた視線を送る。
訊くまでもなく、ジャーヒルの目的はひとつ。アサドの足を払って倒し寝技に持ち込み、絞め殺そうという魂胆なのだ。
膝を砕かれた以上、立って殴り合うのはもはや不可能。
だが、寝技ならば、アサドに倍する体重のジャーヒルが絶対有利。
「げへげへげへげへへへへへへ……」
声に狂気の色が滲む。
「があっ!」
気合いもろとも払おうとしたアサドの足は、しかし……
まるで大地に根を張ったかのように動かなかった。
ジャーヒルの顔面に、驚愕と狼狽が貼り付く。
そんな莫迦な! この体勢から倒れない奴がいるなんて!?
四
「が! がっ! があっ!」
ジャーヒルは何度も右へ左へ、後ろに前に、必死に動かそうとするが、アサドの脚はピクリともしない。
ゆっくりとアサドの手が、ジャーヒルの右手首にかかった。
「な、なな、な、な……?」
傍目には大して力を入れたようにも見えない。が、ジャーヒルの五本の指は簡単に広がっていくではないか。
強力な握力で手首を握られると、指を開くときに動く腱が引っ張られて、自然に指が半開きの状態になってしまう。あれだ。
だが、大人が子供の手を握りしめるならばともかく、アサドとジャーヒルの体格差を考えればそれは信じがたい光景であった。
アサドの足首から、ジャーヒルの手が、引き剥がされた。
そのままアサドは、ジャーヒルの右腕を逆手にねじる。
肩と肘の逆関節を決められ、ジャーヒルは激痛に絶叫した。
アサドに決められた肘がピンと伸び、唯一動く左足を必死にバタつかせている。
「ヒアァァァァァァァァウゲェェェェェェエッツェェェェェェェェ…………………………………………!」
ジャーヒルの絶叫がかすれて止まった。
痛みの臨界点を超え、声すら発することが出来なくなったのだ。
と同時に、湿った布にくるんだ石が砕けるように、鈍い音がした。
ボグッ……
「あ…が?」
どこか間の抜けた、しかし本人にとっては必死の声がジャーヒルの口から漏れた。
「み、見ろよ、あの野郎の手首!」
「オイ、ありゃあ……」
「握り…潰した?」
「まさか!」
傭兵達の口から呟きが漏れた。
それは、ジャーヒルの手首の骨が砕ける音だった。
あり得ない…誰もがそそう思った。
いや、思いたかった。
大人が赤ん坊の手を握り潰したのではない。
体格でははるかに勝る人間の手首の骨を、あの若造は片手で握り潰したのだ。
なんと言う握力か。
静寂が闘技場を包みはじめていた。
■第1章/青き咆哮 第4話/化け物を狩る男/終■
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