万感交到る
ばんかん【万感】交(こもごも)到(いた)る
さまざまの感慨がつぎつぎに胸中に起こるさま。
ブラウン管テレビの湾曲した画面に映し出された彼女はとても美しく、二年前まで隣にいた女性だとは思えないほどに大人びた表情を見せていた。
画質は荒いが間違いなく彼女だ。
妖艶な、湿度を帯びた艶。それでいて幼さの残る美しい瞳。
友人と並び、三人でテレビに齧り付く。
異常な興奮を覚えた。
私は小学校四年生時にあの駅も無い田舎町に引っ越した。
全校生徒300人にも満たないこの地の小さな小学校に転入して間もなく激しいいじめが始まる。
男子からも女子からも暴力や嫌がらせを受けていたわけだが、ただ一人全く私に関心を示さず、静かに窓際の席に座って外を眺めている女子がいた。
陽に焼けた薄い褐色の肌。艶のある黒髪を高い位置で一本に括り、すらりとした高めの身長に白いブラウス、チェック柄の膝丈のスカートがとても似合っていた。
私が住んでいる町営の住宅の、別棟に彼女も住んでいた。
小さな田舎町の情報伝達は恐ろしい。
どこから仕入れてくるのか、母親の口から同級生達の家庭環境が次々と伝えられる。
母親はとても人付き合いが上手な人だ。見事にこの地に馴染むことに成功したようだ。
そんな母親の同級生情報の中に窓際の彼女の情報もあり耳を傾けた。少々訳ありな家庭であるようであった。
私が転入してくる少し前に、彼女の母親は他の男を作って家を出て行ったとのことだ。
あとで知るのだが、それまでは活発で女子の中心的な人物であった彼女が一人で過ごすようになったのもその頃だと聞いた。
中学生になり、私へのいじめは過程はどうあれ終わりを迎えた。
だが私の素行は悪化し、父親との問題もあり家を出て友人の家の離れに暮らすことになる。
その年頃になるとある程度人種が分かれてくるというのか、小学生までの壁の無い付き合いから気の合う仲間同士がグループを作るようになる。
部活こそ毎日欠かさず出ていたが、授業もまともに出ずに、めちゃくちゃな行動ばかりを繰り返す私がドロップアウトするのは必然であった。
ある日の校内では授業が行われている時間、体育館裏に行くと先客がいた。
先客は壁に寄りかかり煙を燻らせている。
紺色のブレザーのボタンは留めず、ブラウスの襟元は大きく開いている。
同じく紺色のスカートは短く折り込まれ、足元は白いルーズソックス。
高めの位置に括られた美しい髪の毛は、すっかり幼さの抜けたスタイリングとなっていた。
「あんたもここで?」
少しだけ化粧気のある目を向けて彼女が語りかけてくる。
「あぁ」と頷き、火を着けてから彼女に並んで立った。
言葉は無い。二本の煙が空に溶け合う。
彼女は空き缶に火を押し付けて消した。
袖が僅かに触れ合う距離で私が吸い終わるのを待った。
それからは一本燃え尽きる間にいくつかの言葉を交わすようになり、互いの境遇を話すようになる。
あれは恋愛感情のような華やかなものではなかった気がする。
何か似た境遇を慰め合う、互いの欠けた部分を補い合う、優しく儚い関係であった。
いつかこの時間が無くなってしまう日が来ることが怖かった。
部活後に仕事をして遅い時間に帰宅する。
そんな毎日であったが、休みの前日になると彼女が部屋に来るようになった。
今となってはどんな会話をしていたのか、何をしていたのかも憶えていないような時間を過ごしていた。だが、あの時の私には心が温まる大切な時間であったのは確かだ。
とある時期のこと。学校で彼女を見掛けることが無くなり、部屋にも来なくなった。
久々に体育館裏で会った時に彼氏が出来たことを聞いた。
隣町の中学校の同級生。荒れ放題に荒れていると評判の学校だ。
嬉しそうに語る彼女を素直に祝福した。
綺麗にカールした長いまつ毛が大きな瞳をより一層美しいものにしていた。
その瞳が見ている先には僅かに寂しさを覚えた男がいる。
その日は確か学校も仕事も休みで、部屋でギターを弾いていた時だったと記憶している。急に荒々しく部屋の戸が開かれ、彼女の友人が飛び込んできた。
どうやらポケットベル(当時の主流)に助けを乞うメッセージが流れてきたとのことだ。
今でもあの時の感情と思考は理解に苦しむ。他に解決策もあっただろうに。今ならば即警察に連絡だ。
だが、そうもいかない時と環境はあるのだ。現在でも。
彼女の友人から電話番号を聞き、彼女の彼氏に電話をかけた。
呼び出しを受け、単身向かうことになった。これから起こることは容易に想像できる。大きく溜め息を吐き出し、気合いを一杯に胸に取り入れる。
自転車で隣町へ向かい、土を盛って造られた公園となっている小山を登る。
登った先に待っていたのは正確にはわからないが、ざっと15人程の鉄パイプや角材を持った男達。
それからはもう滅茶苦茶だった。
着て行ったジャケットも燃やされ、乗って行った自転車も破壊され。
現在後遺症が残っていないのが不思議なくらいやられたが、彼女を解放することは出来たようだ。
間に合わなかったが。
顔もボコボコで文字通りボロボロになった男と、美しかった瞳からすっかり光が抜け落ちた女が隣町からゆっくりゆっくり歩いて帰る。
私はなんとか公立高校への進学を決め、彼女も私立の高校へ進むことを聞いた。
大学へ進学を希望していた為、高校の間も部活後に仕事の生活は変わらなかった。
彼女は一年の中頃で自主退学し、その頃には私の部屋に入り浸るようになる。仕事が終わり帰宅すると、既に彼女は部屋で寛いでいた。
別段私は構わなかったのだが、彼女の親は父一人。そうもいかないだろう。
「なぁ、帰らなくていいのか?」
私の問いにしばらく唇を固く結んでいたが、ぽつりぽつりと話し始めた。
急激に体温が下がり始めたような感覚。血の気が引いていく。
逆に頭には血が逆流し、まるで沸騰しているかのように熱を帯びていくのがわかった。
彼女にはよく似た妹がいるのだが、小学生の頃から酒に酔った父親が度々二人に手をあげていたようだ。
見兼ねた母親が二人を引き取ろうとしたが、彼女は拒否した為、妹だけが母親の元へ引き取られて行った。
中学生になると、父親の彼女を見る目は変化する。
ある晩父親は男の欲望を彼女の純潔に塗りつけた。
家は知っている。
泣き叫びながら止める彼女を部屋に残し、父親がいる家に乗り込んだ。
詳細は省く。額と額を零距離の状態で話し、しばらく私が預かる旨を了承させた。彼女の意向もあり警察へ知らせることはしなかった。
部屋に戻った私を虚な目で見上げる彼女。
「しばらくここにいたらいいよ」
光は失ったが美しい大きな瞳から大粒の涙が溢れ出した。
言葉は無い。彼女の隣に腰を下ろす。
肩が触れ合い、互いの体温が伝わる距離。
自然、凍えた二人は体温を確かめ合った。
空に舞う紫煙のように溶け合う。
「東京に行って仕事しようと思う」
高校の卒業が目前に迫ったある朝、コーヒーを飲みながら突然に口を開いた。
聞くと憧れの仕事があるらしく、住み込みで働かせてもらえることになったようだ。一言の相談も無かったことには少々思うことはあったが、彼女が前に進むことは素直に喜ぶことにする。
私が卒業し、この部屋を出る時に一緒に出ると決まった。
時間というものは名残惜しく思う程に早く流れるようだ。
随分と長いこと世話になった友人の両親に二人で挨拶をし、この期間に亡くなっていた友人の仏壇に線香をあげ家を後にした。
仙台駅まで車で送り、新幹線改札前で握手を交わして別れた。
就職したは良いがすぐに退職。
学歴、スキル、資格無しの再就職は厳しい。
派遣やアルバイトをしながらなんとか二年食い繋ぎ、なんとか成人式を迎える。正直出席する気は無かったのだが、彼女のことも気になり出席を決めた。
当日彼女は出席しなかった。
出席はしなかったのだが、私の心に大きな爪痕を残すことになる。
その頃には中学時代の遺恨は薄れており、地元にも親しい友人が数人出来ていた。その友人の一人が一枚のDVDを私に見せる。
「知ってた?」
知らなかった。信じられない。名前は芸名だろう。だが、パッケージは彼女の姿だった。
ブラウン管テレビの湾曲した画面に映し出された彼女はとても美しく、二年前まで隣にいた女性だとは思えないほどに大人びた表情を見せていた。
画質は荒いが間違いなく彼女だ。
妖艶な、湿度を帯びた艶。それでいて幼さの残る美しい瞳。
友人と並び、三人でテレビに齧り付く。
異常な興奮を覚えた。
不思議な感情。
やるせない。
どうしようもない。
どうしてあげることも出来ない。
辛いのだ。
私は確かに辛いと感じている。
だが何故だろう、胸は高鳴っている。
若い身体は本能の赴くまま。
後日彼女の親しい友人に、彼女のこの二年を聞いた。
成人式の前に一度電話で話したそうだ。
その時の様子は終始明るく、成人式には出席すると言っていたとのこと。
だが彼女は出席しなかった。
成人式の前の晩、睡眠薬の多量服用によって彼女はこの世を去っていた。
あれは恋愛感情のような華やかなものではなかった気がする。
何か似た境遇を慰め合う、互いの欠けた部分を補い合う、優しく儚い関係であった。
いつかこの時間が無くなってしまう日が来ることが怖かった。
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