第4話:勝負の前

 スタジアムに着くと、夏樹は手早く受付を済ませて選手用の更衣室へと向かった。

 受付の女性曰く、今回のセレクションはメインスタジアムでは無く、周囲に併設された人工芝コートで行われるという。流石に無理だろうとは思っていたが、どうせならあの広大な、美しい天然芝の上でプレイしたかったとも思う。


 うちっぱなしの建物の階段を上り、夏樹は重い鉄製の扉を開く。すると、クリーム色の室内では既に三人ほどの選手が身支度を行なっていた。自分と同世代か疑わしい筋骨隆々な無頼漢風の青年と、陸上選手のような細く絞られた筋肉の青年。そして、最後の一人は笑顔を携えながら夏樹の方へと歩み寄り、肩をかけた。


「よお、夏樹。遂に来たな!」

「おはようございます長谷川先輩。今日も元気っすね」


 短く整えられた黒髪をワックスで逆立てた好青年は、長谷川稔。夏樹と同じ青城高校サッカー部に所属する二年生である。往年のベッカムを彷彿とさせる髪型と同じく、卓越したパスセンスとキック技術を持つMFである。


「そりゃそうよ。二年間ずっと一人だった場所に、漸く知り合いが来てくれたんだからな」

「そう言って貰えると、頑張った甲斐があります」


 夏樹は肩を組まれたまま、長谷川と笑顔で会話をする。二人は先輩と後輩という関係でありながら、一年前の梅雨以来、放課後の自主練習を毎日重ねて来た戦友でもあるのだ。


「というか、お前。なんで制服なんだよ」

「え?」


 夏樹が視線を巡らすと、長谷川のロッカー前に、青城高校の試合用のジャージが整然と畳まれていた。


「こういう場所ではジャージが基本だぜ? さてはお前、緊張してるな?」

「……正解です」

「あんまり硬くなるなよ。俺の見立てじゃあ、夏樹が選考通る確率はかなり高いと思うぜ」

「なんでそう思うんですか」

「なんと無く。あはは!」

「なんすかそれ」


 苦笑する夏樹の肩を叩くと、長谷川は更衣室を出ていった。


 三々五々と選手が集った室内には、選手達の話し声とスプレーの音が響く。一際大きな声でおちゃらける男と、それを笑う声が耳を刺す。差し詰め、緊張をごまかしているのだろう。


 大袈裟な身振りをする集団を一瞥しつつ、黒の練習着姿の夏樹がスパイクの紐を結んでいると、声をかけられた。


「お前、青城か?」

「そうです」

「通りでアイツと仲良さげな訳だ」


 蝶々結びを終えて見上げると、先ほどの無頼漢風の大男がいた。その顔には、高校生らしからぬ肉体と同じく、30代の成人男性のような無精髭を生えている。


「明光高校二年CB、石岡だ。長谷川とは二年間ここでチーム組んでた。よろしく」

「青城高校一年FW大澤夏樹です。初めまして」

「フォワードか。ならば紅白戦で戦うかもしれんな」

「もちろんです。負けませんよ」


 握手する二人。すると、石岡の手は所々の皮が捲れており、ヤスリのような凹凸があった。


「掌、痛そうですね。ウエイトトレーニングの影響ですか?」

「大正解。最近110上がるようになったぜ」

「凄いです。僕なんて80が限界ですよ」


 夏樹は目の前の男を観察する。しかし視線は、その石膏像のような肉体では無く、膝に巻かれた白い布に向けられた。


「膝、悪いんですか……?」

「ああ。インターハイで少し無茶をしてな。関節を一回やっちまった」

「成る程。お大事にして下さい」

「ありがとう。だが試合中の遠慮はいらんぞ。正々堂々、互いにベストを尽くそう」

「勿論です。楽しみにしてます」


 知人に話しかけられた石岡がいなくなった後、夏樹はロッカー前の席に座り、物思いに耽った。

ウエイトトレーニングを行なっていることは本当だとは思うが、彼は一つ、


 石岡竜也を初めて観たのは、昨年のインターハイ東京都大会準決勝。来る決勝の対戦相手を見に、チーム全体で駒場スタジアムへと向かった時だ。選手達の走力を活かした堅実な守備を行う明光に対し、敵チームは一人一人の選手の距離をとったパスサッカーを展開するなど、双方の戦術が生かされた熱戦であったのを覚えている。

 

 同点のまま迎えた後半の終了間際。体力の限界を迎えた明光の守備を掻い潜った一人の選手に、石岡が無茶なディフェンスを行った。ドリブルする選手に後ろから足がかかった瞬間、会場全体がどよめき、石岡に対する非難の声が会場に巻き起こった。そして石岡は、自身の膝を負傷するばかりか、相手にPKを献上。それを落ち着いて決められ、明光は準決勝で敗者の沼へと消えた。

 

 タンカで運ばれる最中、大声を上げながら泣く石岡の姿を見て、責任感の強い男だと思っていたが、どうも違かったらしい。皮のめくれた手。

 あの傷は、人を殴った際に起こるものだ。

 

 拳を固定しない状態で頬骨や顎を殴ると、摩擦によって手の甲や中手指節関節の皮が、乳酸菌飲料の蓋のように剥ける事があるのだ。そしてその傷は、独特な赤い染みのような発疹を伴う。彼は、ウエイトトレーニングによるものだと言ったが、それは掌に限る。用具を掴んだ際に、摩耗による切り傷やタコができることはあれど、手背を怪我する事など有り得ない。

 

 さしずめ、インターハイの鬱憤を誰かにぶつけているのだろう。幾らトレーニングをしても晴れることのない透明な呪いを、拳を媒介に発散しているのだ。

 

 発散相手の詳細に興味はない。しかし、あの屈強で名声もある男でさえ、例の呪いには簡単にかかってしまうのだと考えると、少し恐ろしい気持ちになる。

 

 夏樹は手を目の前で組み、もたれかかるように目を閉じる。

 

 この呪いを逃れる方法は、一つだけだ。

 勝つ事。青春時代に対面する全ての競争に、勝つ事でしか、救われやしないのだ。受験、恋愛、部活動。多岐にわたって存在する同世代との競争を勝ち抜き、俺は呪いを被る事なく、未来へ生きる。今日はその前哨戦、まずは関東選抜に入り込まなければならない。


『選手の皆様はピッチに集合して下さい』


 館内音声に誘導され、ぞろぞろと流れる選手達。夏樹は最後にコートへと向かった。

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