誠実なモンスター
あの日、顔を真っ赤にして告白してくれた彼に対して私が返した言葉は、
「え? あ、はい」
だった。
驚いて口から飛び出たそれを、彼は交際開始の同意と受け取ったらしい。
嬉しそうに笑って連絡先を交換し、お昼は一緒に食べよう、今週末は遊びに行こう、手を繋いでも大丈夫? などとはしゃいでいる彼に、
「や、別に私、貴方のことを好きなわけじゃないんで。うっかり頷いてしまっただけなので、お付き合いは無理です。ごめんなさい」
と言うのは、かなり難しい雰囲気だ。
これに加え、私は碌でも無い奴だった。
そもそも私は人嫌いの潔癖症で、特に、興味のない男性に必要以上に近づかれると嫌悪感を覚え、相手の意図にかかわらず、触れられると殺意を覚える。
だが、何故か彼だけは平気で、キスができるくらい顔を近づけたとしても、吐き気も嫌悪感も全くもよおす恐れが無かった。
繋いだ手が温かくて笑みがこぼれたくらいだ。
これは私にとって、かなり稀な事だった。
告白されたこと自体が初めてで、好きな人間ができたこともなく、男性に対して過激派な私だ。
この日を逃せば、一生独りぼっちの恋人すらいたことのない寂しい人生を送ることになる。
それなら、一度くらいは男性と付き合ってみても良いかもしれない。
そんな最低な事を考えて、誤解を放置した。
そうすれば当然、私たちは付き合うことになる。
早速、帰り道を一緒に歩き、家まで送ってくれるのだと彼は言った。
「君の優しい笑顔が好きだよ」
微笑む彼に、
「私も、貴方の笑顔が好きよ」
と、笑顔を返した。
彼の笑顔は嫌いじゃない。
少なくとも、好意的に捉えられる。
けれど、恋愛的な意味であるかは、私にさえもよく分からない。
だから、半分本当で、半分嘘だった。
そんなことを、ずっと続けていた。
付き合って時が経てば経つほど、彼は非常に良い人で、私を愛しているのだと思い知らされた。
別に、私が調子に乗っていたり、自惚れていたりするわけじゃないと思う。
彼は重い物を率先して持ってくれたり、体調を気にかけてくれたりと、日常的によく気遣ってくれるし、私の変化にも聡い。
よく私のことを見ているのだと思う。
何か言葉を話せば、ニコニコと笑って熱心に話を聞いてくれた。
よく可愛いや好きを言ってくれて、時折プレゼントをくれたり、二人で楽しく過ごす方法を一生懸命に考えたりしてくれる人だった。
私を大切にしているのだとキチンと表現してくれて、彼の放つ優しい雰囲気に癒された。
そして、だからこそ罪悪感を募らせた。
付き合って半年も経つのに、私の感情が親愛であるのか、恋愛感情であるのか、全く分からないのだ。
『私みたいな自分の心すら分からない屑に、いつまでもこの人を付き合わせるわけにはいかない。きっと彼には、優しくて、愛情深い女性が相応しいのだろうから。だから私は、彼と別れてやるべきなんだ。でも、どういう訳か、はなれたくない。愛ならいいんだ。私の彼への感情が、ちゃんと色恋のものであればいいんだ。そうすれば、はなれなくて済む。彼への好きという言葉が、ちゃんと本当なんだって、実感しながら語れるようになるんだ』
酷くこじらせているのは分かっている。
けれど、優しい彼に誠実さを返すためにキチンと自分の気持ちを理解して、可能なら、愛情を返してやりたいと思った。
そうして、死ぬまで、あるいは死んでも一緒にいたいと思った。
だから私は、彼を自宅におびき寄せた。
「お邪魔します。相変わらず、綺麗でかわいい部屋だね。なんか良い匂いがする……って、ゴメン。気持ち悪かったよね。えっと、お邪魔します。えっと、ごはん、ご馳走になります……」
彼は顔を真っ赤にして、挙動不審にモコモコのクッションの上に座ると、突如立ち上がってクッションを退かし、今度は冷たい床の上に座った。
言葉もモゴモゴとしているし、急に敬語になっている。
恋人の家に来るのに、酷く緊張しているのだろう。
今回が初めてではないのに、本当にかわいらしい人だ。
そして私は、夕飯で彼をおびき寄せ、恋愛感情を持っているか否かの実験をしようと試みている悪いモンスターだ。
私は台所ではなく、彼の隣へとスッと歩み寄る。
そして、おもむろに彼の頭を抱き締めると、強制的に彼の顔面を自分の胸元に押し込んだ。
勢い的には、獲物を捕食するタコだ。
そして、被食者が驚いて固まっているのをいいことに私は上から彼の髪を嗅ぐ。
いや、嗅ぐどころではない。
夢中になって嗅ぎまわした。
「え!? ちょっと、急に何? て、照れるな。え? あの、嗅いでない? なあ、ちょっと? 恥ずかしいって。あれ? 終わらない? え?」
彼は、照れたり恥ずかしいことがあったりすると、一気に口数が増える。
私に今日みたいな抱き締め方をされるのは初めてで、困惑してしまったのだろう。
連呼される私の名前と、真っ赤で熱い頭部、彷徨った後、そっと私の腰を抱く両腕に何故か口元がニヤついた。
『良い匂いだ。何故かは分からないが、凄く好きな匂いがする。あと五時間くらいこうしていたい。温かくて癒されるし、かわいい。私の心臓と一体化するまで、強く抱き締めたい。これが、世で言うところのキュートアグレッションなのか? 私は、彼を愛しているのか? というか、これ、病みつきになりそうだ。毎日でも抱き締めたい。そうだ、ちょっと悪戯をしよう』
心臓に激しく熱が溜まって、彼を潰しかねないほど抱き締めたくなった私は、代わりに、彼の耳にキスを落とした。
「え!? 不意打ち過ぎじゃない!? ちょっと、あれ? ねえ、何回するの!?」
心臓が高鳴り、思考が求めるままに計五回以上、キスを落とした。
鼻の奥に残る清潔でほのかに甘い彼の匂いと、抱き締めた体温、唇に染みついた熱い柔らかさの余韻に浸りつつ、ホウッとため息をつく。
耳から唇は放したが、まだくっついていたくて、彼のことは抱きしめたままだ。
『すごく満たされた。もう一度、じゃなくて、ええと、どうなんだろう。心臓が激しく鳴って、全身が熱くて、いてもたってもいられなくなる。酷く興奮しているのは感じるんだ。けれど、これが、愛? 愛でいいのだろうか? 癒しに群がっているだけじゃないのか? 大好きなお友達に愛着を覚えているだけなのか?』
彼のことを好きな自覚はあるが、まだ微妙に、恋愛なのかそれ以外なのかが分からなかった。
ハグは、外国では誰とでも簡単にするイメージだ。
彼以外を胸に押し込めようとは思えないが、ハグそのものは、家族や強く親愛の情を抱いている人にならできる。
耳にキスも、数十万と引き換えに女性相手になら出来ないこともない。
だから、潔癖症で過激派の私が、「愛している男性」にしかできないことをしてみようと思う。
無意識に酷く甘くなる声で、彼の名前を呼んだ。
「なに?」
彼が渋々、私の腕の中で顔を上げる。
真っ赤な頬と、潤む瞳が可愛らしい。
怒ったような、困ったような甘い表情に確かな愛しさを感じて、碌に手入れされていない荒れた唇にくぎ付けになった。
どうしようもなく瞳が歪んで、口の端がつり上がるのが、嫌でも分かってしまう。
これからすることに吐き気を催さないだけでなく、むしろ積極的にしたいと願ってしまったところに、ようやく答えを見いだせた。
『……愛してる。分かっちゃったけど、キスがしたい。いつもの軽いものじゃなくて、強くて甘いものを。いいでしょう? これから語る愛も、過去に語ってきた愛も、本物だと分かって気分がいいんだ。どうせ、分からなくたってする予定だったんだから、答えが分かっても、していいでしょう?』
私は再び彼を強く抱き締めると、最愛の唇を奪い、貪った。
驚いて漏れる不明瞭な声と、漏れる吐息が鼓膜を揺らす。
初めは逃げがちだったのに、落ち着くと貪り返してくるのが愛おしい。
彼のキス顔が見たくて、こっそりと目を開けた。
すると、彼の方も目を開けて、私のキス顔を拝んでいたことが判明した。
愛情に満ちた瞳が交差すると、彼が慌てて目を
そうして目のふちに涙が溜まっていくのを楽しんだ。
やがて、胸が愛しさで満ちると、私たちは唇を離した。
「愛してる。ずっと、永遠に、一緒にいましょう」
両頬に手を添えて穏やかに囁くと、彼が表情を明るくし、ギュッと私に抱き着いてきた。
彼の顔面が私の胸に埋められており、お尻の辺りでは透明な尻尾がブンブンと揺れているのが見える。
「かわいい。そんなに私の胸が好きなの?」
透明な耳の生えた頭をワシワシと撫でると、彼が不満げに口を尖らせた。
「何で、この良い雰囲気でそういうこと言うの。胸は好きだけど、そうじゃなくて、俺は、君が俺のことを『愛してる』って言ってくれたのが嬉しかったんだ。その言葉を言うのが初めてだって、気づいてる? 俺は、もう何回も愛してるって言ったのに、君は、それだけは言わなかった」
腕の中の彼が、寂しそうに獣耳をヘタレさせた。
確かに過去を振り返っても、好きや格好良いを言ったことはあったが、「愛してる」を言ったことだけは無かった。
というより、感情を理解していないのにその言葉を使うのは不誠実が過ぎると思ったから、言えなかったのだ。
酷く落ち込む彼に罪悪感と愛しさを覚え、慰めるように何度も頭を撫でた。
「ごめん。でも、これからは何度だって言えるよ。それに、好きなところをいくつも挙げられる。まず、よく笑って感情がきらめく瞳と、たまに変な寝癖がついてる黒髪が好き。あと、爽やかで清潔で、不思議な匂いが好き。でも、汗きらめく姿も好き。今度卓球でもしようね。白い頬がすぐに染まるのも好きだし、涙目になるのも好き。私のことをよく見ていて、言葉をきちんと聞いているところが好き。おしゃべりなのも好き。あと、私が『愛してる』って言えないでいたことに気が付いていて、ひっそり気にしていたところも可愛い。あ、これは私が最低なだけか。他にも」
言い出せば止まらない。
いくつも好きなところが出て来て、脳と心臓が弾けそうだ。
これほどの愛を持っておきながら自覚がなかったとは。
自分自身に引いてしまう。
けれど、これだけ話せるということは、自覚の無かった今までだって彼のことを愛していて、よく見ていたということだろう。
気が付かない間に、私は彼の限界オタクになっていた。
「待って、どうしたの? なんか、急にギアを上げ過ぎじゃない? あの、嬉しいけど、落ち着いて?」
ポンポンと背中を叩き、落ち着かせようと微笑む彼だが、逆効果だ。
心臓に熱が溜まり、全身の血液がグルグルと回って仕方がない。
若干眩暈がするレベルだ。
「無理。好きで落ち着かない。そうだ、何かしてほしいことは無い? できることなら、何でもするよ。お願いはある?」
そう問いかければ、彼は赤い顔で「何でも……?」と呟いた後、ブンブンと首を振った。
そして、しどろもどろに目を泳がせた後、
「え、えっと、そうだ。そもそも。夕飯をごちそうになりに来たんだった。君のご飯が食べたいな」
と、照れくさそうに頬を掻いた。
「え? 私を食べたい?」
「ご飯だよ?」
真っ赤な彼があまりにも可愛らしかったので、一時的に耳が遠くなったふりをしたのだが、冷静に訂正されてしまった。
何なら私が彼を食べたかったのだが、残念だ。
それはまた、別の機会にしよう。
「分かった。じゃあ、貴方の好きな唐揚げと、豚の生姜焼きを作るね。それと、前に美味しいって言ってくれた常備菜があるから、持って来るよ。お酒飲む? それとも、お茶とかジュースの方が良い?」
ギアが上がりっぱなしで、いつもよりもマシンガントークになってしまう。
走り出しそうだ。
そんな私に圧倒されながら、彼が赤らむ頬を掻いた。
「えっと、お茶が良いな。それと、その、さっきは言いそびれたけど、俺も、愛してる。ずっと一緒にいよう。ええと、俺も、好きなところを言った方が良いの? って、うわぁ!」
彼は私を誘惑するプロに違いない。
かわいい照れ顔に全ての意識を奪われ、つい、甘え倒してしまった。
夕飯の時刻が遅くなったのは確実に私のせいなのだが、彼も、ちょっぴり悪いのではないかと思う。
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