2章2話 日常の変化


 最後尾でも最前列でも無い場所で、俺は講義を受けながら今日の夕飯についての献立を考える。

 同居人が増えてから、一ヶ月ほどが経って、山に囲まれたこの街でも少し暑い日が増えてきていた。

 

(季節には早いが、たまには冷やし中華でもいいか。祖父さんはいいが、詩音は嫌じゃねぇかな)


「よう、楽。何か噂じゃ子連れになったんだって?」


 そんな、自分でも所帯じみていると思うことを考えていたからか、横から聞き慣れた声でそんな言葉がかけられる。


「どっからの噂だよ……いや、まぁわかるが」


 俺は、そのままどかりと腰を下ろした友人に顔を向けながら、同時に噂の元も想像できてため息をついた。


 落合健一おちあいけんいち


 高身長に細身の体型で、顔も小さく整った容姿相まってどこかのモデルのようで、少し薄汚れた白衣を着ているのも、医療系のドラマなどで出てきそうだなと思うほど似合っている。

 外見だけなら、正直目立つのはそこまで好きではない俺にとってはお近づきにならないタイプだが、大学で最も仲の良い男友達は誰だと言われれば、こいつを思い浮かべる位には気の知れた仲だった。


「で? デマか? 事実か?」


 生徒たちが集まってきて増した喧騒に、少し近づいてそう言った健一からは、ふわりと着ている白衣から少しだけ薬品の香りがする。理学部で物理学科に所属しているクセに、こいつは化学にも興味があってそちらにも出入りしているからそのせいだろう。

 経済学部の俺とは本来関わりがあまりなかったが、一回生の時の選択授業でちょっとした縁から仲良くなり、毎日一緒に遊ぶと言うほどではないがこうしてよくつるんでいた。


「姉貴の子供を預かることになってな、茜には買い物に付き合ってもらった」


 淡々と俺がそう言うと、健一は、まぁそんなとこだろうな、と笑いながら、続けて言った。


「でもまぁいい雰囲気なんじゃねえの? 女子が何人か教えてくれたぜ? シス法の南野さんと連れ立ってで親子みたいだったってな。そのへんどうなんよ」


「幼馴染だ。それ以上でも以下でもねぇよ。それにしても相変わらず勝手に噂が舞い込んでくるやつだな」


 この間も詩音の買い物に付き合ってもらったのだが、それを見られたのだろう。更に言うと、かな、と思って俺はやれやれ、と隣に座った友人を見た。

 端的にいうとこいつはモテるのだった。繋ぎを頼まれたことも一度や二度ではない。


「人気者は辛えことで」


「それで情報が集まるなら悪くないさ」


 お互いにそれを分かった上で俺がそう言うと、健一はさらりとそう返して、そして改めて尋ねてきた。


「で? 何かできることは?」


「…………今のとこは」


「まぁなんかあれば、色々大変そうじゃん?」


 こういう風に、自然と手助けを口にするやつでもあるから、余計にモテるわけだ。


「サンキュ。まぁ実際、ただ小学校に通い始めたんだが、これまた色んな用意が大変でよ」


「小学校の用意か。考えたこともないけどそんな大変なんだな」


 健一がふうん、とでも言うように軽い感じでいうので、俺はあれこれと苦労した週末を遠い目をしながら語る。


「ちょっと親……俺の場合は姉貴と祖父さんだけど、感謝しちまったよ」


「へえ? 何が一番大変なんだ?」


 そんな俺に、健一は少し珍しそうな顔をして続きを促した。

 それに、俺は断言するように言う。


「……名前を書くのが大変なんだよ。まぁ時間割の把握とか、アイロンとか、防犯ブザーとか用意するのもあれこれあったけど、それより何より名前だ」


「名前なぁ、ノートとかハンカチとかそのへんに色々書かないといけないのは面倒そうだなぁ」


 そう、俺もやる前は健一と同じような感覚だった。

 まぁ、大変というより面倒だよなと。

 違うのだ。面倒でもあり、本当に大変なのだ。


「まぁノートとかに名前を書くのはわかるわな……でもそれだけじゃねえんだぞ?」


「圧が強えな……まぁ聞いてやろう」


「算数カードとかあんだろ? あとおはじきとかよ。あれ一つ一つバラして全部にひらがなで名前書いてくんだぜ?」


「一枚一枚? マジ?」


「マジもマジだっての。バラけたときとかに、ちゃんと自分のだってわかるようにってな……名前シールとかもあるけど、枚数も多いからもう書いちまえと思ったんだが……」


 そう言って俺は手をぶらぶらさせる。

 それを見て健一はくっくっと笑った。そんな笑い方一つとっても、どこか様になるやつだったが、嫌味でもない。


「なるほど、パパも大変だな」


 いや、嫌味はなくとも揶揄は多分にあるか。

 事情は深くは聞かずに、でもそのまま会話のネタにはしてくれるスマートさが助かるが。


「叔父だ叔父……ほんとは兄にでもしたいとこだが」


 そんなことを感じながら俺はぼやくように言った、


「ふふふ、でもまぁいいんじゃねぇか?」


「何がだよ?」


 俺が怪訝そうな顔でそう言うと、健一はまたニヤッとして言った。


「自分じゃ気づかないだろうけどな、その話の間、結構いい顔してんぞ? お前」


 そう言われて、俺はふと頬に手をやる。

 それを見て、健一は可笑しそうに笑うのだった。

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