1章5話 わがままでいいんだよ


「こら」


 俺は、詩音の額にパチンと弱くデコピンをした。


「っ…………え?」


 衝撃に、反射的に声を出した後で、ぽかんとして俺を見る詩音の瞳は、先程の瞳の色から驚きと疑問に置き変わっている。

 いきなりそんなことをされれば、驚きもするだろうとわかりながら、でも、どうしても我慢できなかったのだ。

 俺が言えた義理じゃないのかもしれないが、それでも。


「うん、それでいい。そんな色を、ガキの時分から目に慣れさせるんじゃねぇよ…………さて、買い物に行くのにちょっと着替えてくるわ。茜とちょっと待っててくれ」


 俺がそう頷いて、ついで茜を見ると、茜は少し呆れたような、でも仕方ないなという空気を出して頷いた。


「はいはい……それにしてもよく考えたらあんた昼過ぎてるのにそれ寝起きのままでしょ? 相変わらずバイトがない日は自堕落に過ごしてるなぁ」


「いや、良いだろが。今日はどこにも行く予定は無かったんだから」


 そして、肯定に続いて出てきそうな小言にひらひらと手を振りながら、俺は部屋へと向かい、手早く着替えを済ませるべく服を漁り始める。

 詩音は理由がわからずデコピンされて何だと思っているかもしれないが、きっと少しだけ、茜がいい具合にフォローしてくれるだろうという甘えもあった。

 こういう時に、俺の幼馴染は、なかなかに頼りがいがあるのだ。



 ◇◆



「ごめんね、びっくりしたでしょ……怒らないであげてくれると嬉しいな。その、悪気は無いのよ? まぁそれがたちが悪いという話もあるんだけど」


 背中を向けて部屋に歩いていく楽さんにため息を付きながら、茜さんが僕にあはは、と申し訳無さそうにそう言葉をかけてくれる。

 でも、僕は怒ってはいなかったので、首を振った。


「怒ってないです、ただ、びっくりしただけで……それに、その、凄い優しい感じがしたから」


「うん、楽はね、無愛想なとこもあるから勘違いされることもあるんだけどさ、良いやつだよ」


 そういう茜さんもまた、とても優しい目で楽さんの立ち去った方に目を向ける。

 それを見て、僕は、なんだかいいなぁと思ってしまった。

 さっき会ったばかりだけど、全然知らない人達なんだけど、何故か、凄く安心してしまう。


「もしかしたら。同族嫌悪的なものだったのかも? 楽もさ、さっきの詩音くんみたいな目をしてることが結構あったから」


 そして、そんな僕に対して、茜さんが笑いかけてくれながらそう言った。


「目、ですか?」


 僕はそう首を傾げながら呟く。


「そうよ。何かを諦めてでも、頑張っていい子にしようとしてる目。まぁ、まだまだ子供だって言われてる私が偉そうに言えたもんでもないんだけど、子供はもっとわがままでもいいもんでしょ」


 そう茜さんが笑って、僕は少し困ってしまった。

 お母さんはずっと仕事で、保育園の先生にも、学校の先生にも、『いい子』でいたら褒められて、お母さんもその時はつかれた顔じゃなくてホッとした顔だったから。

 わがままを言って良いなんて、考えたこともなかった。

 よく出来た子だねと、ずっと言われて、これでいいんだと、早く大人になったらお母さんが助かるんだとずっと思っていたから。


「よく、わからないです」


「……まぁそうだよね、とりあえず楽は心配してるってのだけわかっててくれればいいよ。小学校も転校になるし、なんていうかさ、この家でも気疲れしちゃうと保たないから。そういうことを言いたかったんじゃないかなと思うんだよね、多分、きっと」


「……はい」


 正直、まだちゃんとわかっていない気がするけど、何故か僕は先程のオムライスの味を再び思い出してしまった。

 とてもとても優しい、安心できる味。


 そして、僕が食べ終わったお皿を見ていたからか、茜さんがニッコリと笑って言った。


「……意外なほど美味しかったでしょ?」


「はい、でも、おじさん……あ、楽さんは料理が上手だってお母さんも言ってたので」


 それに僕がそう言うと、そっか、と茜さんは言った。

 笑顔からふと変わってしまった、どこか寂しそうなその表情を見て、また、僕はいけないことを言ったかな、と慌てるけれど。


「あ、大丈夫大丈夫、ちょっと懐かしくなっただけだから……もう、本当にだねぇ、詩音くんは。でもそっか、奏音さん、楽のことは話してたんだね」


 茜さんの言葉に、僕が余計なことを言ったわけではないことがわかってほっとしつつお母さんのことを考える。


 お母さんは、こう言ってはなんだけど、あまり料理は上手じゃなかった。

 でも、「ごめんねぇ、何度やっても美味しくならなくて」といいながら、決してまずい訳でもないけれど美味しいわけでもないチャーハンを作ってくれるたびに聞かされていたものだ。


『楽、つまりは詩音のおじさんはね、昔っから料理だけは凄い上手だったんだけどねぇ』


『へぇ、じゃあいつかは食べてみたいな。でも、僕はお母さんのご飯も好きだよ』


『詩音はかわいいなぁ、私の宝物だよ!』


 だから、ドキドキしながらも楽さんが作ってくれたオムライスを見た時はとても楽しみで、そして、食べたらお母さんの言葉が本当だったとわかって――――。


「よう、用意できたぞ」


 そこで、僕は楽さんの声で思考から引き戻された。


「遅いよ、楽。着替えるだけにどれだけ時間かかってたのさ」


 茜さんが、少し文句を言って、それに楽さんが頭をかく。


「そんなにかかったか? ……詩音も待たせてわりぃな。ひとまず行くか」


「おけ、イオンでいいよね」


「あぁ」


 そうやり取りをして立ち上がる茜さんに続いて、僕も立ち上がった。


「じゃ、とりあえずうちまで歩こうか、すぐそこだけど、車があるからね」


「え? 車運転できるんですか?」


 僕の言葉に、茜さんがにっこりと笑って言う。


「うん、もちろん。坂も多いし冬は凍るから、車は必須でさ、私も楽も取れる年齢になってすぐに免許は取ったからね、私の愛車を見せてあげよう!」


 明るい茜さんにぶっきらぼうだけど料理の美味しい楽さん。二人はどちらも優しくて。だから、チャイムのときはとてもドキドキして不安で泣きそうだった僕だけど、なんでだろう、今度はホッとして涙が出そうになったんだ。

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