第3話
「30分したら食器を下げに来ますからね。急いでお食べになって下さいよ!」
給仕の仕事など面倒でやってられるかと言わんばかりに、ロザリアは僕の部屋から出て行ってしまった。考えてみればこれも、まったく以前のままだ。
5歳だった当時の僕は、こうして彼女の姿が消えたあと、嫌々ながらも腐った料理を口にし、そうして案の定、腹を下して大変な目に会っていた。苦痛にあえぐ僕のそんな姿を、ロザリアは実に楽し気な目で意地悪く見ていたものだったが。
『こんなの、食べる訳ないだろ…』
これがただの夢ではなく、現実のことだとわかった今の僕は、5歳児であって5歳児ではなかった。身体は子供のままでも、魂や記憶までもがそうではないのだ。
「…………」
食器を手に取った僕は、皿の上の腐肉を暖炉の灰の中に放り込んだ。そして上から丁寧に灰をかけて見えないよう埋めてしまう。
本当は窓から放り投げたいところだけど、子供の身長では窓も開けれないし届かないのだ。
こんな所に隠していても、いずれはきっとバレるだろう。だが、どうせ今の時期は暖炉など使わないし、そもそも僕の部屋を彼女らが掃除などするはずがなかった。
わざと残しておいても良かったが、皿の上に料理が乗ったままだと、ロザリアがここぞとばかりに僕を嬲り始めるから、食ったふりをして後は布団に潜り込んでやり過ごす方が楽だったのだ。
具合悪そうな顔をして腹を押さえておけば、彼女はそれで満足して去っていくので。
『……なんとかしなくちゃ』
僕は、15歳で死ぬまでと同じように、乳母を筆頭とした使用人らに軽んじられ、虐げられる悲惨な日々を、どうにかしなくてはと考え始めていた。
そうだ。僕は、生き直すチャンスを与えられたのだ。
しばらくすると僕は、時間が逆行したとしか思えぬこの不可思議な事態を、そんな風にポジティブに考えられるようになってきていた。
悪意しかない大人たちに囲まれている現状、神霊力もなく、幼く力もない今の僕の状態では、どの程度の抵抗が出来るかは解らなかったけど。
でも、何もしないよりはきっとマシだし、なにより、前回と同じ惨めな人生を生きるくらいなら、命を賭けて抵抗するのも悪くないと、そう前向きに考えることが出来たからだ。
逆行前の僕は、こんな考え方など出来なかった。
ひたすら無能な自分を責め、悲観し、なにもかも諦めるばかりで。
自分から何か行動を起こそうなどと、考えもしなかったし、思いつきもしなかった。
もちろん僕がそんな風に育ったのは、乳母を始めとする使用人達の仕打ちのせいではあったけれど。
それ以上に、僕自身もまた、愚かで臆病だったのだと思う。
生き直すなら、何かを変えたい。
どうせなら、もっと自由に生きたい。
そして出来ることなら今度は、兄上と仲良く暮らしたかった。
『僕に何ができるかは解らないけど……兄上の役に立てたら…』
そのためにはまず、この世界のことを良く知っておかなければならないだろう。
以前の僕は自ら何かをしようとしなかったから、使用人たちの言うなりにただ無為に日々を過ごすだけだった。だから自分が生きている世界についてすら、知っていることがあまりにも少ない。
試しに僕は僕が生きているこの世界について、覚えていることをすべて脳裏に思い浮かべ始めた。
一万年前、世界に滅亡の危機が訪れた。
大地は荒れ、乾き、実りもなく、人々は次々に死んでいった。
ある時、そんな神に見放された大地に、さらなる試練が与えられた。
邪悪な力を持つ、悪王が世界を支配したのだ。
たった1人の悪王の登場によって、世界はますます混乱と死に満ち溢れ、滅亡の時は加速する一方となった。
生き残った人々は絶望に塗れ、生きる気力さえ失い始める。
その時、遥か緑の月から、救いの主が現われた。
4匹の神聖なる獣の姿をした救いの主は、恐ろしい力を持った悪王を滅し、さらに、地に残された神を目覚めさせて大地に緑を取り戻した。
そして世界に平和が訪れ、地に人は満ちたのである。
後に、4匹の獣は人となって、人の世を導く手助けをした。
これが世界に伝わる創世神話で、そして、この国を支える四聖公のルーツだと言われている。
『兄上はその四聖公の1人で…いや、今はまだ、後継者と言うだけで家督は継いでないんだっけ』
国の名はドラッヘシュロス。古い『かの地』の言葉で『竜の城』という意味だと聞いた。
その国を支えるのが四聖公と呼ばれる家系で、苗字は国の名をそのまま持っているが、名と苗字の間に家系を示す『色』が入っている。
シュワルツ(黒)、ヴァイス(白)、ロート(朱)、ブラウ(青)が各々のそれで、兄上と僕の家は黒──シュワルツとなる。
本来、国のトップは『神皇王』だが、それは長らく空位となっていた。
なので仮の皇位として、『皇王』位が用意され、四聖公の当代から、もっとも神霊力の強い者がその位に選ばれる仕組みとなっていた。ちなみに当代の皇王は、ロート家の先代当主が勤めているはず。
『……次の皇王には、兄上が最も有力視されていたっけ』
僕が死ぬ何年か前に、10歳年上の兄上がシュワルツ家を継いでいた。しかも家督を継ぐ以前から、20歳という若さで現皇王の宰相も務めていたし、神霊力も強い兄上ならきっと、数年後には皇王となっていたに違いない。
せめて、皇王となった兄上の姿を見てから死にたかったと、今でも思う。
そんな日は以前の僕に、永遠に訪れなかったけれども。
だけど何故だか僕には、もう一度チャンスが与えられた。
5歳の時点から人生をやり直すという、奇跡みたいなチャンスが。
だったら前のように何もせず、何も知らないまま終わるよりも、出来ることを何でもして、少しでも何かを変えられたなら──
それにはやはり知識が不足し過ぎていた。
僕の覚えているこの国や世界のことは、5歳の子供が知っていることとさほど違わないと、たった今ハッキリ再認識させられたからだ。
『こんなんじゃダメだ。もっと色んなことを知らなくちゃ…』
とは言っても家庭教師は望めない。何故ならとっくに辞めさせられていたからだ。
「坊ちゃまは我儘で我が強く、物覚えもたいそう悪いらしくて、先生もご苦労なされたようです」
いつだったか乳母が、父上にそう報告していた。
「お辞めになる時、おっしゃっておられましたわ。お力になれず申し訳ありません、と」
乳母は先生が自らの意志で辞めたように言っていたが、真相はもちろん違う。
僕に下手な賢しさを与えぬよう、乳母を筆頭に数人の使用人らが共謀し、何の罪もない家庭教師を陥れ、自ら辞めざるを得ない状況へ追い込んだのだ。
家庭教師の先生はとても優秀で優しかった。
ほんの短い期間しか教われなかったけど、僕が文字の読み書きができるのは彼のお陰と言って良い。もっとも、その優秀さ、公平さ、優しさゆえに、乳母から睨まれ、ありもしない罪をでっち上げられたのであったが。
それにしても何故、乳母は、そうまでして僕を、愚かな子供で居させようと執念を燃やしていたのか。今にして思うと不思議でならないが、それもそのうち解るときが来るだろう。
今もっとも重要なのは、使用人らに見つからず、どうやって必要な知識を得るか。
この屋敷にも図書室はある。以前の僕は一度も行ったことが無いけれど。
そこで様々な本を読むことによって、知識を得るのが一番手っ取り早いのは解っていた。けれど、それを乳母らが良しとせぬのは、家庭教師の件でも明らかだった。
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