弐ノ参 街の近くも、離れた邑も
「おぬしらがそんなにせっかちなら、前置きはナシで行こうかのう」
老人宅の居室に上がることを許され、卓を囲む椿珠(ちんじゅ)たち。
椅子が足りないことをすぐに悟った想雲(そううん)は、自分から着席を辞退し、土間でヤギの面倒を見ている。
「まあまあ、立派で可愛いヤギですねえ」
「メエッ」
珍しいお客にお婆さんも楽しそうである。
老爺が椿珠と軽螢(けいけい)を前にして卓の上に置いたのは、古ぼけた紙の冊子であった。
「これは、ワシのご先祖がここ河旭(かきょく)で書記役人をやっておった頃の日記なんじゃがな」
老爺がぺらりとページをめくったそこには「泰照(たいしょう)何年何月、云々」と書かれてある。
「百年以上は前だな。よくこんなもんを遺してたもんだ」
商売で古物を扱うこともあった椿珠。
その泰照という元号の年代を簡単に推定した。
一般常識の範疇であり、特に難しい話ではない。
「そうじゃ。この日記の中に、気になることが書かれておる。それは『壙南(こうなん)に奇書ありと某臣、朝廷に上奏す。皇主(こうしゅ)、人を遣わしこれを探し求めるが、遂に叶わず』とな」
昔々、ある大臣が「壙南というところに珍しい書があるようです」と朝廷で報告した。
ときの皇帝はそれを探させたが、見つかる気配がないので調査を取りやめた。
日記の内容はそのようなものだった。
居間の隣、土間でヤギとお婆さんの相手をしていた想雲が、横から意見をした。
「壙南って、千年以上前の王朝じゃないですか。そんな時代の古文書ならとんでもないお宝ですよ」
想雲の言う通り、かつてこの八州の地に壙南と呼ばれる古代王朝があった。
いわく、王の目は八つの地をすべて見渡すことができた。
いわく、あらゆる人民を徴発して手足のように働かせて、全土に石畳の道路を敷いた。
いわく、その支配が行き届かぬ場所は猫の額ほどもなかった、と。
現在も八州の各地を結ぶ主要道路、いわゆる国道のようなものを最初に整備したのは、壙南王朝であるとする説が強い。
しかしそれは歴史と神話の中間的な伝説存在であり、由来する物品が残っていて見つかったとしても、眉唾もののオカルトに足を突っ込みかねない。
この意見を聞いた軽螢。
歴史に詳しくない人間ならではの、別の意見を出す。
「普通に、この街から見た南のあなぐらとか、あなぐらの南って意味じゃね?」
壙とは字と音に従う通り、自然人工を問わず土坑のことを指す。
河旭の街に近いあなぐらの周辺に奇書がある。
そんな噂が、その日記に書かれていることの意味するところではないかと、軽螢は言っているのだ。
だとしても大きな問題があり、椿珠が指摘した。
「しかし百うん十年だか前、役人たちが必死で探したのに見つからなかったんだろう? それを俺たちが見つけるのは無理ってもんじゃないか」
「おぬしらがそう思うのなら、この話はここで終わりじゃなあ」
まさに他人事のように、老爺はお茶を飲みながら言った。
情報や手がかりが少なすぎる。
徹夜で張り込みまでしたのに徒労に終わるのかと、椿珠が呆れの溜息を吐こうとした、そのとき。
「あれ、なんか変だな」
軽螢が、服の胸元を抑えて唐突に言った。
彼が懐から取り出したのは、薄い黄色の小さな水晶玉。
それがぼんやりと、自ずから不思議な光を放っている。
「……なにかしら、怪しい力が働いているということですか?」
想雲が水晶に顔を寄せて聞いた。
彼の叔母である翠蝶(すいちょう)が呪いのせいで倒れたときも、この水晶玉が意味ありげな反応をしていたからだ。
両手で包むように、優しく水晶を握る軽螢が言う。
「嫌な感じはしねえけどな。なんかあったかいって言うか、くすぐったいって言うか」
理屈は不明として、この水晶と持ち主である軽螢の反応に、今まで間違いはなかった。
悪い予感がするときに水晶は悪い反応を見せ、それに軽螢も感応した。
その後、実際に悪いことが起きたのだ。
「ふーん……」
椿珠は口周りの付け髭をしごきながら考える。
水晶の働きは謎としても、だ。
目の前になにかの未知があり、それを追及するタイミングは河旭にいる今、このときしかない。
あとになって後悔するのも癪だと思い、椿珠は言った。
「よし、ちっとは真面目に探してみようじゃねえか、その奇書ってやつをよ」
その言葉と決意に老爺は笑って頷き。
「なら、ご先祖の時代にすでに探し尽くされた箇所を、おぬしらに教えてやろう。おぬしらはそこではない、他の場所を探すとええじゃろうな」
日記のページをめくり、河旭の周辺地図を参照しながら、老爺はここはダメ、ここはまだ手つかず、ということを三人に教えた。
「まあまあ、お爺さんったら、いつになく楽しそうですこと」
「メエ~~~」
お婆さんが優しい眼差しでそう言って、ヤギが相槌を打った。
夢中になって日記と地図を睨みながら、ああだこうだ言っている男たち。
老夫婦二人暮らしの質素な建物が、まるで重要な作戦を決めて進める、秘密基地の様相を呈していた。
「月が替わる頃には、角州(かくしゅう)に戻りたいからな」
日程のスケジュール限界、いわゆる「ケツカッチン」を基に、椿珠は「奇書を実際に探しに行くポイント」を地図の中から絞り込んで行った。
河旭の街中から馬で日帰りできる、あるいはせいぜい一泊二日、二泊三日で戻って来られる場所を、ピンポイントで調査する方針だ。
「それならば、先に時間のかかる場所を探した方が良いと思います」
想雲の意見に、椿珠も軽螢も同意の首肯を返す。
期日ギリギリになって、遠くに行くには時間が足りないという状況を招かないためにも、離れたところから探していくのがベターだろう。
「じゃあ、高山(こうざん)の北側からか」
軽螢が地図を指差し、言った。
名前の通り、河旭の都から見える最も高い山を高山と呼ぶ。
山を越えた向こうには、翔霏(しょうひ)が解呪のために一時滞在していた有名な沸(ふつ)の寺があるが、今は関係はない。
「その辺りなら何度も行ったことがある。確か渦を巻くほど深い河があるはずだな」
商人である椿珠にとっては通い慣れた道と土地。
頭の中で計算したところ、調査にまる一日を使ったとしても五日以内には河旭に戻ることができそうだ。
行動の指針を決めた椿珠に、老爺が情報を与えた。
「河のほとりに、古い民が暮らしていた家の跡(あと)があるのを知っておるかの」
「いや、それは知らねえな」
商売になりそうもないことに関して、椿珠はそこまで博識ではない。
古跡を観光地化するほどに、河旭周辺の観光産業は育っていないのである。
「行ったついでに見て来るとええ。なんでも、遥か昔の城跡かもしれぬという話じゃ。近くに住んどるもんに聞けば教えてくれるじゃろう」
「そっかい。まあ覚えとくよ」
ある程度の情報を整理し、椿珠たちは出発準備のため、市場へと向かった。
歩きながら、軽螢が椿珠に声をかける。
「椿珠兄ちゃん、爺ちゃんの家の土間に、ゼニ置いてったろ」
「なんだ、見てたのかよ」
本人的にはあくまでもさりげなく、椿珠は老人の家に金銭を置いてから立ち去った、つもりだった。
マメに家屋を掃除しているであろうお婆さんが、今日か明日にでもそれを見つけて喜ぶと思ったからだ。
金額にして、街の本屋で立派な装丁の本を一冊二冊は買えるくらいの大金である。
老爺のもたらした情報とワンダーに対して、相応の金額であろうと椿珠は判断したのだ。
「てっきり僕は、椿珠さんはあのお爺さんを嫌っているのかと冷や冷やしました」
想雲の感想もあながち外れてはいない。
最初はバカにされた感じがしてイライラした椿珠だが、奇書を巡る情報のやり取りの中でその感情はすっかり消えていた。
要するに椿珠も、目の前にワクワクが見えれば機嫌が良くなるという、普通の若者なのである。
「いいんだよ、ンなことは。さっさと必要なもんを用意するぞ」
「メエ、メエ」
椿珠は旅と調査に必要な資材や小道具、食料を買い足して、ヤギの背にどんどんと載せていく。
翌日の朝早くに一行は馬を借りて郊外へ出発し、高山の北のふもとを目指すのだが。
「赤土が多いですね……」
高山の山肌と地層の様子を見て、馬上の後ろにいる想雲が、心配そうな声を漏らした。
酸化鉄を多く含む土壌は赤土になり、それは鉄鋼の原料にもなる。
しかし、だからと言って想雲がなにを案じているのかわからない椿珠は聞いた。
「この辺りの山は赤いって話だな。それがどうかしたか?」
「いえ、土が赤いということは、土の中になにかが眠っていても、溶けてなくなっている可能性が高いのかなと」
土壌が酸性であるということを、想雲は言っているのだ。
酸性土壌は極論すると弱い塩酸や硫酸のようなものであり、有機物を溶かす性質がある。
仮に、古文書のようなものが土中遺跡に埋没していたとしても、植物紙や羊皮紙は有機物であるため、溶けて土に還っている恐れがある。
想雲は麗央那に付き合って中書堂(ちゅうしょどう)で地理地学の博物誌を読んでいたから、そのことを知っていたのだ。
「なるほどねえ。少し周りの邑で話を聞いてみるか」
椿珠はあまり悲観せずに言って、先を行った。
軽螢が懐の水晶をちょくちょく気にしている。
その様子から、この土地に「なにか」が眠って隠されている可能性は高いと踏んだからだ。
ふもとの小さな邑で三人と一匹が聞いた情報は、次のようなものであった。
「確かに、川の向こうに遺跡だとか大穴はあるけどよ……怪魔だか怨霊だかが出るってんで、誰もわざわざ行きやしないぜ」
目指すべき古跡とあなぐらは、確かに存在した。
しかしその場所も、一筋縄ではいかないようだった。
「どうすンだよ、戦えるやつなんかいないぜ」
この中で最も修羅場慣れしているはずの軽螢が、自分は頑張りたくないと真っ先にさじを投げるのだった。
「お、お二人になにかあったとしても、僕が必ずッ……!」
気合いを入れてくれている想雲のことも、椿珠はイマイチ、信用してはいないのだった。
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