第43話: 上げて、落とす (下界基準)




 それからの千賀子の反応は、なんとも静かなモノであった。



 突然の事に少しばかり溺れたが、膝をついただけでも余裕で顔が出る高さしかない。


 呆然と、水溜り(水風呂と言えば、皮肉か……)に浸かる己と、この惨状を引き起こしたロウシを、交互に見やった千賀子は……しばし、何も言えなかった。



 ただ……何と言えば良いのか、スーッと己の中にあったナニカが冷めていく感覚を覚えた。



 体温だとか、膀胱だとか、そういう即物的な事じゃない。


 もっと奥底に沸々と湧き始めていたナニカが、落ち着いてゆくのが分かった。



 ……と、同時に、だ。



 頭が冷えたおかげで、千賀子は己が如何に普段とは違う状態になっていたのかに気付く。


 怒っていたとか、高ぶっていたとか、そういう即物的な事じゃない。


 もっと奥底より沸々と湧き始めていたナニカが、表に出ていた。先ほどの己は、そうだったのではないかと千賀子は思う。


 何がどう変わっていたのかは、自分でも分からない。


 しかし、確かに先ほどまでの己が、普段とは違う状態になっていた……ということだけは、確信を持って断言出来た。



「…………」



 そして、千賀子は……しばし、そのままの姿勢で呆然とした後で。



「あぁぁ~~……ううぅぅんん…………」



 ようやく、止まっていた頭が動き出し、感情を処理できるようになったことで……我慢出来ず、唸ってしまった。


 穴が有ったら入りたいとは、正しくこの事を言うのだろう。


 ここが布団の中だったら、千賀子はそのまま半日は出て来なかっただろう。押入れでも、同様。


 山の中だったなら雄叫びをあげながら神通力で飛びまわっていただろうし、河川だったら、転がっている小石をこれでもかと投げ入れていたかもしれない。


 それほどの、羞恥心。


 物理的に全身を冷やされたから見た目には出ていないが、そうでなかったら首筋どころか、全身の肌が赤くなっていたぐらいの、強烈な感情の爆発であった。



「……おしっこ、行きたい」



 けれども、何時までもそうしているわけにもいかない。


 頭が冷静になれば、身体もまた冷静になる。


 ブルリと、震えが全身に走る。ボケーッと呆けていたが、手水舎の水は冷たい。


 氷水と言えば大げさだが、人が入るには冷たすぎるのは確かだ。


 よっこらせと外に出れば、温かい季節だというのにブルリと再び身体が震えた。改めて、己の身体が冷え切っているのを自覚する。



「……ありがとう、ロウシ」



 お礼の言葉に、ロウシはブフフンと鼻息を軽く吹いただけで、それ以上は何も話さなかった。



「……いいよ、ありがとう。でも、女神様の事はあまり嫌わないでね」



 ただ、やり過ぎたかなとちょっと申し訳なさそうにしているロウシに気にするなと答えた千賀子は……とりあえず、風邪を引かないうちにと神社の風呂へと向かった。



 ……自宅の風呂ではないのかって? 



 こんなずぶ濡れで自宅に帰れば、大騒動になるのは間違いなし。加えて、お風呂が沸くまで冷え切った身体で待たなければならない。


 さすがの千賀子も、風邪を引いてしまうというものだ。


 ガチャのおかげで人並みより頑丈だと自負してはいるものの、あくまでも人間の身体だ。神通力だって、出来ないことはある。


 お腹を冷やせば下してしまうし、猛暑の中に居れば熱中症になってしまう。同様に、体調を崩す時は、崩してしまう。


 それに、これまで何度か神社のお風呂は利用した事があり、今のところ何かしらの異常は起こっていない事もあって、千賀子はそこまで警戒する事はなかった。


 ちなみに、着替えも実は神社に常備されていたりする。ただし、下着は一着も無い。


 そっちは温泉施設や旅館にありそうな浴衣というか、その恰好で外に出れば注目を集めてしまうので、室内以外では着る事はないが……他に着替えが無いので、仕方が無かった。






 ……。



 ……。



 …………しっかりと、身体を温めた後。



 冷蔵庫に常備されてあるコーラ(瓶)をグビグビと一気飲みした千賀子は……2本目を片手に、境内を見つめると……よっこらせと、社へと登る階段に腰を下ろした。


 そうして、ぼんやりと境内から……そこから先に見える、外の景色を眺めながら……千賀子は思う。




 ……『神社』の敷地内は、いつも優しい空気に満ちている。




 暑くなければ、寒くもない。なんと言い表せば良いのか、いつもちょうど良いのだ。


 雨が降っても神社の中はいつも青天だし、風が吹いても神社の中は緩やかなそよ風が吹いているだけ。


 空気は澄んでいて、嗅ぎ慣れた排気ガスの臭いもなければ、ドブのすえた臭いもない。ぶっちゃけてしまえば、ここには生活の臭いが無い。


 ここには、苦しみも悲しみも痛みも、何も無い。


 ずっと、穏やかな時間が流れていて、優しい空気に満ちている。息を吸えば、それだけで心が落ち着いてくる。



 ──ブフフン。


「……分かっているよ、ロウシ。ありがとう、今日は助かったよ」



 ぼんやりとそんな事を思っていると、何時の間にか小屋から出てきたロウシが、千賀子の蕎麦で鼻息を吹いた。


 それはまるで、千賀子を叱るかのようで……分かっていた千賀子は、そうじゃないよと首を横に振ると、一口コーラを飲んだ。



「……楽しかったんだ、女として気ままに振る舞う事が」



 それから、ポツリと……本音を零した


 対して、ロウシは何も言わない。


 ただ、ブルルッと軽く首を振った後、緩やかに近寄り……千賀子を見つめた。ただ、それだけ。


 ナニカを語りかけてくるわけでもないし、話しかけてくるわけでもない。ただ、耳を傾けているだけ。



「1人の女の子としてさ、振る舞うのが楽しかった。男たちが緊張して身体を固くしているのも、こっちの一挙一動でドギマギしているのを見るのも、すごく楽しかった」



 だから、千賀子も、本心を語った。


 誰かに聞いて欲しいけれども、誰にも聞いて欲しくない。人ではないロウシは、まさに最適の相手であったから。



「……仮に、そう、仮にの話だけどさ……私はさ、昔は、以前は男だったんだよ」



 だから、千賀子は語った。



「見た目からは想像がつかないでしょ? 以前の私にはちん○が生えて、胸毛が生えて、ヒゲも生えて、普通の男だったんだ」



 誰にも、兄にも、両親にも、祖父母にも、友人たちにすら、その一片すら見せなかった内面を、初めて千賀子は言葉にした。



「でもね、今はそれが思い出せないんだ。有って当たり前のモノだったのに、どれも今は思い出せないの」



 それは……どこまでも平坦で、どこか寂しさを含んでいた。



「私の股間には、ちゃんと勃起するちん○があった。玉がぶら下がっていて、胸は平たくて、腕は太く、今よりも重い物が持てたし、ご飯だって倍以上は食べられた」

「でも、今は思い出せない。自分の身体にソレがあった感触を忘れてしまった」

「最初は違和感があった。でも、違和感は長く続かなかった」

「そりゃあ、そうだよ。だって、自分の身体だもの。毎日毎日小便出して、風呂で洗って、どこから見たって女なのだから、そりゃあ馴染むよ」

「女の裸を見てもさ、何にも思わなくなった」

「最初はさ、感覚の違いからドキッとした事はあったよ。でもさ、実際に自分の身体にソレが付いたらさ……そんな感覚、すぐに分からなくなった」

「……気付けば、胸だって女の子になっていた」

「これも最初はさ、ちょっと乳首が痛いなあって程度だった。その時はさ、まだまだ子供だから、当時の私はまだ女としての自覚が薄かった」

「でも、乳首のまわりが膨らんできてね、プクッと……おっぱいって言える形になった時、その時私はようやく実感したんだ」

「──ああ、私は女の子だったんだ……って」

「不思議なもんだよね。生まれた時から女だったし、小便するたびに女なのが見えていたのに、その時になってようやく……女としての自覚が生まれたんだ」

「前世の記憶はあるけどさ……でもさ、もう、10年にもなるんだよ。自分を、私を思い出してから、それだけの月日が流れたんだ」



 そう、呟いた千賀子の視線は……水滴が付いた、コーラ瓶に向けられていた。



「そりゃあ、忘れるよ。忘れて、当たり前だよ」

「……でも、無くなったわけじゃないんだ」

「なんというか、自分でも変な話だとは思うけど、どっちかつかずな感覚だったと思う」

「ちゃんと、女としての自覚はあるんだ。でも、同時に、男としての感覚も覚えているんだ」

「今も、ずっと」

「胸やお尻が大きくなればなるほど、男たちの視線が集まるようになればなるほど、女としての私が強くなっていく」

「でも、男の私は消えないんだ」

「今も、ずっと」

「どれだけ小さくなっても、どれだけ消えてしまったように思えても、私の奥底にある『男』は無くならない」

「忘れてしまうけど、無くなったわけじゃない。ふとした時に、それを思い出す。思い出してしまう」

「私は、どっちにも成れないんだ」

「男として生きられないし、女としても生きられない。今日、女の子として振る舞ってみて……それが、身に染みて分かった」



「男として生きるには、私の身体はあまりに女が過ぎるから」


「女として生きるには、私の心が男である事をやめられない」




 その言葉と共に、千賀子はコーラ瓶を置いて、境内へと下りると……スルリと、浴衣を脱ぎ捨てる。


 露わになったのは……それは、見事としか言い表しようがない、美しい女体であった。


 非の打ち所がないというのは、こういう事を言うのだろう。


 他の女性たちと同じく日を浴びて、毎日汗を掻いているというのに、その身体には日焼けの痕もなければ、シミも無い。


 虫刺されの痕もなければ、産毛も生えていない。


 頭の先から爪先まで綺麗で、ただ立っているだけで、周りを委縮させてしまうほどの魅力がそこにはあった。


 仮に、この場に第三者が居ればとんでもない事になっていただろう……そんな状況で、ポツリと千賀子は呟いた。



「……そりゃあ、こんな身体の若い娘なんて、周りが放っておかないよね」



 両手で、己の胸を軽く揉んだ千賀子のその言葉は、『男』として見た、己の身体に対する感想であった。


 そう、女としての感覚で見れば、綺麗だとは思うが、己の身体でしかない。


 しかし、『男』としての感覚で見たならば、はっきり言って、目に毒過ぎる。


 こんなの、年頃の男子が放っておくはずが無い。


 仮に己が第三者の男として千賀子を見たならば、その美貌に幾度となく視線を向けていただろう、それはもう日常的に。



(あ~あ、明日からまた一人ぼっちかな……まあ、仕方ないか)



 だからこそ、千賀子は……その気も無いのに傷付けてしまったクラスメイト達の事を思い、これから訪れるであろう未来を覚悟するのであった。



「……あ、そうだ」



 そんな中で、ふと。



「ロウシ……女神様のこと、あんまり怒らないでいてほしい」



 ハッキリと、千賀子は曖昧にしていた問題を、ロウシに話をしておくことにした。



「女神様は、私の中にある『男』を抑えただけなんだ。どっちつかずのまま生きるのは心苦しかろうと、気を利かせてくれただけなんだ」


 ──ヒヒン? 



 思わず……そう言わんばかりに軽く嘶いたロウシに、「そうだね、女神様はやり過ぎる事が多いよね」千賀子は……曖昧に、笑った。



「でもね、女神様は女神様なりに、私の事を気に掛けているだけだから……あまり、怒らないでね」


 ──ヒヒン。


「……どうしてって、そりゃあ、女神様が私に良くしてくださるからだよ」



 きっぱりと、千賀子は言った。



「ねえ、ロウシ」


 ──ヒヒン。


「当たり前っていうのは、この世に何一つ無いんだ。私は実際に死んで、この世界に生まれ変わったから、余計に……それが、分かる」



 そして、それは媚びでも何でもない、千賀子の本音であった。



「健康な身体は、当たり前じゃない」


「美味しい食事が食べられるのは、当たり前じゃない」


「勉強すれば覚えられる事だって、当たり前じゃない」


「安心して眠り、不安もなく明日を迎えられる事だって、当たり前じゃない」


「──私は、本当に恵まれているんだ」


「運良く健康な身体に生まれて、ガチャでより元気な身体になって」


「運良く美味しいご飯を食べられて、美味しい甘味も食べられる環境に生まれて」


「運良く勉強すればしっかり覚えられて、努力した分だけ結果が出る、恵まれた頭があって」


「運良く怯えて眠ることもなければ、このまま明日が来なければ良いと思う事もない」


「私自身が本当に自分の力だけで得た物なんて、ほとんど無いんだ。運良く、それが出来る土台の上で生まれただけ……ただ、それだけ」


「……たぶん、他の人にこんな話をしたら、変な目で見られるでしょうね」


「でも、これが私の本音。これで不幸だと思うなんて、私には出来ないよ」



 ……。



 ……。



 …………しばしの沈黙の後、千賀子は軽くため息を零すと。



「ありがとう、聞いてくれて……ところで、ロウシはさ」



 振り返った千賀子は、改めてロウシに笑いかけた。



「前から気になっていたんだけどさ、ロウシって本当に……ううん、なんでもない」



 そして、そこまで問い掛けた辺りで……それ以上の言葉は出て来なかった。


 ……なんとなくだが、千賀子はロウシが只者ではない事には気付いていた。


 残念ながら、それ以上の事は千賀子には分からなかった。


 まあ、女神様から名指しで殺せと指示されたあたり、ただの馬でないのは明白だったけど。



「これからもよろしくね、ロウシ」


 ──ヒヒン! 



 それでも、ロウシもまた、己の事を想って動いてくれているのは分かっていたので、ロウシが自分から伝えようとしない限りは、気付いていないフリをしようと……千賀子は決めたのであった。



 ──ブフフン! 


「あ、はい、ごめんなさい、はしたないようね、すぐ服を着ます……」



 本当に、ある意味己以上に気遣ってくれているなあ……と、千賀子は思ったのであった。






 ──なお、その日の夜。



『──ぴんぽんぱんぽ~ん、お知らせです』


 ──出たわね。



 仮に、この場に諸々の事情を知っている第三者が居たならば、思わずそんな言葉が飛び出していただろう。



(……んん、女神様? 毎度のことだけど、唐突ですね……)



 とはいえ、今回ばかりはタイミングが悪かった。


 思い返せば朝から遊びに行ったりボウリングではしゃいだり、手水舎に落ちたり、それでお風呂に入ったりと、色々なことがあった。


 加えて、翌日からぼっちになると予感していた千賀子は、疲れもあって早めの就寝。何時もよりも、ぐっすりと深く寝入っていたのだ。



『さきほど、シークレットミッション『累計射精回数1000万回』、『累計射精量1500トン』、『累計死亡者数4444名』、この三つが達成されました、拍手します、ぱちぱちぱち~』


(ああ、そうなんですか……)



 だから、女神のアナウンスによって目が覚めた千賀子だが、ほとんど意識が眠りの中をさ迷っていたせいで、女神様の言葉の1割も認識出来ていなかった。



『ちなみに、死亡者の内、100名ぐらいはテクノブレイクでぽっくり行きました。いやあ、魅力的過ぎるのも考え物ですね、でもまあ、可愛いから私が許します、女神様ポイント2兆点です』


(あい、そうっすね……)


『おや、ずいぶんと眠そうですね。ウトウトしているのも大変愛らしくて10万年ぐらい眺め続けたい気持ちになりますが、これは愛し子へのご褒美なのです、さあ、いでよ、特別ルーレット!!』



 その言葉……まあ、千賀子にしか聞こえないテレパシーなうえに、千賀子以外には見えないルーレットなのだけれども……とにかく、千賀子の前に出現した。




 ──『妄想孕ませ累計100万回記念ガチャ』──




 それは、とんでもなく酷いタイトルが上部に取り付けられた、とんでもなく酷いルーレットガチャであった。


 ……いや、もう、本当に……ねえ? 


 千賀子の意識がハッキリしていたら、それはもうかつてないレベルでドン引きしていたところだが……不幸中の幸いというべきか、聞いている千賀子の頭は9割以上眠りに入ろうとしていた。



『う~ん、早く可愛い愛し子のやや子を抱き上げたいのですが、愛し子の気持ちも大事……そんな私の憤りを込めた、ご褒美ガチャ……さあ、愛し子よ、回すのです!』


「あい……」



 辛うじて……本当に辛うじて、呻くような返事をした千賀子は、ガチャルーレットが回るのと同時に──完全に、再び眠りの世界へと旅立ったのであった。




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