一章
第2話:
月日は若干流れ、一月末のある日のことである。
帰宅した僕は、学生らしく勉学に励もうと机に向かったわけなのだが、肝心の宿題がどこにもない。明日の朝、提出の宿題である。スクールバッグをひっくり返して、血眼になって死に物狂いで探すが、やはりないものはない。どこにもない。
ファック、と思わず叫んでしまいそうになったが、はしたないのでやめておいた。
どうしよう? 明日、早めに登校して仕上げる? いや、できれば今日中に仕上げておきたい。朝の短時間で仕上げられるか、にわかに怪しい。宿題は作文であり、友人に見せてもらって解決する類のものじゃない。伝家の宝刀、コピー&ペーストも使えない!
思案の果てに、僕はため息混じりにコートを羽織った。高校までは片道三〇分強。近くはないが、それほど遠くもない。壁にかかった時計を確認する。午後五時一五分。ふむ、夕食までには帰ってこれるな。
家を飛び出すと、最寄り駅まで全力疾走。体の火照りが、冬の寒さを吹き飛ばす。電車に乗り、舞池駅で降りると、再び全力疾走。校門に到着する頃には、さすがにいくらか汗をかいていた。
不用心にも、校門は見事なまでに開いていた。
グラウンドや体育館から、ほとばしる熱いパトス。運動部の汗と青春の匂い。吹奏楽や軽音楽の奏でるアンサンブル。どこからともなく聞こえてくる悲鳴と奇声。普通に騒々しく、僕は校舎を爆破したくなった(※もちろん冗談ですよ)。
昇降口の下駄箱で、ローファーから上履きに履き替える(残念ながら、ラブレターは入ってなかった。嗚呼、残念)。
校舎は四階建てである。一階が職員室や保健室などの特別教室が並び、二階が三年生の教室、三階が二年生の教室、四階が一年生の教室である。
僕は階段を二段飛ばしで駆け上がる。四階まで上がるのは、地味に面倒だ。学年が上がるにつれて、ちょっとだけ楽になるシステム。教師連中の根城は一階なので、彼らが詩頓高校の頂点に君臨しているのは間違いない。これが年功序列社会というやつか。
一年一組の教室に着いた――のはいいんだけど、鍵がかかっていてドアが開かない。うわあっ、しまった。あたしって、ほんとバカ。
階段を駆け下り、職員室に侵入し、一年一組の鍵を拝借する。何人かの教師が不躾な視線を浴びせかけてきたので、何見てんだよと睨み返した――なんてことはなく、へらへら愛想笑いへこへこ会釈しておいた。媚を売る練習である。
再び階段を駆け上がる。ああ、無駄な運動をしてしまった、と反省してみるが、エネルギーは有り余っているので、とくに問題はなかった。
鍵を開け、教室に入ると、手早く宿題を回収。
好きな子のリコーダーをペロペロしてやろうか、と魔が差しそうになったが、高校生はリコーダーを使わないし(選択授業の音楽で使うのだろうか? ちなみに、僕は書道選択となった)、そもそも好きな子なんていない。まだいない。
スキップしながら、人気のない廊下を駆け抜ける。上履きのゴムと床のリノリウムが擦れて、きゅっきゅと不快な音を立てる。誰もいないので、大音量で歌ってもかまわないのだが、曲がり角の向こうに人がいた場合、大惨事となりかねない。仕方ない、口笛で留めておいてやろう。
ひゅーひゅー。
口笛というよりも、過呼吸を起こしたような感じになってしまった。
吹いているうちに、次第に半濁音化してきた。
ぴゅーぴゅー。
うんうん、いい感じ。
階段を下りようとしたところで、僕は足を止めた。ついでに口笛も止めた。階段のある踊り場の手前には、トイレがあった。男子用と女子用が仲良く並んでいる。別に尿意や便意を催したわけじゃない。
――声が、聞こえたんだ。
なんて言うと、心霊現象じみた怪談話の始まりを予感させるが、そういうわけじゃなくて、確かに聞こえたわけである。
人の声が。女子トイレから。
これが、仲良しこよしの連れションならば、当然ながら素通りであったわけだが、どうやらそういうのとはちょっとばかし事情が異なるようだ。
笑い声が女子トイレのドアを貫通して、僕の鼓膜を震わせた。笑い声といっても、一般的なものとは性質が異なる。嘲笑、とでも形容すべき類の下卑た声である。
ドアに耳を当て、聴診のごとく本格的に盗み聞きを試みようと思ったのだったが、女子トイレに耳を当て文字通り聞き耳を立てている様を誰かに目撃されようものなら、一瞬にして変質者にジョブチェンジである。転校から一か月足らずで退学はまずかろう。
悩んだ末に、僕は男子トイレに入った。
高校のトイレとしては、比較的綺麗な部類に入るだろう。少なくとも、前に通っていた高校や中学校のトイレと比べると雲泥の差である。白壁はその白さをキープし続けており、くすんでいたり、黄ばんでいたりはしない。
しかし、綺麗な白壁とはいえ、男子トイレの壁である。耳をくっつけるのは、微妙にためらわれる。両トイレ間の壁は薄く、壁に近づいただけでも姦しい声が聞こえなくはない。
「アハハ! マジウケるんだけど」「あれ? もしかして、泣いちゃってるぅ?」「こんなんで泣くなよなぁ、ブス」「ねえ。次、どうする?」「服でも脱がせてみる?」「いいね。剥いちゃおっか」…………。
断片的に聞こえる言葉の数々から、壁を隔てて陰湿ないじめが行われているであろうことは想像に難くない。
高校生にもなっていじめかよ。僕はため息をついた。白い吐息が空気に融けて消える。……ん、窓が開いている。換気をして閉めるのを忘れたのか。なんと不用心な。窓を閉める。ばんっ、とわざと勢いよく音を立てて。クレセント錠をかけたところで――。
「やべっ」「誰かいる!」「早く行こっ」と慌てた声。
僕はトイレのドアをほんの少し開け、そこから外の様子を窺った。女子生徒が三人、走り去る。男子トイレの前を通り過ぎると、彼女たちは階段を慌ただしく駆け下りていった。ドアを開け、廊下に出る。相変わらず、人気はない。
「今の三人、確か同じクラスの奴らだったよなあ……」
女子トイレのドアは、僕を招いているかのように全開だ。招かれているのならば、仕方あるまい。僕は何食わぬ顔で正々堂々と女子トイレに入った。床は水浸しで、青いバケツが転がっているのが目に入った。右手に個室が五つ並んでいる。いずれもドアは開いており、用具入れからはモップがこんにちは。
真ん中の個室から、すすり泣く声が聞こえてくる。もしかして、トイレの花子さん? あるいは、嘆きのマートル? むろん、そんなはずはない。そっと覗くと、泣き声が止み、便器に座った少女がこちらを見上げる。実体のある少女だ。大きな瞳が涙で潤んでいる。彼女は鼻を啜ると、小さく悲鳴をあげた。
「……大丈夫?」
「あっ、うっ……だ、大丈夫、ですっ……」
彼女の制服はずぶ濡れだった。寒さからか、小刻みに震えている。あまり大丈夫そうには見えない。目が合うと、彼女は露骨に目を逸らした。僕と目を合わせるのが嫌なのか、目が合うという事象そのものが嫌なのか。
立ち上がらせるために手を差し伸べたが、彼女は僕の手を掴もうとはしなかった。仕方がないので、僕のほうから彼女の手を掴んで立ち上がらせる。蚊の羽音くらいのボリュームで「ありがと、ございます……」と礼を言われた。あるいは幻聴かもしれない。
個室から出ると、彼女はブレザーを脱ぎ、雑巾のようにぎゅっと絞った。びちゃびちゃびちゃ、と床に水が流れ落ちる。セーターも同様に絞った。白いシャツが肌にはりつき、下着のラインがくっきりと露わになっている。
僕は目を逸らした。用具入れを軽く整理し、青いバケツを入れ、ドアを閉めた。
彼女はスカートをたくしあげて、やはり雑巾のように絞っている。白くて細い太ももが見える。僕という存在を忘れているかのような大胆さだ。寒そうだな、と僕は思った。
彼女の顔を見る。地味で化粧もしていないが、よく見ると綺麗でかわいらしい顔立ちをしている。うん、見覚えがあるな。そこで僕は、彼女が同じクラスの生徒であることを思い出した。そう、確か名前は――。
「座間さん。これよかったら」
僕は着ていたコートを脱いで、座間さんに差し出した。
すると、彼女はおどおどしながら、弱々しく手を振る。
「え、でも……」
「寒いでしょ?」
「私、濡れてるから、その……」
「コートくらい、別に濡れたってかまわないよ」
受け取ろうとしなかったので、しっとりと濡れたブレザーの上からコートを羽織らせた。座間さんはやはり、呟くように礼を言った。その後、なぜかおずおずとした口調で、
「あの……学前くん……」
「なぁに?」
僕はそう返しながら、女子トイレのドアから顔をほんの少しだけ出して、廊下に人がいないことを確認する。
「あの、えっと、その……」
「?」
待ってみたが、続きの言葉はなかった。
廊下に出ると、「きょ、教室に行ってもいいですか?」と座間さんが聞いてくる。『駄目だよ』と言ってみたくなったが、冗談が通じそうにないのでやめておく。僕は頷くと、座間さんが羽織っているコートのポケットから、教室の鍵を取り出した。
教室までの短い道程を、僕たちは無言で歩く。
鍵を開け、教室に入ると、座間さんは小走りに自分の席へと向かった。彼女の席は、僕より二列後方窓際で、距離的にはなかなか遠い。フックにかけてあったスクールバッグを机の上に置き、中をがさごそと漁る。
「何を探してるの?」
僕が覗きこもうとすると、座間さんは慌ててスクールバッグを抱きしめた。
「う、ううん。探してるとかじゃなくて……なくなってる物がないか、確認していたんです……」
「で、どうだったの?」
「大丈夫でした」
「そう。よかったね」
教室を出ると、職員室に鍵を返しに行った。
座間さんは忠実なお供のように、僕の半歩後ろをついてきた。僕と座間さんは一頭身ほどの身長差があるので、その分、歩幅にも大きな差がある。僕は座間さんに合わせて、ゆっくりめに歩いた。
「あのっ!」
昇降口で上履きからローファーに履き替えていると、座間さんがコートの裾をぎゅっと掴み、一大決心を告白するかのような口調で言った。
「さっきのこと、誰にも言わないでください!」
「ああ、そのことなんだけどさ――」
僕は下駄箱の扉を閉める。
「――座間さん、いじめられているの?」
言った瞬間、思った。聞き方がストレートすぎたかもしれない、と。もう少し婉曲的な、オブラート二重包装のマイルドな聞き方をすべきだったか。
座間さんはコートの裾をぎゅっと掴んだまま、俯いて震え出した。泣きそうなのを、必死に堪えている。
「ごめん」
「……っ」
座間さんは俯いたまま、昇降口を出て行った。
僕はため息を一つばかり吐き出すと、座間さんの後をついていく。地獄のような重苦しい空気が、僕たちの間に立ち込める。もっとちゃんと謝るべきだろうか? でも、謝るってどんな風に? 『ストレートに聞いちゃってごめーんねっ』――いや、煽ってるだろ、それ。じゃあ、土下座? いや、土下座をするのはおかしいだろ。
正門を出たところで、座間さんは急に立ち止まった。あまりにも急だったので、ぶつかりそうになった。立ち止まるときは、その旨を事前に伝えてほしいな。座間さんはロボットみたいに綺麗に一八〇度体を回転させ、ぽつりと言った。
「そうです。私、いじめられてるんです」
「あの三人に?」
「…………はい」
座間さんはこくりと頷いた。
僕は開きかけた口を、いったん閉じる。今ここで、座間さんが受けているいじめについて、根掘り葉掘り聞くのは、得策とは言えないだろう。彼女のまとっている雰囲気からして、そのことについてあまり触れられたくないように見える。
それに、僕たちは知り合ってまだ一か月にも満たないただのクラスメイトで、まともに会話したのだって今日が初めてだ。友達でもない――親しくもない――異性のクラスメイトに、自らの抱えた深刻な問題について話したくはないだろう。
言いあぐねていた僕に対し、座間さんはもじもじしながら、
「あの……まだお返事、聞かせてもらってないです……」
「返事?」
あれ? いつ告白されたっけ?
首を傾げている僕に、座間さんは今にも泣き出しそうな顔で懇願する。
「私がいじめられていること、誰にも言わないでください……」
「ああ、うん。そのことね。わかった。わかったよ」
僕は慌てて頷いた。スマイルを添えて。
「言わないから、そんな顔しないでよ」
すると、座間さんはほっとした表情を見せた。
いじめに遭っていることを、吹聴されるのが嫌なのだろうか(まあ、誰だって吹聴されるのは嫌か)。
おそらく、座間さんはいじめられていることを、弱みや引け目のように感じているのだろう。でも、僕としては、それは弱みでも引け目でもないと思う。むしろ、いじめている側がそう感じるべきである。
彼女はいじめられていることを、誰にも相談せずに、一人で抱え込んでいるように見える。それはよくないことだ。抱え込んだところで、問題は何一つとして解決しない。平行線をたどるか、むしろ悪化する恐れもある。
誰かに相談すべきなんだろう、きっと。それがたとえ、ほとんど赤の他人といってもいい僕であろうと、相談しないよりは幾分かマシだ。
だから、僕は言った。
「いじめのこと、僕でよければ相談に乗るよ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
やんわりと拒絶された。
愛の告白をしたってわけじゃないのに、なぜか振られたような惨めな気分になった。
小学三年生のとき、クラス一の美人である高嶺の花子さん(仮名)に告白し、見事なまでに玉砕した友達を、一か月くらいからかったことを思い出した。あのときはすまなかったな、木山。
僕は何事もなかったかのように言った。
「帰ろっか」
「あ、はい」
駅に向かって歩き出した僕たちを嘲笑うがごとく、一陣の風がびゅうと吹いた。真冬の風は凍えるほど冷たく、僕たちは体を震わせ、同時にくしゃみをした。座間さんは「くちゅん……」と、僕は「くしゅんっ!」と。くしゃみ一つとっても個性って出るものなんだな、と僕はしみじみと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます